前回、小林先生と井伏鱒二さんの酒の飲み方について聞いてもらったが、小林先生にも井伏さんにも可愛がられ、絶大な信頼を寄せられていた編集者に菅原国隆さんがいる。ただし、菅原さんは、酒はほとんど飲めなかった。
私よりほぼ二回り上で、私が新潮社に入った頃は『週刊新潮』の副編集長格だった。ところが、私が『週刊新潮』とはおよそ畑のちがう文芸書の編集者として出入りさせてもらった作家の家で、しばしば菅原さんの話が出た。それぞれに菅原さんの逸話を聞かせてくれて、菅原さんにどれほど世話になったかを口々に言うのである。
聞けば、菅原さんは、戦後すぐに新潮社に入って雑誌『新潮』の編集者となり、齋藤十一編集長のもとで小林秀雄、川端康成らの鎌倉文士をはじめ、井伏鱒二、三島由紀夫、三浦哲郎ら当時の第一線作家を受け持って『新潮』の黄金時代に貢献した。
そのうち、新潮社は出版社系初の週刊誌『週刊新潮』を出すこととなり、昭和三十一年二月の創刊以後、齋藤さんは『週刊新潮』にかかりきりになって、後は菅原さんが『新潮』を切り盛りした。三十三年五月からは小林先生のベルグソン論「感想」、四十年一月からは井伏さんの「黒い雨」などを連載し、小林先生の「本居宣長」も連載第四回までは菅原さんが原稿を受取った。だがそこで、菅原さんは『週刊新潮』に呼ばれた。
創刊早くも『週刊新潮』は大成功を収め、三年後れて講談社の『週刊現代』、文藝春秋の『週刊文春』が追随してきて週刊誌時代がきた。創刊から十年、齋藤さんは読者の反響には満足していた、しかし、配下の記者たちの文章力には不満だった。『新潮』編集長として一流文学者の文章を鍛えてきた齋藤さんである、記者たちの文章力も鍛える必要があると、菅原さんを『週刊新潮』へ引っ張ったのである。昭和四十年の夏であった。
それから十年、菅原さんは『週刊新潮』でも辣腕をふるった、だが、ある年の冬、銀座の路上で突然倒れた。週刊誌は毎日が修羅場である。その激務が菅原さんを襲ったのである。幸い一命はとりとめたが、長い闘病の休職期間を経て出版部へ移った。
出社が可能となるや、菅原さんはいちばんに小林先生を訪ねた。菅原さんとしては、先生によろこんでもらうつもりだった。ところが、先生の家に着いて、玄関で待った菅原さんの前に現れた先生は、いきなり怒鳴った、
「この大馬鹿野郎! お前の身体が危ないとはお前の身体がお前に知らせていたはずだ、それを聞きもせず生意気に倒れたりしやがって、大馬鹿野郎だ、お前は!」
ものすごい剣幕だったという。このいきさつを、私はじかに菅原さんから聞いた。
小林先生がいきなり菅原さんを怒鳴ったのは、むろん先生の菅原さんに対する愛情からである。菅原さんの闘病中、先生は心配でたまらなかったのである。だから、治ったと聞いて安堵し、その安堵が菅原さんの顔を見るなり怒声となって噴き出たにちがいないのである。
そこは菅原さんもよくわかっていた。これほどまでに先生に心配をかけたのかと、ただただ申し訳ない気持ちで先生の怒声を聞いたと菅原さんは言い、「お前の身体が危ないということは、お前の身体がお前に知らせていたはずだ、それを聞きもせず……」と、人生最大の活を入れられたと言った。
小林先生が菅原さんに言ったことは、自分の身体はいまどういう状況にあるか、それはそのつど、身体が全部教えてくれている、その身体の声を謙虚に聞け、ということだが、これは、この連載の第七回で書いた、先生の風邪の治し方と同じ思想の言葉である。先生は、ほんのちょっとした風邪でも、風邪かと思うやすぐさま寝室にこもり、部屋をあたため蒲団をかぶり、二日でも三日でも蒲団のなかで過ごした。「僕の身体が治ろうとしているんだ、僕が協力すれば治るんだ」と言い、西洋医学の薬はいっさい服まなかった。
すなわちこれが、「天寿を磨く」ということだろう。人間の身体はどういうふうに造られているか、その身体で人間はどういうふうに生かされているか。その繊細・微妙な天の配慮を科学的知識としてではなく自分自身の経験則として蓄積していき、その経験則から感知できる天の配慮にぴったり沿った生活習慣を身につけて日々実行する、これが先生の言う「天寿を磨く」ということの第一歩と思われるのだが、先生は、里見弴さんの卒寿(九十歳)と全集の完結を祝う会ではこう言った、
――天寿という言葉があります、天から授かった寿命という意味です、僕らが天から授かったものは才能ではない、命です、ところがちかごろは、みな才能にばかり目を向けて、天寿という言葉はすっかり忘れてしまっています、悪い傾向です、里見先生は、才能で書いたのではありません、天寿を磨いたのです、今度の全集も、先生が磨いた天寿に才能がついてきたのです、それを僕は感じます……。
このスピーチをした年、先生は喜寿(七十七歳)だったが、六十歳の年の「還暦」という文章(新潮社刊「小林秀雄全作品」第24集所収)には次のように書いている。
――この頃は、長寿の人が殖(ふ)えた、と言うより、平均年齢が延びたという方が、正確な言い方だと考え勝ちだが、そんな事はない。言葉の発想法が、まるで違うのである。言葉が正確になると、意味は貧しくなるという事もある。私達は、長寿とか延寿とかいう言葉を、長命長生と全く同じ意味に使って来た。目出度くない長生きなど意味を成さない、と考えて来た。では、何故目出度いか、これは誰にも一と口で言えぬ事柄だったが、何時の間にか、天寿という言葉が発明され、これを使ってみると、生命の経験という一種異様な経験には、まことにぴったりとする言葉と皆思った、そういう事だったのだろう。命とは、これを完了するものだ。年齢とは、これに進んで応和しようとしなければ、納得のいかぬ実在である、こういう思想の何処が古臭いのかと私は思う。……
――孔子は、還暦を「耳順(じじゅん)」の年と言った。耳順う(みみしたがう)とは面白い言葉で、どうにでも解されようが、人間円熟の或る形式だと考えたのは間違いない。寿という言葉も、経験による人の円熟という意味に使われて来たに相違ない……
――成功は、遂行された計画ではない。何かが熟して実を結ぶ事だ。其処には、どうしても円熟という言葉で現さねばならぬものがある。何かが熟して生れて来なければ、人間は何も生む事は出来ない。……
里見弴さんもそれをよく知っていて、才能を磨くより天寿を磨いた、その天寿に才能がついてきたとは、天寿を磨いたことによって里見さんに何かが熟するに必要なだけの時間がもたらされ、そうして熟した何かが里見さんの作品世界という実を結んだ、何かが熟して生れて来なければ、人間は何も生む事は出来ない……、小林先生は里見さんを祝う席でもそう言ったのである。
小林先生が亡くなった後、音楽や写真にも詳しかった菅原さんは、新設されたメディア室の室長を命じられた。創業以来、活字文化一本で生きてきた新潮社だったが、時代は活字だけでなく、音声や画像の出版が求められるところへきていた。メディア室はそういう含みで設けられた部署だった。
そのメディア室長として、菅原さんは、いきなり小林先生の講演をカセットテープで出すと言った。聞いて私は仰天した、仰天どころか怒りを覚えた。先生は、自分の講演を録音することは厳禁していた。小林秀雄は文筆の徒だ、世に訴えたいと思うことは文章にしてみてはじめて現れる、喋ってすむことは喋ってすませるが、そうして喋ったことが自分の知らないところで議論の対象になったりしては困る、だから録音は許さない、それが先生の根本の態度だった。しかし、私たちにしてみれば、先生の講演がその場かぎりで消えてしまうのはなんとも惜しい、そこでひそかに、見つかれば先生の逆鱗にふれる恐怖と戦いながらテープレコーダーを回した、それを菅原さんは、あろうことか公にするというのである。
そんなことをしたら悲しみ激怒するにちがいない先生の気持ちを、いちばんよく知っているのは菅原さんではないですか、その菅原さんが、なんということを言いだすのです、正気ですか! と私は食い下がった。菅原さんは激することなく言った、――もうこの先、これだけのことを言ってくれる日本人は現れない、小林先生のこの声が聴けないのではこれからの日本人がかわいそうだ。あの世へ行ったら俺が先生に謝る、だからそこをどけ、これから奥さんとお嬢さんに会って許しをもらってくる……。
こうして「新潮カセット文庫 小林秀雄講演」は世に送られた。いまは「新潮CD」となって全八巻が揃っている。小林秀雄は難しいと決めつけて、まったく読まずにきた人たちが講演を聴いて思いを改め、六回目の全集である「小林秀雄全作品」や新潮文庫を次々買ってくれている。こういう小林秀雄との遭遇経験を、最初に私に聞かせて下さったのは茂木健一郎さんだったが、以後、何人もの人たちから同様の経験談が寄せられた。
菅原さんは、平成四年十一月、六十六歳で亡くなった。入社当時、行く先々で、私はまだ顔も知らなかった菅原さんの話をずいぶん聞かされた。そのわけが、今はもうよくわかっている。
(第三十三回 了)
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池田雅延
いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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