学問とは、人生いかに生きるべきかをとことん考えることだ、そのためには、身の回りのことで誰もが知っていることをより深く、より精しく知ることから始める、それが学問というものだと小林先生は言っていた。そういう学問の具体的な姿が本居宣長の「石上私淑言」(いそのかみのささめごと)にはっきり見てとれる、宣長は、この本で、歌とは何かを論じたのだが、歌は人の情から生まれると言い、そしてその情、すなわち歌を生み出す人の心は、男も女も等しく弱いものだと話を進めて、「石上私淑言」とほぼ同時に書いた「紫文要領(しぶんようりょう)」ではこう言った。今回は、宣長の原文の旧仮名づかいのままで引く。
――大方(おほかた)人の実(まこと)の情(こころ)といふものは、女童(めのわらは)のごとく、未練に、愚かなるものなり、男らしくきつとして賢きは、実の情にはあらず、それはうはべをつくろひ飾りたるものなり、実の心の底をさぐりてみれば、いかほど賢き人もみな女童に変ることなし。それを恥ぢてつつむとつつまぬとの違(たが)ひめばかりなり。……
前回は、ここまでを聞いていただいた。
さて、その「紫文要領」の文章は、次のように続いている。
――唐(もろこし)の書籍(ふみ)は、そのうはべのつくろひ飾りて努めたるところをもはら書きて、実(まこと)の情(こころ)を書けることはいとおろそかなり。ゆゑにうち見るには賢く聞ゆれども、それはみなうはべのつくろひにて実のことにあらず。そのうはべのつくろひたるところばかり書ける書(ふみ)を見なれて、その眼(まなこ)をもて見るゆゑに、さやうに思はるるなり。……
女の心は弱くめめしく、未練がましいものだ、しかし、男の心はそうであってはならない、強くあらねばならない、と誰もが思いこんでいる、男も女もそう思いこんでいる。だから、男の子は、弱音は吐くな、めそめそするな、人前で泣いたりするな、と父親からも母親からも言われて育つ、だがこれは、とんでもない無理強いである、男はこうでなくてはならないというこの強制は、何事であれうわべを繕う中国から来たものなのである。
たとえば、武士が戦場で討死にしたと書くときは、彼はいさぎよく死んだと印で押したように書かれる。そういうふうに表面を書けば、いかにも勇者と見えて立派であろう。だが彼は、ほんとうにいさぎよく死んだのか。
――その時の実の心のうちを、つくろはずありのままに書く時は、故里(ふるさと)の父母も恋しかるべし、妻子もいま一度(ひとたび)見まほしく思ふべし。命もすこしは惜しかるべし。これみな人情の必ずまぬかれぬところなれば、誰とてもその情(こころ)は起るべし。その情のなきは岩木(いはき)に劣れり。それをありのままに書きあらはす時は、女童のごとく未練に愚かなるところ多きなり。唐の書はその実のありのままの情をば隠して、つくろひ嗜(たしな)みたるところをいへば、君のため国のために命を棄つるなどやうのことばかりを書けるものなり。……
この、何事もつくろい飾り、四角ばった理屈で固めようとする中国の考え方、これこそが宣長の言う漢意(からごころ)なのだが、宣長の生きた江戸時代にとどまらず、今日の私たちも依然として漢意につきまとわれている。まず挙げたいのが「不動心」である。
宣長の、「玉鉾(たまぼこ)百首」という歌集に、こういう歌が並んでいる。
事しあれば うれしかなしと 時々に 動くこころぞ 人のまごころ
動くこそ 人の真心(まごころ) 動かずと 言ひて誇らふ 人は石木(いはき)か
真ごころを つつみ隠して 飾らひて いつはりするは 漢(から)のならはし
唐人(からひと)の しわざならひて 飾らひて 思ふ真心 いつはるべしや
小林先生は、「本居宣長」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集所収)の第三十七章で、この四首は、まるで「人の真ごころとは」という題をとり、ただちに詠んだ、というような姿を見せている、と言って続ける。「真ごころ」とは、私たち誰もが持って生まれたままの心、である。
――人の情(ココロ)は、事に当って、うれしかなしと動くものとは、誰も承知しているが、そういう情こそ、人間のまごころと呼ぶべきものだ、およそ人間のこころの本質を成しているものだ、と納得するのは、また別の話だ。……
――「すべて人の情(ココロ)の自然のまことの有りのままなる所は」、「女童のごとく、はかなく、みれんに、おろかなる」ものであると宣長は言う。そう言われて、これに同調する者も、「男らしく、きつとして、かしこきは、実の情にはあらず、それはうはべをつくろひかざりたる物なり」と言われれば、首を傾げるだろう。大事は、この宣長の考えの徹底性にある。……
――人の有るがままの心は、まことに脆弱なものであるという、疑いようのない事実の、しっかりした容認のないところに、正しい生活も正しい学問も成り立たぬという、彼の固い信念、そこに大事がある。「うごくこころぞ 人のまごころ」と歌われているところは、動かなければ、心は心である事をやめる、動かぬ心は「死物」であるという、きっぱりとした意味合なので、世に聖人と言われている人が、いかに巧みに「不動心」を説いてみせても、当人の「自慢ノ作リ事」を出られないのは、死物を以て、生物を解こうとする、或は解けるとする無理から来る。……
今日では、聖人と言われている人が不動心を説く、などという図は一般にはまず見られないだろう。が、それでも「不動心」という言葉は、今なお健在だと言えるのではないか。武芸、武道、スポーツの世界では、今も盛んに言われているのではないだろうか。
身近なところでは、松井秀喜さんに『不動心』という本がある(新潮新書)。この本は、二〇〇六年五月十一日(米国時間)、松井さんがヤンキースタジアムでのレッドソックス戦でスライディングキャッチを試みて左手首を骨折した年の翌年、二〇〇七年の二月に刊行されてたちまちベストセラーとなった。書名の「不動心」は、石川県出身の松井さん自身の言葉、「日本海のような広く深い心と 白山のような強く動じない心 僕の原点はここにあります」から採られている。
この本が、ベストセラーになったについては、むろん松井さんの名声と人柄、その松井さんを襲った不慮の事故、などが大きな要因となったに違いないが、「不動心」という書名も与って力となっていただろう。私たちは、いつも、揺れて動いて定まらない自分の心が不安でたまらない、なんとかその揺れ幅を小さくしたい、できることなら動じない心が欲しい、そう思っている。そこの秘訣を松井さんに教わりたい、そういう心理が多分に働いたはずである。
しかし、宣長によれば、「不動心」も漢意なのである。紀元前四世紀から三世紀にかけての中国の思想家、孟子の言動を、弟子たちが編纂した本『孟子』にあるという。宣長は、それを非難して言っている。
――孟子ニ、不動心ト云ルハ、大ナル偽ニシテイミジキヒガ事也、心ハモトヨリ動クガソノ用也、動カザルトキハ死物ニテ、木石ニ異ナル事ナシ、孟子ガ王道ヲ行ハシメムト思フモ、則(スナハチ)心ヲ動カスニアラズヤ、又、養浩然之気ト云ルモツクリ事也、孔子ニハ、カヤウノウルサキ事ハ、露バカリモ見ヘズ、聖人ノ意ニアラズ、コレモ、カノ心ヲ動カサズト云ト同ジタグヒノ、自慢ノ作リ事也。……
「ヒガ事」は、事実に合わない事、心得ちがいをしている事、である。「養浩然之気」は「浩然の気を養う」で、「浩然の気」は俗事から解放された屈託のない心境を言い、これも『孟子』に見えている。
孟子と言えば、孔子の思想を忠実に継承した人、性善説に基づいて道徳や修身修養を説いたとされる人だが、「不動心」は、それほどに偉い孟子が言ったことだとして闇雲に信奉されてきたのではあるまいか。宣長のこの孟子批判は、彼の随筆集「玉勝間」の下書にあるもので、外には知られる機会のないままとなったのであろう。
そういう次第で、松井さんの『不動心』を読むにあたっては、宣長の「玉鉾百首」の四首をまずもって頭においておきたい。松井さんが『不動心』で語っているのは、世に言うところの不動心ではない。「事しあれば うれしかなしと 時々に 動」いた、松井さんの「まごころ」である。「人のあるがままの心は、まことに脆弱なものであるという、疑いようのない事実の、しっかりした容認」の上に立って求められた野球人の生き方である。そのことは、この本の「はじめに」にも書かれている。したがって、「不動心」という書名が指し示しているのは、何があろうとも野球がしたい、野球をするのだという、そこだけは決して動かなかったしなやかな、弾力に富んだ松井さんの初心である。
この本には、当然のことに松井さんの師匠、長嶋茂雄さんが何度も登場する。小林先生は、別段巨人ファンというわけではなかったが、長嶋さんと王貞治さんには終始刮目していた。先生が「本居宣長」を書いていた昭和四十年代、ONの打棒は凄まじかった。先生は、いま日本でいちばん学問をしているのは長嶋と王だとさえ言っていた。
長嶋さんは、現役時代、「バッティングとは何ですか」とインタビューで訊かれ、「球を打つことです」と答えたという。この長嶋さんの答えは、所謂「長嶋茂雄迷語録」に入って今も語り草になっているようなのだが、私はこの答えが大好きである。バッティングという誰もが知っていることを、より深く、より精しく知る……、長嶋さんは、やはり小林先生の言う「学問」をしていたのだと思えるからである。
(第三十六回 了)
★小林秀雄の編集担当者・池田雅延氏による、
小林秀雄をよりよく知る講座
小林秀雄と人生を読む夕べ【その7】
美を求める心:「蓄音機」
3/15(木)18:50~20:30
la kagu 2F レクチャースペースsoko
平成26年(2014)10月に始まったこの集いは、第1シリーズ<天才たちの劇>に<文学を読むⅠ><美を求めて><文学を読むⅡ><歴史と文学><文学を読むⅢ>の各6回シリーズが続き、今回、平成29年10月から始まった第7シリーズは<美を求める心>です。
*日程と取上げる作品 ( )内は新潮社刊「小林秀雄全作品」の所収巻
第1回 10月19日 美を求める心(21) 発表年月:昭和32年2月 54歳
第2回 11月16日 鉄斎II(17) 同23年11月 46歳
第3回 12月21日 雪舟(18) 同25年3月 47歳
第4回 1月18日 表現について(18) 同25年4月 48歳
第5回 2月15日 ヴァイオリニスト(19) 同27年1月 49歳
第6回 3月15日 蓄音機(22) 同33年9月 56歳
☆いずれも各月第3木曜日、時間は18:50~20:30です。
第6回の3月15日は「蓄音機」を読みます。
近年、蓄音機のファンがどんどん増えています。この講座と同じla kaguで昨年から始まった三浦武さんの「蓄音機を聴く」も毎回満員札止めの盛況ですが、実は三浦さんの蓄音機熱も小林氏の「蓄音機」に発しています。
明治40年代、小林氏が小学生の頃、理科系の技術者であり発明家であった父親がアメリカから蓄音機を買ってきました。エジソンが発明したのと大差はなかっただろうという程度の蓄音機、それが氏をレコード少年にし、以来氏はダイヤモンド針、竹針、電蓄、ハイファイと、周りにあおられたりもしながら様々な音と音楽を経験してきました。
今日全盛のCDは、氏の生前はまだほとんど出回っていませんでした。氏の音楽経験は、同じ機械の音とは言ってもはるかに人間的な響きで聴かせてくれる蓄音機とレコードによってもたらされていました。氏の「蓄音機」を読んでレコードを聴けば、よりいっそう手作りの音と音楽の暖かさが感じられます。
◇「小林秀雄と人生を読む夕べ」は、上記の第7シリーズ終了後も、小林秀雄作品を6篇ずつ、半年単位で取り上げていきます。
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池田雅延
いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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