語源を探究する苦労について語るとき、「バリカン」についての話は外せません。
理髪店に行って、髪の後ろや横をバリカンで一気に刈ってもらうのは気持ちのいいものです。この「バリカン」という器械の名称がどこから来たか、昔の言語学者には分かりませんでした。
英語ではhair clipper(ヘアクリッパー)と言うそうです。ドイツ語ではHaarschneider(ハールシュナイダー)、フランス語ではtondeuse(トンドゥーズ)……。「バリカン」の「バ」の字もありません。
日本語だろうか、とも考えられたようです。バリバリ刈る器械だし、金属製でカンカン音がするから、というわけ。説得力はありませんね。民間の語源説でしょう。
ここで早くも、「『バリカン』は会社名じゃないの?」と突っ込む読者がいるかもしれません。はい、正解です。『三省堂国語辞典』(三国)第7版にもこうあります。
〈バリカン〔←フBariquand et Marre=製造所の名〕かみの毛を刈りこむ、金属で作った道具〉
つまり、フランスの「バリカン・エ・マール」という会社の製品だから、日本で「バリカン」と呼ばれるようになったんですね。このことを突き止めたのは、言語学者の金田一京助です。わりあい知られた話かもしれません。
この話が有名なのは、結論に至る過程がドラマチックなためと、金田一が大学の講義で繰り返し紹介したからです。語源の探究というものは難しく、「バリカン」のようにうまく結果が出ることはまれだ、という例として話したのです。後の言語学者、楳垣実や大野晋も、学生としてその話を聞いたと述べています。先に引用した『三国』の初代主幹・見坊豪紀も間違いなく聞いたでしょう。
ただ、今日、書物やウェブサイトなどで紹介されている「バリカン」の語源探究のエピソードは、それぞれ微妙に違っています。要するにどういうことだったのか、資料に基づいて構成してみましょう。
バリカンは1883(明治16)年頃、駐仏公使の長田桂太郎が日本に持ち帰ったのが始めといいます(江馬務『日本結髪全史』)。1885~86年頃に舶来したという説もあって(石井研堂『明治事物起原』)、曖昧ですが、まもなく普及したようです。
金田一が「バリカン」の語源を探究しようと思ったのは、それからずっと経った大正時代のこと。当時、彼はまだ大学教授ではなく、出版社の三省堂に勤務し、『日本外来語辞典』の編集を担当していました。この辞書には「バリカン」という項目が載るはずでした。ところが、編纂者の先生方は、誰もその語源が分からない。それでは、というので金田一自身が調べることになりました。
金田一が「バリカン」の探究にかけた期間は、彼の文章の中で「2年」とも「3年」とも書かれています。まあ、少なからず時間をかけたわけですね。その間に調べた文献は「幾百種」。それでも、さっぱり手がかりが得られませんでした。
そんなある日、彼は本郷の「喜多床」に散髪に行きました。この「喜多床」は日本で一番古い理髪店で、現在まで続いている老舗です。
店主との雑談で、「この器械を『バリカン』というところ(言語)はないかな」とつぶやきました。若い店主の2代目船越景輝は、即座に「ありません」と言います。店主は、この器械の外国語を調べて雑誌に書いたばかりだったのです。
それならば、と金田一はまた尋ねます。「バリカンの器械か箱かなんかに『バリカン』とは書いてないものかな」
すると、店主はバリカンの刃を見せて「ありましたよ」。そこには、「Bariquand...」と製造会社の名前が刻印されていました(Barriquandとrがひとつ多い辞書が複数ありますが、誤りです)。
しばらくして、金田一がまた「喜多床」に行くと、店主は器械の箱を見せました。
「先生、バリカンの語源はこれです」
箱にも、刃と同様の文字が書かれています。これで問題は完全に解決されました。「バリカン・エ・マール」というフランスの製造会社の名前が、製品の名前に転用されたことは明らかでした(このいきさつは、『言語生活』1954年8月号での金田一の談話を中心にまとめました)。
『日本外来語辞典』は、1915年に無事刊行されました。「バリカン」の項目には、金田一の次のような説明が載りました。
〈Barikan, n.散髪器械。Fr. Bariquand.☞モト仏蘭西巴里ノBariquand & Marre製造所製作ノ器械ヲ用ヒシヨリ、漸次器械ノ名称トナリタルモノナリ。同社ノ銘アル器械ハ、現ニ東京市本郷区森川町喜多床ニ蔵ス。[Kindaichi]〉
実例を「喜多床」で見たことまで書き添えた、証拠能力の高い記述です。ただ、金田一本人は、あれだけ調べたのに〈出来上った辞書の中に占めた分量といえば、僅々(=わずか)三行に過ぎなかったのである〉(荒川惣兵衛『外来語辞典』初版に寄せた序文)と、自虐的に表現してもいます。
そう、辞書の説明というのは、どんなにすごいことを発見しても、それを数行にまとめなければならないんですね。
金田一は、この苦労話を、「語源の探究は面白い」という例として話すことはありませんでした。むしろ、「このように事実が分かることはまれである、語源探究は、多くはこじつけに陥ってしまうので注意せよ」と、警鐘を鳴らすための例としたのです。
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飯間浩明
国語辞典編纂者。1967(昭和42)年、香川県生れ。早稲田大学第一文学部卒。同大学院博士課程単位取得。『三省堂国語辞典』編集委員。新聞・雑誌・書籍・インターネット・街の中など、あらゆる所から現代語の用例を採集する日々を送る。著書に『辞書を編む』『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか? ワードハンティングの現場から』『不採用語辞典』『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』『三省堂国語辞典のひみつ―辞書を編む現場から―』など。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
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著者プロフィール
- 飯間浩明
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国語辞典編纂者。1967(昭和42)年、香川県生れ。早稲田大学第一文学部卒。同大学院博士課程単位取得。『三省堂国語辞典』編集委員。新聞・雑誌・書籍・インターネット・街の中など、あらゆる所から現代語の用例を採集する日々を送る。著書に『辞書を編む』『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか? ワードハンティングの現場から』『不採用語辞典』『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』『三省堂国語辞典のひみつ―辞書を編む現場から―』など。
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