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DAY6 手術翌日の朝

 「村井さん! 起きて~!」という声ではっと目が覚める。誰かが私の左手を握っている。目を開けると、エンジ色のシャツを着た女性が、私に呼びかけていた。

 「苦しくない? ほら、見て」と、私のベッドの斜め上、天井からぶら下がったモニタを指さして言った。「ほら、89しかないの」。彼女が指さしたのは、酸素飽和度の数値だったようだ。絶え間なく動く波線と、変わり続ける数値を眺めながら、ああ、このモニタをステンドグラスと勘違いしたのだと気づく。
 ぼんやりしながらモニタを眺めつつ「苦しくないです」と答えた。「でも数値があまりよくないから、ベッドを起こしてみていいですか?」と聞かれて、「はい」と答える。エンジ色のシャツの女性が、私の寝ているベッドの右側に立っていた白いシャツの女性に「ちょっと座ってもらいましょうか?」と話しかける。

 「そうですね、そうしましょう」と彼女は答えた。

 ベッドの背の部分が、ゆっくりゆっくりと上がりはじめる。私の体についた管やコードや機械が落ちたりズレたり外れたりしないように、女性二人が手早くそれらをまとめる。ベッドの背もたれが少しずつ起こされるたびに、目から入る情報量が増えていく。頭から血液が下がっていく音が聞こえたような気がした。軽くめまいがした。前を見る。メガネがないのではっきりとは見えないが、遠くに女性の顔が見えた。あの人もICUの患者だろうか。右横を見る。カーテンの向こうのベッドで誰かが寝ているのか? ああ、首が痛い。鈍く、重い痛みだ。鉄板でも入っているかのように背中が重い。

 ベッドに座り、より意識がはっきりとしはじめた私は、自分の置かれた状況を徐々に理解しはじめた。とにかく、手術は終わったらしい。周囲には、たくさんの機械やモニタが置かれている。私の真正面、ベッドの足元に設置されたスタンディングデスクの上にもモニタが二台置かれ、看護師さんはそれを常に見て、チェックしていた。この機械の多さはまるでスペースシャトルの操縦席だな!……と、呆然としていると、エンジのシャツの女性が「あ、よかった! 96になった!」とニコニコと笑って言った。
 強い痛みはない。息苦しさもない。ただ、強烈な疲労感がある。何かとんでもなく大変なことが自分の身に起きた感覚がある。胸のあたりにバクダンを抱えているような気がする。それで、今日は何日だった? 今は何時? 手術翌日の朝? それとも…?  
 しばらく混乱が続いたが、真正面の壁に掛けられた大きな時計を見て、ほぼすべて理解した。手術翌日の朝7時頃の出来事だ。
 とにかく、生きている。大きな手術をしたというのに、驚くほど普通に、ベッドに座り、看護師さんと会話することができている。私は助かったのだ。だけど、だけど……。
 自分の体を見る勇気がない。目線を下げて、胸元を見るのは簡単なことだ。でも、それをする勇気がない。一目見たら最後、激痛に襲われるのではないか、そこはとんでもなく恐ろしいことになっているのではないか、そんな恐怖で身動きが取れない。
 猛烈に喉が渇くが、人工呼吸器が入れられていたからか、水をがぶがぶ飲めるような状態ではなく、そんなことをしようものなら思い切りむせてしまうことはわかりきっていた。思いっきりむせたら切ったばかりの胸骨はどうなる? 想像するだけで恐ろしく、強烈な喉の渇きをなんとかごまかしながら、コップに入れてもらった氷水をちびちびとストローで飲んだ。飲みながら、右腕にも点滴の針が刺さっていることに気づく。
 ICUには私以外にも数人の患者がいるようだった。絶えず機械が音を出し続けている。何人もの看護師さんが忙しそうに動き回っている。そんな姿を眺めながらぼんやりとベッドに座っていると、私のテーブルに「はい、朝ごはんでーす! 元気出して食べてくださいね~!」という声とともに、トレイに乗せられた朝食が届いた。パイナップルと牛乳とパンであった。腕を動かすと猛烈に重いが、なんとか動かして、パンを手に取り、しばらく眺めて再びトレイに戻した。無理だ。「あら、食べられませんか?」と残念そうに看護師さんは言い、トレイをすぐに下げてくれた。

 少しだけ胸元を見た。心電図のコードが見える。足元には尿管が見える。青いコード(あるいはヒモ)のようなものが何本もお腹から出ているような気がするが、しっかり見るのはやめておく。それから、それから……。とにかくたくさんの何かが私の体にくっついている、あるいは刺さっている様子だった。これは結構大変なことになっているなと気づいた直後、ICUがざわざわと騒がしくなった。医師団がやってきたのだ。
 「村井さん!」と、ベッドの足元から声をかけられてはっと見ると、インフォームドコンセントをしてくれた、執刀医の木下先生だった。「無事に終わりましたよ! よかったですね!」。次に、いつの間にか私のベッドの左側にいた同じく執刀医の浅井先生が「村井さん、よかったね! 大成功だよ! 40年前に手術した場所もちゃんと修復できたからね。もう大丈夫だよ! 本当によくがんばったね!」とニコニコと笑いながら大きな声で言ってくれた。喜びがこみ上げる。40年前に手術した場所まで修復してくれたなんて、本当にうれしい。どう感謝を表したらいいのかわからない。どうしよう、ここで先生たちに何かお礼の言葉を述べなければならないのに、こんな時に限って言葉にならないと焦っていると、左後方から「それでですねえ……」というボソボソとした声が聞こえた。はっと振り向くと、大きな白いマスクに白いキャップ姿の男性が立っていた。黒めがねに見覚えがある。近藤先生だ。
 「同じ箇所を切りましたから」と先生は言った。「40年前の手術跡の真上を切ってます」と付け加えた。私はかなり驚いて、「え、そうなんですか! 1センチぐらい横を切るかと思ってた!」と答えると、「いやいやいや」と先生は笑っていた。笑いつつ、黒めがねの向こうにある目が、「ほら、早く見ちゃいなよ。大丈夫だって、早く見てみなよ」と、明らかに私を促しているのだ。
 意を決し、恐る恐る胸元を見る。切開した部分には透明なテープがべたりと貼り付けられていた。少し血がにじんではいたが、細い赤い傷が、胸からお腹に向かって伸びている。傷は驚くほど細く、目立たず、むしろ40年前の手術跡の方が目立っている。しかし……。

 胸全体を見た瞬間、困惑してしまった。なんだこれは…… 胸骨付近がぐぐぐっと隆起しているのだ。ヒィィッ! なにこれ、すごい鳩胸になってる!!

 まじまじと観察してみると、胸骨だけではなく、それを中心として、両胸もバンバンに赤く腫れ上がっている。ブッハーッ!! 仮面ライダーみたいになってるじゃん、ギャハハハ!! と、なぜか突然大ウケしてハイになる。
 思いっきり腫れ上がった胸の下、お腹の真ん中ぐらいから出たコードのようなものは、きれいにクルッとまとめられ、テープでお腹に留められていた。お腹からコード? プッ、一体何ごと? と、我慢しているのに笑いがこみあげてくる(相変わらずハイ)。「それはペースメーカーです」という声がどこからともなく聞こえてきた。

 ペースメーカー! そうだ、術後には体外式のペースメーカーに繋がれていると事前に読んでいたではないか。体の外にある機械が、今まさに私の心臓を管理しているのかと思うと、このコードは命綱なのかもしれないと緊張した。それでなければ、お腹からコードが出てるなんて、コードだなんて……プププ(笑いが止まらない)。
 そのコードがまとめられた箇所のすぐ下に、透明な管が2本伸びているのが見えていた。比較的長い管で、末端には袋状になったプラスチックの部品がくっついていて、それをシュポシュポすることで、体内に溜まった血液などを外に出すポンプの役割を果たしているようであった。この管も、きれいにくるりとまとめられて、テープでお腹にぺたっと留められていた。看護師さんが、「それは心臓のあたりに留置されています」と言った。お、おう……。

 心電図のコードも何本かくっついている。なんて言ったらいいのだろう、お腹の上が、すごく賑やかなことになっているというのに、きちんと整理整頓されているのだ。こみあげてくる笑いを堪えながら、こういうのって結構うれしいなと思う。私は整理整頓が好きなのだ。

 次の瞬間だ。右耳の真下で、チョキン、チョキンと何かを切る音がしはじめ、チクッと鋭い痛みが首に走った。右を見ると、若い女性医師が、「い、糸が……すいません」と焦っている。しばらくすると、何かがずるりと首から抜かれた。それも、かなり太くて長めの何かが抜かれた感覚がある。何を抜かれたのか全くわからないが、焼き鳥の串ぐらいの存在感はあった。痛い。

 あまりの痛みに笑いも消えたところで、お腹のコードが革製のウェストポーチに入ったペースメーカーに再接続された。その他、体に刺さっていたいろいろなものが順次抜かれていく。つまり、ベッド周辺にあった機械から、徐々に私の体は切り離されていっていたのだ。身軽ってわけじゃないが、それでも身軽になったような気がしてうれしかった。病人の喜びの、なんとささやかなことよ……。
 ベッドから少し離れた場所で医師団と看護師さんの会話がはじまっていた。

 「もう戻せる?」
 「はい、準備は整ってます」。いつの間にか一般病棟の看護師さんも登場している。
 「じゃあ戻そう」
 「はい!」
 そして会話が終わるやいなや、医師団はICUを去り、夜を徹して私の側にいてくれた看護師さんがニコニコと笑いながら、こう言った。
 「今から一般病棟に戻ります。村井さんには自分で立って、それから車椅子に座ってもらいます。がんばりましょうね!」

(つづく)