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村井さんちの生活

2018年5月22日 村井さんちの生活

心臓へたっちゃってますけど大丈夫 その3

―May the Force be with you.―

著者: 村井理子

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DAY4 インフォームドコンセント

 入院4日目。手術に向けて、慌ただしくなってきた。朝の9時過ぎに、白いユニフォームを着た、とても礼儀正しい青年が病室に現れた。

 「リハビリ担当のあずまです」と彼は言った。「ここでは手術の翌日から患者さんに歩いていただいて、早期回復を目指す心臓リハビリを行っています。村井さんも、手術の翌日から僕と病院内を歩いていただきます。ここに詳しく書いてありますので、お渡ししておきますね」と、ラミネート加工されたA3の紙を手渡してくれた。

 手術の翌日からリハビリが始まると噂には聞いてはいたけれど…少し唖然としながら手渡された資料を読んだ。「大丈夫ですか?」という彼の質問に、慌てて「大丈夫です」と答えると、「それじゃ、また手術が終わってから会いましょう」と彼は穏やかに言い、病室から去って行った。その後ろ姿を呆然と目で追いながら、ベッドの上に放り投げてあったペンを急いで手に取り、メモに「リハビリの東君は真面目でいい人」と書いた。

 暇にまかせて、リハビリ東君から手渡された紙を読む。心臓リハビリテーションプログラムと大きく書かれたその紙には、私が術後、ICU(集中治療室)でどんな状態になっているのか、様々なヒントが書かれていた。

 まず、麻酔から覚めたときの状態だ。呼吸管理のために人工呼吸器が装着されているらしい。その他、点滴、心電図モニタ、体外式ペースメーカー、尿の管、心臓周辺の余分な血液を排出するドレーン、鼻からの酸素投与などなど、とりあえずめいっぱいくっついた状態になるらしい。七夕の笹みたいやな…。

 術後すぐにリハビリを行う理由は、立って動くことで酸素を取り込みやすくなり、呼吸器合併症の予防に繋がるからだそうだ。赤いマーカーで囲った部分には、「一日中寝たままでいると、身体は一歳分、年を取ってしまうと言われています!」とあった。それ、絶対ダメじゃん! と思い、東くんとリハビリ頑張るもんねと決意を固めた。

 午後になって看護師さんが現れて、「夕方から手術について説明がありますので、お部屋にいてくださいね」と言われ、ああ、そうであったと思い出す。前の日にも看護師さんから、同じように言われていたのだ。手術についての内容説明、つまりインフォームドコンセントだ。私は自分の病状を知っているようで、実はあまり理解していなかった。入院してから3日間は検査の日々で、きっとその検査結果を踏まえて、説明が行われるのだろう。もしかして厳しい内容かもしれない。難しい手術なのかもしれない。私は一体どうなるのだろう…と、3分ほど考えたのだが、疲れてすぐにやめてしまった。今更ジタバタしてどうなるというのだ。今考えたって仕方がないものは直前まで考えないようにしようと開き直って、マンガを読み始めた。

 

 午後4時頃だった。看護師さんが現れて、カンファレンスルームに案内された。ドアに札がかけられていて、かわいらしい文字で「あいてるよ」と書いてあった。手術の説明があるから来といてや! とメールで呼び出していた夫と一緒におずおずと部屋に入り、ホワイトボードの前に座る。テーブルの上には大きな心臓の模型と説明書が置かれていた。程なくして勢いよく男性が入ってきた。ビームが出ている木下先生だ。

 挨拶もそこそこに、先生は私たちの向かい側に座ると、模型とホワイトボードを使って、私の心臓が今どのような状態になっているかを説明しはじめた。耳では先生の言葉を一つ残らず拾いつつ、目はA4の説明書に釘付けになっていた。そこには私の病名や、手術を選択する理由、手術を受けなければどのような状態になる可能性があるか、詳細に書かれていたのだ。

 病名は、「僧帽弁閉鎖不全、心房中隔形成後(部分肺静脈還流異常)、慢性心房細動」。文字にするとめっちゃきつい。その下に説明文があり、それを読めば、僧帽弁の一部が変性し、逸脱しているために血液の高度な逆流が起こっていること、それが心臓に大きな負荷をかけているために心不全になったことが理解できた。今現在は心不全の状態からは脱してはいるが、長期的に考えると、利尿剤や強心剤などの内服による心不全の管理には限界があり、再発や進行が予想され、生命予後を悪化させる可能性が高いともあった。その上、慢性心房細動の併発である。

 心不全の進行、致死性不整脈、突然死…読めば読むほど心臓に悪い文字のオンパレードである。村井理子、絶体絶命としか言いようがない。 

 しかし、手術をしたらこの危機的状況を回避することができる理由も併記されていた。僧帽弁の形成を行い、左心耳を閉鎖し(慢性心房細動で脳梗塞のリスクがあるため)、メイズ手術(心房細動に対する外科治療)を追加することで、弁機能や心機能の改善、心不全や突然死の予防ができるとあった。こういった情報以外にも、手術により起こりうる合併症とその頻度、危険性、緊急時の処置など、ありとあらゆる情報が書き込まれていた。

 検査を重ねたことで、僧帽弁のどの部分がどのように逸脱していて、そこからどれほどの血液が逆流しているか、40年前の手術箇所が今現在どのような状態か、ほぼ完璧に把握できていると先生は言った。私自身も、自分の心臓がどのような状態にあるのか、理解することができた。崖っぷちの47歳、軽く死にかけである。

 手術の予測所要時間は6時間で、執刀医は浅井先生と木下先生。覚悟は決まった。

 わかりやすく、丁寧に、そして熱心に説明してくれた木下先生に礼を述べ、書類にサインをした。

 夕食直後に、木下先生が再び病室に現れた。「あまり心配せずに、今日はゆっくりしてくださいね。ええっと…まあ、寝て起きたら全部終わってますから!」と、笑顔で言い、足早に病室を去って行った。

 寝て起きたら全部終わっている。

 何度か反芻した。寝て起きたら全部終わっているなんて最高ではないか!! 
その日の夜は安心してぐっすり眠ることができた。

DAY5&6 寝て起きたら全部終わってた

 まるで十字架のような手術台に寝て、麻酔医の顔を見たところまでは覚えている。そして、寝て起きたら全部終わっていた。

 私はICUのベッドの上にいた。目の前の時計は2時10分。足元に看護師さんが立っている。

 「2時ですか?」と聞くと、「そうです、今、夜中の2時です。手術は無事に終わりましたよ」と看護師さんは答えた。「夜中の2時? でも、あそこのステンドグラスから、太陽の光がいっぱい入ってきていますよ」と私は時計の方を指さした。看護師さんは、にこっと笑って何も言わなかった。

 私の目には、大きな時計と、その周辺を囲む見事なステンドグラスが見えていた。そこから差し込む日の光がまぶしいほどだ。「夜中じゃなくて、昼ですよね?」ともう一度聞く。「いいえ、夜中ですよ」と再び看護師さんが答え、そこで一旦記憶は途切れている。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥


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