感情を表す形容詞(「~い」の形で終わる活用語)はたくさんありますが、それらを列挙してみると、興味深いことに気づきます。
「いまいましい・いらだたしい・恐ろしい・悲しい・悔しい・怖い・寂しい・せつない・つまらない・つらい・憎い・ねたましい・恥ずかしい・空しい・わびしい……」
など、マイナスの感情を表すことばが多いのです。
「そうとも限るまい、プラスの感情を表す形容詞だって多いだろう」と思って探してみても、すぐに思いつくものは「うれしい・面白い・楽しい」ぐらいのものです。このほか、やや硬いことばとして「ありがたい」(「ありがとう」ならよく使う)といったところでしょうか。圧倒的に少ないのです。人は、プラスの感情より、マイナスの感情を持ったときのほうが、ことばを発する欲求が強くなるようです。
「おかしい」はどうでしょう。「ばかな話を聞いて、おかしくて笑った」という場合、プラスの感情なのかどうか。対象を見下す感じもあるので、保留としましょう。
これらのことを踏まえた上で、友だちと「プラス・マイナスの感情形容詞をお互いに言い合うゲーム」をすると、確実に勝つことができます(変なゲームですが)。自分がマイナスの感情形容詞を言う側を選べばいいわけですね。
このゲームには注意点があります。「美しい・うまい・すばらしい・喜ばしい」などの形容詞は含めないということです。これらもプラスイメージの語ですが、自分の感情ではなく、ものごとの評価を表すもので、「評価性形容詞」と言われます。
数少ないプラスの感情形容詞ですが、それぞれの語源もはっきりしません。
「うれしい」は、「心」の意味を表す「うら」と関係があると言われますが、心がどういう状態だというのか、曖昧です。何らかのつながりはあるのでしょうが。
「楽しい」は、「手伸し」からで、手を伸ばして喜ぶ様子からと言われます。だとすると、今日の「伸す・伸ばす・伸べる」などの元になった「伸」という要素があったことになります。ただ、それが形容詞語尾の「し」と結びつくのかどうかは分かりません。
「面白い」は、とりわけ奇妙なことばです。「顔面が白い」ことが、どうしてプラスの感情の「面白い」につながるのか。
「面白い」には有名な語源説があります。9世紀の「古語拾遺」に載っている、天岩戸の物語がそれです。
天照大神が岩戸に隠れ、世界が暗くなった時、神々が岩戸の前で歌舞音曲を催しました。無事に天照大神を岩戸から誘い出すと、天が晴れてお互いの顔が見え、〈面、皆明白し〉という状態になりました。一同は〈手を伸べて歌舞〉しました。
この時、神々は〈あな面白〔=ああ面白い〕、あな楽し〔=ああ楽しい〕〉と唱えました。つまり、日が当たって顔がはっきりと見えたので「面白し」(「しろし」には「はっきりしている」の意味があります)、手を伸ばして踊ったので「楽し」ということばができた、という話になっています。
これは、ギャグのつもりでこじつけた説とも考えられます。でも、意外に、後世の語源研究では重視されています。先に紹介した「楽しい」が「手伸し」から来たという説などは、まさに「古語拾遺」そのままです。
大野晋は『日本語の年輪』で「面白い」の語源について触れています。その説明も、「古語拾遺」の変形です。
〈「おもしろ」は面白が原義で、目の前がパッと明るくなる感じをいったのである。それで、月の白く照るのをおもしろ(原文傍点あり)と言い、林をぬけて、眼前がパッと開けて明るい光がまぶしい時にもおもしろかった〉
大野の言うとおり、「面白い」は、もともと、ものや景色の様子をプラス評価する形容詞でした。「万葉集」では、縫った袋、夜空を渡る月、旅先の山、野原、人の様子などに「面白し」が使われています。今でも「この庭は面白い」と言います。このようなプラスの評価性形容詞が、後にプラスの感情も表すようになったのです。
大野説は、なかなか説得力があります。ただ、〈目の前がパッと明るくなる〉のであれば、「面白い」ではなくて「面前(おもまえ?)白い」とでもなるはずです。「前」という要素はどこからやって来たのでしょう。
その不自然さを解決しようとしたのが、堀井令以知『ことばの由来』の説明です。
〈オモは面であり、したがってオモシロイはオモテ(表面)が明るくなることである〉
なるほど、「面」と「表」は同語源です。「水の面」といえば「水の表面」ということです。「おも」は「顔」ではなく「表面」だと考えれば、つじつまは合います。
ただ、古来、「おも~し」という形の形容詞は、いずれも「顔」に関係しています。「面立たし」(面目が立つ気持ちだ)、「面にくし」(顔を見るだけでもにくらしい)、「面はゆし」(相手の顔がまぶしく感じるほど恥ずかしい)など。この中で「面白し」の「おも」だけを「表面」と考えるのは場当たり的とも言えます。
私としては、「面白い」の「面」は「顔」、「白い」は「パッと明るくなる」と解して差し支えないと考えます。つまり、きれいな景色などを見て、顔がぱっと輝く感じがする、ということです。
現代語では、「顔を輝かせる」と言えば「うれしさを顔に表す」という意味です。また、最近の若者の俗語ですが、期待する気持ちを表すとき、「ワクテカ」(わくわくして顔がてかてかする)とも言います。古代の人が、自分の顔が輝くほどいいものの様子を「面白し」と表現したと考えても、不自然ではないでしょう。
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飯間浩明
国語辞典編纂者。1967(昭和42)年、香川県生れ。早稲田大学第一文学部卒。同大学院博士課程単位取得。『三省堂国語辞典』編集委員。新聞・雑誌・書籍・インターネット・街の中など、あらゆる所から現代語の用例を採集する日々を送る。著書に『辞書を編む』『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか? ワードハンティングの現場から』『不採用語辞典』『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』『三省堂国語辞典のひみつ―辞書を編む現場から―』など。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 飯間浩明
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国語辞典編纂者。1967(昭和42)年、香川県生れ。早稲田大学第一文学部卒。同大学院博士課程単位取得。『三省堂国語辞典』編集委員。新聞・雑誌・書籍・インターネット・街の中など、あらゆる所から現代語の用例を採集する日々を送る。著書に『辞書を編む』『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか? ワードハンティングの現場から』『不採用語辞典』『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』『三省堂国語辞典のひみつ―辞書を編む現場から―』など。
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