小林秀雄先生の年越しは、毎年、神奈川県奥湯河原の旅館「加満田」(かまた)でだった。
今ではもうよく知られている話のようだが、先生と「加満田」との縁は昭和二十三年(一九四八)、先生が四十六歳の年からである。作家の宇野千代さんが『文体』という雑誌を出し、小林先生はそこに「ゴッホの手紙」の連載を始めた。この連載は、宇野さんが先生に書かせたのだが、その執筆にあたって宇野さんは、小林先生を「加満田」に閉じ込めた。出版社は、雑誌の長篇一挙掲載や書下ろしを作家に頼んだとき、作家のために旅館やホテルを用意し、そこに逗留して執筆に専念してもらうということをする、すなわちカンヅメである。出版界始まって以来、そのカンヅメ第一号となったのが小林先生だったのである。
「ゴッホの手紙」は、『文体』の第三号、第四号と掲載されたが、第四号をもって掲載誌は廃刊となり、昭和二十六年一月から『芸術新潮』にあらためて連載、二十七年二月に完結した。しかし、宇野さんが先生に「ゴッホの手紙」を書かせ、「加満田」にカンヅメにしたということは、先生に生涯を通じてのくつろぎをもたらした。
平成十七年に出された「加満田」の「創業六十五年記念小史」によれば、この旅館を始めたのは築地の魚市場で仲買をしていた鎌田正太郎さん、かつさんの夫婦で、昭和十四年、戦時下の統制経済を慮り、将来を見越して奥湯河原に土地を買い、「加満田旅館」を開業したのだという。ということは、小林先生がカンヅメになったのはほぼ創業十年という頃だったのだが、戦後まもなくのことでもあり、凝った料理は出なかったが、主人が築地にいた人とあって目刺しでも開きでもおいしかったらしい、先生はこの主人ととても気があっていたと、先生の息女、白洲明子さんから聞いた。
昭和二十三年には、台風被害に遭うなどの苦労もあったが、二十八年、新たに四室を増築し、部屋の命名を日本画家の鏑木清方に頼んだ。清方は「花桐」「桧垣」「若竹」「田毎」とつけた。そして三十七年、さらに五室を増築し、こんどは小林先生に頼んだ。先生は、「どうだん」「もくせい」「つつじ」「なんてん」「はぎ」とつけ、自分自身は庭に満天星(どうだんつつじ)の見える「どうだん」の間が気に入って、いつもこの部屋でくつろいだ。
暮れになると、先生は毎年、十二月二十八日に「加満田」へ赴いた。そこで友人、今日出海さん、作家の水上勉さん、批評家の中村光夫さん、文藝春秋の上林吾郎さんと合流し、翌二十九日はゴルフ、夜は酒、が恒例だった。
ゴルフも先生の大きな楽しみのひとつだった。始めたのは五十歳を過ぎてからである。昭和二十七年十二月、初めての海外旅行で今さんとヨーロッパへ行き、フランス、エジプト、ギリシャ、イタリア、スイス、スペイン、オランダ、イギリス、アメリカと回って翌二十八年七月に帰国したが、それからまもなく、今さんと出かけた先で偶然ゴルフのプレーを目にし、俄然興味がわいて一気に深入りした。毎週ゴルフをしようと今さんと申し合わせ、そのうち名門、程ヶ谷カントリー倶楽部の会員となり、毎週木曜日、出勤日と称して、今さん、中村光夫さん、漫画家の那須良輔さんらといそいそ出かけていた。
一日ゴルフを楽しんだ後は、「加満田」へ戻って酒宴である。
前々回、先生は一日二合と決めて晩酌を楽しむ、その風姿は酒仙と呼ぶにふさわしいと書いたが、酒に関するかぎり、先生にはまったく別の顔があった。独りで楽しむ晩酌は、午後からは水分を控えて備えるというほどストイックだったが、文壇の宴席など、相手がいる席ではいくらでも盃に手が伸び、量はたちまち二合どころではなくなり、目の前の誰かひとりをつかまえて相手が泣くまでしごき上げる。これも前に書いたように、闇雲に絡んだり難癖をつけたりするのではない、その人物の仕事ぶりを実によく見ていて、徹底的に批評するのである。
この、同席の誰かを手厳しくしごき上げる先生の酒は、先生自ら「酒癖が悪いと友人たちに言われている」と書いているほどだから、自覚はあったのである、しかし、恰好の相手がいるとたちまちこの酒癖が出た。「加満田」でもそうだった。水上さんも中村さんも、何度先生に絞り上げられたか知れない。だが二人とも、先生にここまで言ってもらえることを恐れおののきながら深謝していた。
もっとも、私はその場に居合わせたわけではない。毎年十二月二十四日か二十五日、先生のお宅へ暮れの挨拶に行ったあとは、年が明けてもわざわざ年始の挨拶にうかがうことはなかった。先生が「加満田」での年越しを恒例にしたのも、そもそもは年始の客が煩わしかったからである。したがって、「加満田」での先生の酒豪ぶりは、専ら水上さんと、番頭さんの師星照男さんから聞かせてもらったことなのだが、そういう夜の先生は、いったいどれほど召し上がっていたのか、この先生の酒量については、別途、画商の吉井長三さんの思い出話がある。
吉井さんは、「加満田」のメンバーではなかったが、春の桜探訪にはしばしば同行した。ある年、福島県三春の滝桜を観に行き、その夜、二人で飲んで夜中の三時に及び、一合瓶を三十本あけたと言っている。先生が滝桜を観に行ったのは昭和四十七年と四十八年である。四十七年であれば七十歳、四十八年であれば七十一歳だった。
そうやって、暮れの先生は十二月二十九日、心ゆくまで「加満田」で痛飲したのだが、三十日になると夫人が孫たちと一緒に来られる。すると先生は、打って変って酒仙に戻り、静かな二合の晩酌になったという。先生も奥さんは怖かったんですねえ、と言って、師星さんは愉快そうに笑った。
師星さんは、宿泊客の誰からも名番頭を謳われた人だったが、昨年十月、八十歳で亡くなった。小林先生が滞在するときは、先生の体調にずっと細かく気を配っていたということを、師星さん自身からも先生の奥さんからも聞いた。私が行くと、その日の仕事をすませた師星さんが、いつも私の部屋に先生の形見のマフラーをもってきて、そのマフラーを私にもたせてあふれるほどの思い出話をして下さった。淡いらくだ色の、ふわりとかるく、あたたかいマフラーだった。いまごろはまた天国で、師星さんは先生と再会し、さっそく先生の体調に気を配られていることだろう。
年が明けて、元日である。水上さんが、「小林先生との正月」と題して、第五次「小林秀雄全集」の別巻Ⅱ(「小林秀雄全作品」では別巻3)に書いている。
――私は、毎年正月三日間を先生のお部屋によばれてお話をきいてすごした。ゴルフをするのが目的だったが夜は夕食をご一緒して酒が出た。日本酒だった。三、四本の一合徳利を空にされた。……
先生の酒は、夫人が一緒でも、水上さんがいるとなると二合ではすまなかったようだ。
――正月元旦はゴルフ場も休みだった。所在のないふたりはそこらじゅうのゴルフ場へ電話して、なんとかプレイさせてもらっていたが、たまには先生は、タクシーで真鶴(まなづる)在住の中川一政先生を訪問された。私の方は中川邸へゆかれる小林先生と別れて、谷崎松子未亡人の待つ谷崎邸訪問であった。小林先生は中川一政邸訪問を終えて旅館の夕食をご一緒することになる。……
水上さんがここで言っている「中川一政先生」は、洋画家である。小林先生は洋画、日本画を問わず多くの画家とも親しくされていたが、洋画では梅原龍三郎氏と中川一政氏とがとりわけ親しいようだった。
――「あの人の親指はねえ、まむしの頭のようで、油絵具を親指で溶くんだよ」/中川一政先生の親指はまむしが動くように小林先生には見えた。親指を使って絵具を溶き、キャンバスに親指をふるうまねをされて、筆がわりに使う親指の光景を説明された。この行為にどれだけ感動したかを私に教えたかったのだろう。先生が物まねをなさることはめったになかった。私は中川先生の親指を見ていない。しかし親指を使ってキャンバスに絵をかかれるのを想像できた。……
この、中川一政氏が親指でという話は、水上さんよりは何年か後だっただろうが私も聞かせてもらった。その話しぶりは、私のときも水上さんが書いているのと同じだった。先生はそうは言われなかったが、先生がしばしば、作家や詩人に関して詩魂ということを言われていることを思い出し、「中川さんの画魂」という言葉がふと頭に浮かんだことを今も憶えている。
――中川先生の親指の話をされたとき、先生はめずらしく得意気であった。前髪をいじられることもあった。……
水上さんは、「湯河原の思い出」と題した別の文章で、「加満田」で初めて小林先生に会ったのは昭和三十四、五年頃だった、先生は亡くなる年の前の年まで、ずっと「加満田」で越年されたと書いている。
新しい年を迎えて、先生のお宅に挨拶にうかがうのは、毎年一月の二十日前後だった。小町通りの「奈可川」が正月休みを終えて店をひらく頃である。「奈可川」の小座敷に上がり、「菊千歳」をひとくち含んで、ほっとしたような表情を見せられるのが常だった。
(第三十一回 了)
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池田雅延
いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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