世界のなかで見れば「東」にある日本の、しかし「西」のはじっこにある長崎。その名の由来である「長い岬」には、1571年の開港とともに、島原や平戸、大村などの周辺地域から集まり、あるいは逃れてきたキリシタンたちによって、貿易と信仰のための新しい町が作られる。それから約450年、長崎の町はこの岬を軸にして広がってきた。
「長い岬」は、おもな観光地であるグラバー園や眼鏡橋、中華街、あるいは平和公園とは、また別のエリアにある。多くの観光客が利用する路面電車も、岬を迂回するように走っている。開港から禁教、繁栄、開国、原爆……この町に起こった歴史が、これでもかと織り込まれているはずなのだが、見た目には小さな地方都市の官庁街に過ぎない。
この岬の上で、なにが生まれ、失われてきたのかを見てみれば、少し、長崎がわかるかもしれない。
「長い岬」を中心にした長崎の町は、東・西・北の三方を山々に囲まれている。
北の中央に座す「金比羅山」の麓に広がる森は「諏訪の杜(すわのもり)」と呼ばれている。「諏訪」とは、森の中心にある「諏訪神社」のこと。長崎の氏神さま「おすわさん」として親しまれ、秋の大祭「長崎くんち」はこの神に捧げられる。
「長い岬」は、諏訪神社を起点に、港へ向かって突き出している。とはいえ、神社がこの森に置かれたのは、1625年のこと。1571年の開港から54年、1614年の禁教からも11年が過ぎている。長崎の町がひととおり作られていたばかりか、一時代を築いたキリシタンたちの姿も、表立っては見えなくなったころだ。
開港前、この地には「神宮寺」があり、金比羅山一帯に30を超える支院が点在していたが、跡形もなく壊され、焼かれたそうだ。江戸時代の旧記にはでてくるが、これといった物証がないので、半ば伝説の存在である。
伝説の神宮寺の社地であり、現在の「諏訪の杜」の一角には、「長崎歴史文化博物館」がある。お隣の「長崎県立図書館」とともに、多くの歴史資料が収められている長崎の記憶庫だ。この地の変遷をたどれば、禁教までは「山のサンタマリア教会」と墓地、教会の破壊後は「長崎奉行所立山役所」、明治以降は知事公舎や学校を経て、1965年に「長崎県立美術博物館」が建てられた。現在の長崎歴史文化博物館が作られる際の発掘調査では、奉行所の遺構が多数みつかり、階段や壁の石組みなどに生かされている。
1614年の禁教以前、長崎の町には、多い時で10を超える教会が並び、「小ローマ」とも称された。そのすべては激しく壊され、別の建物が“上書き”されているので、教会の「現物」を見ることは難しい。長崎歴史文化博物館そばの「サント・ドミンゴ教会跡資料館」は、教会の礎石や石畳の回廊が、発掘されたままの姿で見られる貴重な場所だ。
礎石や出土品のほか「地層」が展示されているのが興味深い。教会時代の地面、破壊した教会を燃やした焦土、禁教後の代官屋敷時代の遺物が含まれた土は、この地に積み重なった時間の断層である。
明治以降は小学校となって現在に至る。時が止まったかのような静けさだが、時折響いてくる子どもたちの歓声は、失われたものへの慰めにも聞こえる。
壊された教会は、その後、役所や寺社となる場合が多いのだが、「サン・フランシスコ教会」は「桜町牢」となり、摘発された多くのキリシタンが収容された。教会跡の碑の説明板の古地図には、「拷問所」の文字。横の坂をくだった先の小さな川は「地獄川」と呼ばれる。
教会が建つ以前はキリシタン墓地があり、もっとさかのぼれば、鎌倉から室町時代にかけての埋葬跡も発掘されている。前回、開港以前の「長い岬」は、生者よりも死者が安らぐような場だったのでは? と想像してみたが、もしそうであったなら、その傾向がさらに色濃く現れやすい場所なのかもしれない。
開国後は監獄、税務署、長崎商工会議所を経て、市役所別館と水道局、保健所となった。
前回見たように、開港直後、「長い岬」の突端には、まず6つの町が作られた。貿易と信仰を求める人はその後も絶えなかったので、新しい町が次々とできた。現在「長崎市立図書館」がある「興善町」は、博多のキリシタン商人・末次興善(すえつぐこうぜん)が開いた。息子の代で長崎代官にまで上り詰め、サント・ドミンゴ教会の跡に屋敷を構えたので、この地は奉行所の「武具蔵」や、「唐通事会所」「活版伝習所」などとして使われた。
東西の医学を修めた儒医・向井元升が「霊蘭堂(れいらんどう)」を開いた地でもある。ここで生まれた次男が、後に芭蕉の高弟となったことから「向井去来生誕地」の碑が建つ。
明治には「興善小学校」、昭和に入れば「新町小学校」も合わさって「新興善小学校」(当時は新興善尋常小学校)となるが、平成9年に閉校、平成16年には建物も解体された。
その間、5年ほど病院だったことがある。昭和20年8月9日の原爆による火災で、「長い岬」の建物はほとんど燃え尽きたが、鉄筋コンクリート造りの小学校は比較的残ったので、救護所として使われた。市立図書館には「救護所メモリアル」として、解体された建物の一部を使い、当時の様子が再現されている。廊下の窓枠には、被爆者の写真や解説文が貼り込まれていて、訪れる人はつらい気持ちになるかもしれない。
それでも、ここで6年間を過ごした私には、古びた壁も床も、すべてが懐かしい。原爆の救護所として使われたこともあるけれど、診察室は教室。百数十年のほとんどは、小学校だった。
禁教前の長崎の町では、病院や福祉施設もキリスト教の信仰に基づいて運営されていた。現在の長崎地方法務局には、「慈悲屋」と訳された「ミゼリコルディア」本部があり、行き場のない孤児や老人、ハンセン病の人などが暮らしていた。その役割の重さから、1614年の禁教でも残されていたのだが、結局は破壊され「大音寺」となる。寺はその後移転し、かわりに天満宮が置かれた。
ここから長崎県庁までは「フロイス通り」。イエズス会の宣教師で『日本史』を著したルイス・フロイスにちなんでいる。
いよいよ岬の突端。
「森崎」の名を持つ神さまが祀られていたこの地には、開港してすぐ「岬の教会」が建てられた。その後「被昇天のサンタマリア教会」となり、イエズス会の本部や高等教育機関「コレジオ」が開かれるなど、日本のキリスト教の中心地でもあった。
禁教後は「長崎奉行所西役所」となり、目の前の海に出島が造られた。幕末には「海軍伝習所」、洋学教育機関「広運館」も併設されたが、明治に入ると長崎県庁が置かれた。長崎の行政の府であったことは、常に変わらない。
が、県庁は長崎港への移転が決まっている。そして移転した跡地をどうするかは、各方面から様々な案が出されてはいるが、なんと、決まっていない。個人的には「森に戻す」「コレジオがあったので大学にする」案を押したいのだが、さて、どうなるだろう。
たった1キロほどの「長い岬」に、これだけのものが重なっている。実際に歩いても、当時の建物はなく、なにかの跡だったことを示す墓石めいた碑がやたらと現れるばかりだが、ここで起こったことや、祈りに包まれた空間は、たしかに存在したのだ。
長崎の歴史は常にスクラップアンドビルド。しかもその破壊は、自然の流れや、人々の望みではなく、禁教や原爆による徹底したものだった。もっとさかのぼれば、この地にやってきたキリシタンもまた、それ以前の寺社を打ち壊した。「だれが悪い」「こっちがひどい」という話ではなく、この長い岬の上では、その時々の「現在」が徹底して壊され、封印されてきた。
岬だけではない。1996年から本格的な復元が進められている出島も、その役目を終えた明治期には削られ、埋め立てられ、なによりの特徴である扇の形をあっけなく失った。居留地時代の洋館・旧香港上海銀行長崎支店は、解体寸前まで行って助かったけれど、多くの洋館は惜しげもなく取り壊された。
長崎の人が「もう過ぎたこと」に対して取る態度は、時として、それがまるで最初からなかったかのように冷たい。もしかしたら、最初から思いなどかけていないのかもしれない。
そんな気質は、破壊をともなう歴史によって培われたのだろうか。結論を急ぐことはしないが、長崎の町も人も、オープンなようでいて、本来の姿を(自分でもわからないうちに)扉の向こうに封じている。この町に長く暮らす私自身の中にも、そういう傾向がある気がするし、だからこそ見つめ直してみたいとも思う。
重い扉が、かすかに開く日がある。
秋の大祭「長崎くんち」へ、その鍵を探しに行ってみよう。
(写真・イラスト ©Midori Shimotsuma)
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下妻みどり
しもつま・みどり 長崎のライター。1970年生まれ。著書『長崎迷宮旅暦』『長崎おいしい歳時記』『川原慶賀の「日本」画帳』。TVディレクターとして長崎くんちを取材した「太鼓山の夏〜コッコデショの131日」は、2005年度日本民間放送連盟賞受賞。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 下妻みどり
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しもつま・みどり 長崎のライター。1970年生まれ。著書『長崎迷宮旅暦』『長崎おいしい歳時記』『川原慶賀の「日本」画帳』。TVディレクターとして長崎くんちを取材した「太鼓山の夏〜コッコデショの131日」は、2005年度日本民間放送連盟賞受賞。
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