仏像の修復は新しい美の創造

 今日では名刹と呼ばれる寺はどれも荒廃していた。明治政府が唱えた神仏分離が原因だった。この政策は、寺の立場を弱めるだけでなく、千年を超えて伝えられてきた美と信仰の伝統を根絶やしにしようとしていたのである。
 仏師は仏像をつくることだけでなく、修繕で生計を立てていたのだが、そうした仕事も失われるほど状況は深刻だった。本来ならば買えるはずのない仏像が、今日、時折、市場で取引されることがある。ちょうど天心らが東京美術学校(以下、美校)を開校したころ、やり繰りに困窮した寺が、宝物を手放したからである。外国人に買われ、海外に運ばれたものも少なくない。
 美校を舞台に天心が、大観、春草、観山、波山などの新しい才能を生みだした功績は大きいが、芳崖、雅邦、光雲などの名人と呼ぶべき人々が仕事を奪われ、失意にあったとき、彼らの内なる美神によびかけ、筆を、鑿をふたたび握らせたこともそれに劣らない重大な意義があった。だが、天心の試みはそこだけでは終わらない。一八九〇(明治二三)年、美校では二十九歳で教授兼校長の任に就き、学校の運営、教育の双方の責任者になり、部門も日本画だけでなく、彫刻、漆工も強化され、九六(明治二九)年には黒田清輝を教職に招いて西洋画科を立ちあげ、美校は総合美術学校へと発展しようとしていた。だが、そうしたときにも天心は美校の学生たちに、作品の制作とはまったく異なる、あることを行わせていた。
 仏像の修復である。人を育て、あるいは熟練の者たちを蘇生させた天心は、いよいよ封印された歴史をよみがえらせようとしていたのである。のちに美校の彫刻の教師になる新納にいろ忠之介ちゅうのすけ(一八六八~一九五四)が学生だったころのことである。あるとき天心は、博物館に収蔵されていた破損した古い仏像を持参し、これを直すように命じた。当時を振り返って、新納は次のように述べている。


あとから思い合わせると、先生の計画は中々久しかった。私の美術学校生徒の内から、先生は屢々博物館の仏像などを持ってきては、修理を命じて居られた。ツマリ私は、お恥しいが先生から、かねて其意味で目をつけられていたので、其後いつともなく仏像修理専門家という穴へ引きこまれてしまった。
(「奈良の美術院」)

 才能ある若者たちに実際に古仏にふれさせ、その力量をはかり、深化させる。修復には創る以上の経験がいる。一つの像のなかに歴史の声を聞き、その由来を見定め、それを再現できなくてはならない。そうした試みを繰り返しながら天心は、本格的な古寺修繕事業に踏み出すときを見定めていた。天心の眼に狂いはなかった。新納はのちに仏像修復の第一人者となる。その業績は、彼の五十回忌を記念して美術院によって編纂された『仏像修理五十年』に詳しい。
 本論では修理と復元の意味を込めて、修復という言葉を用いるが、天心とその弟子たちが用いるのは一貫して「修理」である。そこには「理」を修めるという字義通りの意味が込められているのだろうが、今日にはもうその語感を感じることは難しいので、修復という表現を使う。
 後年(一九〇一年)のことだが、東大寺法華堂(三月堂)にある仏像の修復が決まったとき、天心はその仕事を新納にまかせようとする。このときすでに新納には、東北・平泉にある中尊寺金色堂修復という大きな仕事を成し遂げた実績があったが、このようなむずかしい仕事はできないとその申し出を辞退する。すると天心はこういった。
「むつかしい事をやるのが、研究家の仕事じゃないか」。それもいつになく激しい口調で一喝し、古寺の修復、保存の仕事は「研究を眼目としてやらねばならない」、職人になるだけでは不十分だ、仕事はあくまで「研究的」なものでなくてはならないと力説したという。
 研究もよいが、もし諸仏に傷でもつけるようなことがあったら取り返しのつかないことになる。新納はなお固辞して、ついには「一体先生は、私を殺すツモリですか」とまで口走った。すると天心はこう語ったという。「ウム、殺すツモリだ、藝術の上では君を殺すツモリだ」。死ぬより恐ろしいことはない。そこまで言われるならと新納はこの仕事に着手し、このことが契機となって、彼は以後、生涯にわたって奈良を拠点に仕事をするようになる。
 ここで天心が語り、あるいは新納が受け取った「死」とは、「私」を表現しようとする近代的自
我の死である。近代化へと邁進している時代に天心は、我を表現することとはまったく異なる美の道があることを、弟子たちに伝えようとしていた。
 修復は凝視することであり、また、そこに宿っている美の秩序をどこまでも感じてみることだろう。またそれは、同時に古きものに新しく息を吹き込むことでもある。それは翻訳の態度に似ている。小林秀雄がランボーの詩集『地獄の季節』を翻訳した動機を聞かれて、自分で熟読してみたかったからだと答えたが、そうした言葉の背後には翻訳とは、もっとも直接的な批評であり、研究の起点になるという小林の自覚と認識がある。
 このとき天心が新納に託したのも同質の経験の深化だった。新しいものをつくるだけでは不十分で、これまでつくられてきたものをよく見てみなければならない。それらが存在の危機に瀕しているなら、直し、未来に伝えて行かなくてはならない。さらにいえば、つくることと見ること、見出すこと、伝え、残すことが一なる営みに収斂する場所が美の世界にはある。それぞれの行為が一つの旋律を生むような働きをなす。この地平に立つことが天心らにとって美の革命の起点だった。

精神とかたちとの融合

 こうした融合的な営みは、新しい絵画や彫刻の誕生によってだけではなく、古寺、古画の修復という人目に付きにくい場所でもじつに創造的に行われたのである。
 古寺あるいは古仏に修復が必要であることを天心が認識したのは、このころから十年ほど前にさかのぼる。
 美校が設立される以前、天心が二十三歳になる年、フェノロサとともに奈良で古寺の調査を行い、秘仏だった救世観音が置かれていた法隆寺の夢殿の扉を開けた。天心の生涯が語られるとき、この出来事が見過ごされることはないが、もし、この発見だけに焦点を当てると重要なことを見失うことになる。当時、フェノロサは文部省から派遣された者として、古寺を訪れていた。天心は通訳兼助手だった。調査は、法隆寺で終ったのではない。むしろ、始まったというべきで、場所も奈良だけでなく、広く京阪地方にまで広げられ、期間も二年後に彼らが欧米の視察に行くまで続けられたのだった。
 この経験を通じて天心が学んだことの意味は計り知れない。おのずから天心とフェノロサとの間に信頼関係が築かれていき、二人の慧眼が養われてゆく。この持続的な調査の経験がなければ、天心が美校で「日本美術史」を講義することもなかっただろうし、代表的著作の一つ『東洋の理想』(一九〇三年)が書かれることもなかっただろう。晩年の柳宗悦は「仏教美学」という視座を提示するが、それはそのまま天心の、ことに『東洋の理想』の主題だった。だが、天心の指摘は美学だけでは終わらない。
 次に引く一節で「この時代」と述べられているのは、四世紀ごろ、個の覚醒を説く小乗仏教から万人救済を説く大乗仏教へと仏教が大きく変貌してゆくころのことである。仏教は高次な意味における心理学であるとも天心はいう。


われわれが考察している、アサンガ〔無着〕とヴァスバンドゥ〔世親〕をもってはじまるこの時代においては、仏教の全活力は、感覚と現象の世界へのこの科学的探究に投じられており、その最初の成果の一つは、有限なる霊がその五十二の成長段階を経て進化し、ついに無限の中に解脱げだつする過程を扱う精緻せいちな心理学である。(富原芳彰訳・以下同)

 ここで語られていることに比喩以上の意味があることは、のちにユングをはじめとしたヨーロッパの深層心理学者たちや中村元や井筒俊彦といった思想家、哲学者によってさらに論究されることになる歴史が証明している。この本が英語で刊行されたのは一九〇三年、深層心理学の勃興を告げるフロイトの『夢判断』が世にでるのは一九〇〇年である。同時代が直面する問題を歴史との共振のなかで深化させること、その才能において天心はじつに異能というべき力を有していた。先の一節に天心はこう続けている。


全宇宙が原子の一つ一つに顕現しているということ、したがって、おのおのの変種はいずれもひとしく真正であるということ、万物の一体ということと関係のない真理は存在しないということ、これが、科学におけるインド人の心を解放する信念であって、今日においてさえ、専門主義という固い殻から心を解き放つに非常な力を持つものであり、さればこそ、かの国の子の一人は、厳密無比な科学的証明をもって、有機の世界と無機の世界との間にありとされていた間隙に橋を架することができたのである。

 万物には原子があるように、万物には真理の働きが内在している。真理と美は別なものではない。それは一つのものを呼ぶ二つの異名であるに過ぎない。有機の世界と無機の世界を架橋すること、それは生命と物質の間に共振する場を見出すことにほかならない。それを天心は、絵画、彫刻だけでなく、さまざまな芸術において実現しようとしたのだった。
 仏教は日本に伝えられただけではない。この国において大きく変貌した、と天心は考えている。日本に伝えられるまで仏教は、精神の優位を説き、物質は精神に従うものであるとした。しかし、ひとたびこの国の文化と混ざり合うと、精神と物質は対立する存在ではなく、融合し、互いの欠落を埋める新しき霊性になっていった。天心は、その変容のさまをこう記している。


精神とかたちとの融合によって、民間の迷信も、正当な学問と同じ尊厳と真摯な場所まで高められることになる。ここにはもう、最高の知性の注意を引かないような営みは何一つとしてなくなる。このようにして精妙なる思想も特殊な情緒も、広く民衆に開かれたものとなる。(「平安時代」『東洋の理想』筆者訳)

 ここで「精神とかたちとの融合」と訳した原文はin this fusion of spirit and formとなっている。また、広く民衆に開かれる、を意味する原語はdemocratisedである。天心がspiritと書くとき、そこには単に人間の精神状態を示すのとは別の意味が横たわっている。spiritは「霊」と訳すこともできる。それは幽霊というときの「霊」とはまったく関係がない。むしろ、その対極にあって、超越から注がれる万物を活かす働きを指す。先に見た無着、世親兄弟が開いた仏教にふれた一節で「有限なる霊がその五十二の成長段階を経て進化」するとの言葉があった。霊は原子のようにすべての人間に内在しつつ、無限を渇望する原動力となっている。
 ここだけではない。『東洋の理想』には霊性を意味するspiritualityの文字が散見される。天心はうごめく霊性のさまを次のように描き出す。「霊性とは、事物の精髄であり、生命、万物の魂を決定するもの、そして、内に燃える炎として認識された」(「足利時代」『東洋の理想』筆者訳)。
 霊性とかたちが一つになったもの、それが仏像である。像を見る者たちは、そこに教えを読んだ。喩えではない。文字を読む者が経典を繙くように、言葉に不案内だった民衆は、美というもう一つの「コトバ」によって、仏像のなかに仏教の真髄を見ていた。こうした言葉も天心のなかで最初の古寺調査から長い年月を経て育まれていったのだった。

紫水による漆工の「根本義」

 保存活動が本格的に始動するのは、第一期の古寺調査が終わった十年後、一八九六(明治二九)年に、古社寺保存会(以下、保存会)が設置され、当時の内閣からその委員に任命されてからのことだった。形式的には国家が天心に任を与えたことになっているが、実情は逆である。会の設置を彼が働きかけたのだった。そのことは委員長に九鬼隆一が就いていることが傍証している。
 九鬼周造の父であり、福澤諭吉の弟子、だが師との関係を犠牲にしても貪欲に立場を得ようとした稀代の野心家、市井の人から男爵までのぼった。美の使徒である天心に活躍の場を用意することにおいて甚大な働きがあった。しかし、この人物は、彼の妻波津子を間に天心と複雑な関係を切り結ぶことになる。
 保存会は、古寺や仏像の実態を把握するだけでなく、必要があれば修復し、保存するために必要な環境を整えることを使命とした。また、今日でいう国宝あるいは重要文化財に指定することもその役割だった。この会は意思決定機関で実働はしない。それは実質的には美校に委託された。一八九七(明治三〇)年、保存会は東北・平泉にある中尊寺金色堂の修復を美校に依頼する。
 近代日本における芸術史を考えるとき、このときの中尊寺の修復を見過すことはできない。美校と日本美術院、さらには奈良の美術院を貫く修復史の幕開けであり、ここで行われた挑戦によって修復もまた一つの創造であることが明示されたのである。
 このとき主任となったのは、二十七歳の若さで美校の助教授に就任していた新納で、ほかには蒔絵の六角紫水ろっかくしすい、画家木村武山ぶざん、彫刻家菅原大三郎らが随行した。ここに名前をあげた四人は、天心が美校を辞任し、新たに立ち上げた日本美術院にも参加している。
 修復に当たる者は何も創りだすことはない。むしろそこでは、個の表現に力を注ぐことは禁忌とされる。歴史を、未知の先人たちの仕事をよみがえらせ、明日につなぐことが悲願となり、唯一つの仕事となる。
 しかし、そうした無私の仕事であることを踏まえつつも、この大規模な修復での紫水の役割は特筆に値する。紫水に関することは村野夏生なつおによる評伝『漆の精 六角紫水伝』に詳しい。村野は遺族らの協力を得ながら、紫水の著述を丁寧に読み込み、近代における漆工の一時代を築いた人物の生涯と業績を、熱情を込めつつ実証的に語っている。村野の著作でも、もっとも重要な典拠であると語られているのは、晩年の紫水が口述で残した自叙伝である。そこで紫水は中尊寺の修復に先立ち、調査に入ったときのことをこう語っている。


 私どもが調査を行った時、堂宇はひどく荒れて居って、扉は明けっぱなしで、乞食が寝て居ったり、参詣した者が、螺鈿をはがしてお守りにして取って行ったりしたので、中は汚なく、かけらがおちたり座板には穴があいたりしていた。いよいよ(原文ではくの字点)私共が修繕にかゝる時、どう云う風にするか。私も始めてであったが、現在あるものを今後減らさぬ様にする。修繕は復元するのが目的であるが、つけ足しはしないと云う建前で始めた。
 余談ではあるが正倉院の御物も修理が悪くて、悪くしたものは、つけたしたものが多いからである。(『六角紫水の古社寺調査日記』)

 中尊寺金色堂は一九三〇(昭和五)年にも再び修復が試みられ、今日、隣接する地域をふくめ世界遺産に登録されている。
 現在の姿からは紫水たちが修復に着手したときのことを想像することすらむずかしい。彼は一九三二(昭和七)年に『東洋漆工史』を刊行する。上代期から奈良、平安、鎌倉、足利、桃山、江戸を経て明治までの日本における漆器にまつわる歴史の本格的な研究書である。修復は研究に結実しなくてはならないという天心の思いを没後二十年になろうとしているときに紫水は実現した。
 この本は、明治時代、すなわち紫水らが中尊寺をはじめとした古社寺の修復に着手した当時の状況を語るところで終わっている。
 明治の四十五年の初期は西欧文化の輸入期で、旧来の文化の担い手である漆工の作家たちには熾烈な困難が襲った。「作家としては困難の最底に陥いりし時で各自其方面に迷い、帰着点さえ見出す事が出来ないので、時代的作品等を考慮する余地はなかった」という。「方面に迷い、帰着点さえ見出す事が出来ない」との一節にはどこか個の立場を超えた悲歎がある。自分の時代で長く続いてきた漆工の歴史に終わりがくるのかと、自分はそれに何ら抗うことができないのかという、懊悩と切願の念をまざまざと見るような心地すらする。
 しばらくすると自国の文化をふたたび重んじるような空気が生まれ、状況は変化した。それでもなお、この時代に生まれた漆工の作家は、上代から江戸までのように世にその価値が深く認められつつ仕事を行った人々とは、まるで違う状況の中で作家であり続けなくてはならなかった。「故に当時代の作家の大部分は他の時代に於けるものとは其性質が幾分か異なるので、時代的作家でなく寧ろ芸術保存の功労者として認むるのが適当ではないか」と書いている。
 ここで述べられているのは紫水本人のことではない。先の一節の前のところで彼は、自作が明治天皇に「奉作」できたことにふれている。彼は周囲にいた、無名の名工たちのことを語っているのである。

 一一七頁の写真にある「金胎蒔絵唐花文鉢」は、紫水の代表作として知られ、今は東京国立近代美術館に所蔵されている。この作品には『東洋漆工史』でも詳説されている彼の正倉院での研究の成果が活かされている。しかし、古きを再現することが紫水の目的ではなかった。彼はむしろ、新しいものを求めるのに貪欲だった。
 この作品の詳しい制作日時は分かっていない。村野の評伝では昭和初年となっているが、今では一九三五(昭和一〇)年頃であるとされている。ここに当時、新素材として注目されはじめていた「アルマイト」が用いられていることが分かっていて、そのことが年代を特定する要素になっている。アルマイトはアルミの上に酸化アルミニウム被膜を作ることによって耐性を高めたものである。アルマイトは今日でも車のホイールや携帯電話などさまざまなところで用いられている。古代からの伝統を、今の時代と共振させながら活かすこと、それが美校に連なった者たちの内なる不文律だったのである。
『東洋漆工史』は、実証的な研究の書でありながら同時に美の使徒としての告白の書でもあった。あるとき紫水は、漆工の「根本義」をめぐる近代の迷妄を厳しく戒める言葉を発している。
 今日の人々は、古代の名作を見るときに歴史的な遺物としての価値しかそこに認めようとしない。江戸時代の作品を見て、その技巧の進化に目を見張り、驚いている。しかしそれは、「皮想」的な認識に過ぎない。「愛翫若くは愛着」が生まれる源泉を見失っているに過ぎない。そこに技巧と技能の混同という問題が横たわっている。「言う迄もなく技工は手工的であり技能は霊智霊能的であると云う事は、今更改めて説明の必要もない」と紫水はいう。技巧、あるいは技工を磨くのは自分が思うままに作品を創るためではない。むしろ、与えられた技能の顕現を準備するためだというのだろう。それが紫水ら、古社寺の修復に当った者たちに共通の認識だった。

沈黙で体現する美の思想

 保存会の事業が始まってしばらくしたときのことだった。天心が美校を追われることになる。先章に見たように九鬼隆一の妻波津子との恋愛関係の激化と、それへの中傷がことの発端だった。怪文書が流れ、ついに天心は有志とともに日本美術院を設立することになる。その文書を記し、流布させるに至った中心的な人物が美校で図案科の教授を務めていた福地復一だったと推察される。
 彼の名前はすでに一度ふれた。先に見た菱田春草の「寡婦と孤児」に対する見解をめぐってのことである。この絵を福地は認めない。しかし、橋本雅邦は満点の評価だった。四時間を超える激論が交わされ、最終の裁決は天心にゆだねられ、雅邦の見解が是とされた。春草は首席で美校を卒業する。
 このときの福地がどれほど苦しんだかは想像に余る。美の世界に生きる者にとって審美眼を否定されることは人格を否まれるに等しい。福地にも思いはあっただろう。それまであった天心と福地との良好な関係は、この出来事によって瓦解する。のちに「美校騒動」と呼ばれる事件は三年前からすでに動き始めていたのだった。
 日本美術院が、東京と奈良の二ヵ所に分かれて存在していたことは、あまり知られていないかもしれない。創設から八年が経った一九〇六(明治三九)年に天心は、第一部を絵画制作を中心としたものとして茨城県五浦に置き、彫刻を核としつつ国宝修理を行う第二部を発足させ、拠点を奈良に置いた。天心の没後、大観たちが東京で日本美術院の復興を唱えたとき、奈良の人々は独立を表明し、名称も「美術院」に改めた。第二部の責任を担ったのが、先に見た東大寺三月堂諸仏の修復を天心に託された新納だった。
 一八九七(明治三〇)年には改めて古社寺保存法という法律が定められた。東大寺三月堂における諸仏の修復はこの法律のもとで行われた。新納が日本美術院の人間としてこの仕事に着手することが知れると東京のある新聞は無謀であると強く批判した。当時、新納は三十三歳で、東大寺側も不安を隠さなかった。このときのことを振り返って彼は、次のように述べている。


初めは先ず幾日も独りで三月堂内に籠って、いろいろと研究し工夫をこらした上、皆を呼びよせて本尊不空羂索観音はじめ、大きな諸仏像を仏体には手を触れないで、ソッと横倒しにすることに成功し、ようやく修理を施すことが出来た。もしウッカリ縄でも掛けようものなら、忽ち千年の霊像を砕いてしまうはずだった。(「奈良の美術院」)

 修復の大きな部分は、彼がひとりで堂内に籠っているあいだに起こっているのだろう。当然ながら物理的な修復は像を横にしてから施される。しかし、彼の言葉を読んでいると実際に像に手をふれる以前に、仏像の方からの無言の許しがなければ修復はけっして始まらないという、不文律の存在を感じる。そのとき、仏師に「技能」が与えられるのかもしれない。
 本尊の不空羂索ふくうけんさく観音はその名の通り、「不空」、すなわち菩薩の悲願が「空しく」ないことを指し、「羂索」は鳥獣を生け捕る網を意味し、もれなく衆生を救う菩薩の呼び名となっている。彼方の世界から付与される「技能」の働きの影響は、現代人の狭量な専門分野を軽々と越えて飛び火する。もし、このとき新納が天心の申し出を拒んでいたら、次に引く詩人西脇順三郎の言葉も記されることはなかったのかもしれない。


『悪の華』は彼が考えた美の哲学をのべたものであって、大げさに言ったら、詩ではなく哲学のマニフェストーである。今の私にはこの作品はミロの作ったうすきみ悪い壺のように思う。または三月堂のフクウケンサク観音のように思う。
(「ボードレールと私」『詩学』)

 文中に「ミロの作ったうすきみ悪い壺」とあるのはスペインの画家ジョアン・ミロのことである。ミロは絵だけでなく壺も作った。そこにもあの特徴的な抽象の図像は描かれている。稀代の現代画家の作品と様相がまったく異なる古物との間に西脇は、同質の美の働きを見ていたのである。詩集の言葉を読むように西脇は、不空羂索観音の内に至上の美の哲学を読む。そしてさらにその感動をボードレールの言葉と共振させたりもした。だが、西脇は自身の見ている仏像が新納らによる修復という「翻訳」を経たものであることを知らなかっただろう。
 美に人間の造った領域の別は障壁にならない。それは先に見たように天心における美の哲学の精髄だった。『東洋の理想』で彼は「定義は制限である」と述べたあと、こう続けた。

一片の雲、一輪の花の美しさは、それが無意識のうちにひろがり開いていくところにあり、そして各時代の傑作の沈黙の雄弁は、必然的に半真理たらざるを得ないもののいかなる概要よりも、よりよくみずからの物語を語るにちがいない。わたしの貧しい試みは、単に一つの指示にすぎず、叙述ではない。

 天心の弟子たちのほとんどは、必ずしも師のように言葉によって己れの思想を表現しようとはしなかった。紫水は例外である。新納にも論文はある。しかし、彼が沈黙のうちに体現したことは言葉で語られたことをはるかに凌駕する。
 さらにいえば、天心のまわりに集った美の使徒たちは、自らが口を閉ざすことで、絵や漆工あるいは古仏が、美と芸術の秘義を世に示す際の、一つの通路となろうとしたのである。