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随筆 小林秀雄

 奥湯河原の「加満田」で毎年のように小林先生と年越しをし、毎週木曜日には程ヶ谷カントリー倶楽部でゴルフを楽しんだ批評家、中村光夫さんに、『≪論考≫小林秀雄』という本がある(筑摩書房刊)。昭和五十二年(一九七七)十一月三十日発行と奥付に記されているから、小林先生の『本居宣長』のちょうど一ヶ月後に出た本である。その「あとがき」に、中村さんはこう書いている。
 ――数年前、氏はある会合の演説で、近頃の自分には、命のほかに惜しいものはない、命ほど惜しいものはない、と言ったことがありますが、これは氏の現在の心境を端的に示す言葉でしょう。……
 「氏」はむろん「小林秀雄氏」である。「演説」と言われているのは今日のスピーチだが、『本居宣長』が発売たちまちベストセラーとなり、増刷、増刷が相次ぐなかで、私は中村さんの「あとがき」をまず読んだ。そして小林先生のこの言葉に、ふっと肩がかるくなるような思いを味わった。
 古来、日本には、生に執着しない身の処し方をよしとする風潮がある。昭和の太平洋戦争時には、お国のために潔く散れ、それが至高の忠である、美であると叫ばれもしたが、その精神論は戦後も残った。昭和三十年代から四十八年にかけての高度成長期、男たちは経済戦争の戦地に駆り出され、会社のためならいつでも死ぬ、命は惜しくないと、口に出しては言わなくても、そういう男と見られたいというのが暗黙の人生美学になっていた。私自身は、そこをそうとさほどに意識してはいなかったが、それでも先生が、「命のほかに惜しいものはない、命ほど惜しいものはない」とはっきり口に出して言ったと聞いて安堵を覚えた。いつしか私も、本心に背いて、命は惜しくないと虚勢を張って見せることが一再ならずあったからである。

 中村さんは、続けて書いている。
 ――氏はむかしから、長命に憧れるところがありました。ともかく長寿を重ねた人を、それだけで尊敬し慰藉する傾向がありましたが、それが年をとると、自分の命を何より大切にするようになります。むかしから生きる欲求は強く、いままでの五倍くらいの命がほしい、と三十代のころ言っていました。……
 中村さんが言っている「数年前」、小林先生は七十歳になろうとしていたが、いまから思えば「本居宣長」の『新潮』連載が中盤にかかっていた。それが一番にあったのだろう、身体に気をつけ、酒の飲み過ぎにはそうとう注意していた。前回、福島県三春の滝桜を観に行って、その夜、吉井長三さんと二人で一合瓶を三十本空にしたという話を紹介したが、あれは、飲めば先生はそこまで飲めた、それほどの酒豪であったと言うだけのことで、こういう飲み方は、おそらくは滝桜に感動したあまりの特例であり、当時の日常生活では、酒席の酒量をいかにして減らすか、そこに苦心していたのである。
 その苦心は、昭和四十年代に入った頃、ということは、「本居宣長」を書き始めた六十代の初めには始っていたようだ。「本居宣長」の連載が、開始後二年半ほどになっていた昭和四十三年の元旦、『読売新聞』に今日出海さんとの対談「春日閑談」を載せたが、その対談は、いきなり今さんの「君は非常にからだに気をつけているってね」という発言で始っている。多分、若い頃からの大酒呑みの印象が、かなり変った小林先生の節酒ぶりに、友人たちも気づいていたのだろう。今さんの発言を受けて、先生はこう応じた、――気をつけると言っても、飲み過ぎなければいいのだからね、飲むといえば東京だからね、東京へ出ないから自然に……。先生は、酒量は、東京へ出なくなったから自然に落ちたという言い方をしているが、これは身体に気を配り、あえて酒量を落すためにできるだけ東京へは出ないようにしている、そういうふうにも読めるのである。
 先生の仲のよい文学仲間に、小説「山椒魚」で知られる井伏鱒二さんがいた。井伏さんも酒豪で聞こえ、しばしば荻窪の自宅に各社の編集者を呼んで酒盛りをしたが、時間とともに編集者たちは次々討ち死にし、井伏家を早々と辞する者もいれば、その場で眠りこける者もいた。が、そういう死屍累々を気にもせず、井伏さんは明け方まで、悠然と飲んでいたというのである。
 この井伏さんの夷然(いぜん)たる態度は、文壇仲間との酒席にあっても同じであったらしい。そこで小林先生は、井伏さんの飲み方に学ぼうと、ある日の酒席で井伏さんを観察した。そしてわかったことは、井伏さんはほとんど飲んでいないということだった。いかにもうまそうに盃を口に運ぶが、飲む、というより唇を濡らす程度ですら三度に一度で、あとは盃が唇にふれるかふれないかにしてそのまま膳に戻す、それを絶妙のテンポでゆったりと繰り返す、小林先生は、そうか、こういうことかと、さっそく見習うことにした、ところが、だった。
 うまくいきましたか、と訊いた私たちに、先生は答えた、
 ――だめだったね、とても井伏のようにはいかないんだ。始めは井伏をまねているんだよ、だけど気がついたら、いつのまにか飲んでしまっているんだな、僕は……。また別の手を探さなきゃならないな。……

 先生は、独りで楽しむ晩酌は自在だったが、世間で他人と酌み交す酒は、それなりの年齢になっても意のままにならなかったのである。そのため、外で飲む酒をどう手なずけるか、それが先生の大きな課題だった。しかし先生のこの努力は、単に酒をめぐっての健康法の話ではなかった。この努力と、中村さんが書いていた「氏はむかしから、長命に憧れるところがありました。ともかく長寿を重ねた人を、それだけで尊敬し慰藉する傾向がありました」とは一体であり、これも先生の「いかに生きるべきか」の思想の実践だったのである。
 昭和五十四年の初夏であった、鎌倉の「華正樓」で、里見弴さんの卒寿(九十歳)と筑摩書房から出た「里見弴全集」の完結を祝う会が催された。里見さんは有島武郎の弟で、明治二十一年(一八八八)の生れだから小林先生より十四歳年長だった。
 その席で、発起人代表として最初にスピーチに立った小林先生は、春、里見さんに教えられ誘われて葉山の枝垂桜を見に行き、案内してくれた葉山の町長さんに蕎麦の「一色」へも初めて連れていってもらった、その「一色」で、町長さんは、「小林先生はお若いのですから」と言って、さかんに酒を勧めてきた、私は喜の字(喜寿)です、七十七ですよ、と話して一座を笑わせ、続けてこう言った
 ――しかし、私の隣にいらっしゃったのは九十歳の里見先生と、八十八歳の堀口大学先生です、「小林さん、あなたは若い」と言われて、なるほどと思いました。そしてそのとき、痛感しました。天寿という言葉があります、天から授かった寿命という意味です、僕らが天から授かったものは才能ではない、命です。ところがちかごろは、みな才能にばかり目を向けて、天才という言葉を乱用し、乱用どころか悪用までしていますが、天寿という言葉はすっかり忘れてしまっています、悪い傾向です、僕はここに現代の不健康を感じます。里見先生は、才能で書いたのではありません、天寿を磨いたのです、今度の全集も、里見先生が磨いた天寿に才能がついてきたのです、それを僕は感じます。……
 小林先生は、中村さんが書きとどめた言葉、「近頃の自分には、命のほかに惜しいものはない、命ほど惜しいものはない」を、この日も内心、秘かに呟いていただろう。先生も日々、天寿を磨いていた。酒量を抑えて身体を大事にするということ、それはまさに、毎日早朝、周囲が驚くほどの速さで約一時間、近所を歩いてくることとともに、天寿を磨くということの一環だった。

 里見さんの卒寿を祝う会より先に、四月の半ば、先生の喜寿を祝う数人の会を「奈可川」でもった。先生はその席で言われた、
 ――この年になって、やっとわかることがあるんだ、それもひとつやふたつではない。身体を大事にして長生きすれば、まだまだわからせてもらえることがいくつもあるにちがいない、だから命が惜しい、いま惜しいのは命だけなんだ……。
 そう言って、徳利の酒を、盃に注がれた。

(第三十二回 了)

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*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹