承前:連載の意図
本連載で私が試みるのは、演歌(というよりここはあえて「艶歌」と表記したい)を、「北島三郎的なもの」として再想像、もっといえば再創造する、ということだ。
北島三郎が演歌歌手なのは当たり前だ、何をいまさら、と思われるかもしれない。そうではなく、北島三郎を論じることを通じて、私がかつて明らかにした演歌ジャンルの枠組を、かなり根底的に修正し、あるいは転覆させようという大それた野望を持っているのだ。
つまり、演歌ジャンル確立期のいわば原義である夜の巷の流し、つまり艶歌師とその歌を体現する存在として北島三郎をとらえ、それを、1970年代以降の演歌ジャンル(のみならずアイドルを含む日本の大衆歌謡のかなりの部分)において強い規範、または呪縛となってきた「五木寛之=藤圭子的な演歌(艶歌、怨歌)像」に対するオルタナティヴとして提示する、というのが本連載における私の目論見だ。
五木寛之による「艶歌」
上記の説明だけでなるほど、と思った方はここからしばらくの記述は飛ばしていただいて構わない。しかし「五木寛之=藤圭子的な演歌像」って何よ、という方が大半だろう。ごく図式的に説明する。これで物足りない方はぜひ拙著『創られた「日本の心」神話』を参照していただきたい。
レコード会社が商品として生産する流行歌という音楽形態は、昭和初期から戦後初期までの知識人・文化人にとって、それ自体、低俗・下品・商業主義的なものとして唾棄すべき存在であった。それに対抗して、1960年代に入ると、寺山修司や竹中労をはじめとする一部の若い新左翼的な反体制文化人の間に、低俗・下品・商業主義的な流行歌こそが大衆の真正な心情を反映する音楽である、という考え方が現れる。吉本隆明の「大衆の原像」もそのような流れの中に位置付けられるだろう(実際、吉本は、流し出身の歌手、アイ・ジョージが歌う明治時代の軍歌「戦友」に民衆的ナショナリズムの根を見出している[吉本隆明「日本のナショナリズム」『自立の思想的拠点』1966年])。そうした新しい傾向をうまく掬い上げ、それに「艶歌」あるいは「怨歌」という形容を与えたのがデビュー間もない小説家・五木寛之だった。
五木は1966年に、旧来型の職人的なレコード制作を行うディレクターと、CMソング制作から転じた若いプロデューサーの対決を軸とする小説『艶歌』を著している。そこでは、夜の巷の流し(演歌師または艶歌師)が歌うような古臭い流行歌、つまり「艶歌」こそが、「庶民の口に出せない怨念悲傷を艶なる詩曲に転じて歌う」「孤立無援の歌、いうなれば日本人のブルース」とされた。
さらに五木は1968年に小説『涙の河を振り返れ』の中でも、暗い影のある薄幸の少女歌手を登場させている。彼女は実生活において不幸になればなるほど歌の魅力を増してゆく。そして、研究者くずれのマネージャーは彼女の身辺に意図的に不幸を演出したうえで、彼女を真に偉大な歌手とするために、最後にそのことをすべて告白することによって、一生消えない不幸の刻印を押す、という筋書きだ。「彼女は下積みの日本人の、弱さや、貧しさや、哀しさや、おろかさを、一身に体現しているようにみえた」と語り、スターには〈不幸の味〉が必要だ、とマネージャーに助言する語り手は、社会心理学の若手講師という設定が与えられている。
この人物像は、明治以来の流行歌の歌詞を通じて民衆の社会心理を分析した『近代日本の心情の歴史』(1967)の著者である社会学者・見田宗介を明らかに想起させる。同書の主要な論点のひとつ、「悲しみの真珠化」との呼応もうかがえる。
こうした志向が、単に五木一人のものというだけでなく、当時の知的な言説における一つの潮流として存在していたことがわかる。五木が見田をパクった、ということではなく、見田の著作自体が、五木と同じく寺山や竹中の影響圏の中で参照しあっていた、というべきだろう。
『艶歌』と『涙の河をふり返れ』という2つの小説に基づいて、1968年に日活で映画『艶歌 わが命の唄』が制作される。この映画評を通じて、相倉久人や平岡正明といったジャズ評論家が演歌をめぐる言説に参入してくる。同時期、寺山の「天井桟敷」に所属する少女、カルメン・マキが、アングラ的な暗さを強調する「時には母のない子のように」で注目を集めている。同様の暗さを湛えた女性歌手として浅川マキを寺山らが発掘するのもこの頃だ。
藤圭子の登場
そして1969年、極端に不幸な生い立ちを強調しつつ、しかもそれが演出されたものであることをチラ見せしさえする、五木寛之の小説に出てくるような少女歌手として藤圭子がデビューし、爆発的な人気を集める。これは寺山や五木といった文化人周辺から出てきたものではなく、そうした動きを背景に、作詞家の石坂まさをという人物が仕掛けたものだ。
「演歌の星を背負った宿命の少女」とのキャッチコピーが付された彼女の大ブームの過程で、五木の小説『艶歌』では「流しが好んで歌うような古臭く暗い流行歌」として比喩的に用いられていたこの言葉が、「暗く古臭い流行歌」という含意をもってジャンル化される。なお、「艶歌」と表記するか「演歌」と表記するかは、レコード会社や媒体によって異なっていたようで、藤圭子が所属したビクターでは一貫して「演歌」の表記が用いられていた。
ところで、「古臭い流行歌」が独自にジャンル化された背景には、GSやフォーク以降、英語圏の若者音楽の影響を直接的に受けた音楽スタイルが定着し、旧来型の流行歌との相対的な違いが大きくなっていたことがある。時代遅れになりつつあった旧来型の流行歌を、別な仕方で肯定的に特徴づける必要がレコード会社の側にもあった、ということだ。
演出された不幸に翻弄される少女歌手というイメージ、あるいは捨てられた女の悲哀という主題は、藤圭子によって結晶化された、暗く、弱く、貧しく、怨念に満ちたものとしての「演歌」を強く規定してゆくことになる。それだけではなく、そうした暗さのイメージは、後年たとえば山口百恵の売出しにも流用され、十代の性愛を明らかに暗示させる曲を素知らぬ顔で歌う(歌わされる)ことがアイドル歌謡の定型となってゆく。
その延長線上に、明らかに性的な含意を持つ歌を無邪気なふりをして歌わされながら、実際の性的行動は厳しく禁じられ、それを逸脱した場合には丸坊主になって謝罪させられるような残酷ショーめいた現在のアイドル文化があることはいうまでもない。理不尽に強制された試練を演じさせられる少女に淫靡な魅力を感じるというだけでなく、その背後で演出する存在(ほとんどの場合大人の男性)への関心や、そうした操り人形的な構図それ自体への偏愛が、現在のアイドル文化(少なくともその言説)の基調となっているようにさえ思われる。
誰がための「大衆文化」か
ここで確認しておきたいのは、五木らの言説は、それ以前の世代の知識人の大衆文化批判の枠組をそのまま維持しつつ、価値判断のみを反転させたものに過ぎない、ということだ。つまり、現今の日本の文化状況を、「文明」を体現する「西洋近代」(それは「ヨーロッパ」でも「アメリカ」でも「ソ連」でもありえた)に対する劣位として捉える、という基本的な認識はそのままに、旧来の知識人のように「文明」の方へ啓蒙教化善導するのではなく、その「劣性」自体を「日本人」の宿命的な文化的特性として肯定する、という、ある種、居直り的な戦略といえる。「日本人の、弱さや、貧しさや、哀しさや、おろかさ」といった評言は、旧来の流行歌批判の紋切型であり、それを「だがそれがよい」とひっくり返したわけだ。
これは、旧来のインテリの鼻持ちならない西洋かぶれのエリート主義に対するカウンターとしてはある程度有効な戦略だったと考えられる(実際、戦後初期の知識人による流行歌批判は低劣・醜悪きわまりない)。しかし、日本の大衆文化をもっぱら想像上の「西洋」との比較で、しかもそれに対する劣位として固定したうえであえて肯定する、という見方は、きわめて「内輪」的であり、その後の「日本人論」(たとえば「ホンネ/タテマエ」二元論のような)に容易に横滑りするものだった、ということには注意が必要だ。さらにいえば、流行歌はそもそも「日本人の、弱さや、貧しさや、哀しさや、おろかさ」の表出なのか、という点は不問に付されている。
もう一つ、五木の説のアキレス腱であると私が考えていることがある。五木の小説『艶歌』は、旧来型のレコード制作を行う社員ディレクターを、伝統的な価値観を体現する庶民的ヒーローとして描き、夜の街の「流し」をその「手下」として捉えている。つまり、レコード流行歌の真正性は「流し」の自発的な協力によって支えられている、という構図を強調しているのだ。
そうした視点は、日本におけるレコード産業が、基本的には「流し」のような巷の音楽趣味を排除するような仕方で確立したという事実を軽視することにつながる。昭和のはじめに、ビクター、コロムビア、ポリドールといった外資系大手レコード会社が日本市場に参入し、企画から制作、流通まで一貫してレコード会社が主導する大衆歌謡制作を始めた。そうしたレコード会社製歌謡は、「流行歌」という用語で定着し、放送におけるその言い換え語として「歌謡曲」という言葉もあらわれた。「流行歌」の制作は、企画から小売まで特定のレコード会社の枠内で行われるきわめて独占的な垂直統合システムに基づいたものであり、歌手はもとより、演奏者や作詞・作曲家も特定のレコード会社と専属契約を結ぶ必要があった。多くは高等教育を受けた作曲家、作詞家による、レコード会社内で完結する楽曲制作(細川周平は「歌工場」と形容する)が進展する中で、明治末から大正期には巷の歌を広めるだけではなく積極的に作り出す存在であった演歌師は、はやり唄の作り手としての地位を失ってゆく。
つまり、1960年代後半時点における「流し」をレコード会社の社員ディレクターの「手下」として描く五木の視点は、レコード会社製の「流行歌」こそが、巷の演歌師がかつて有していた創作性を奪った当のものである、という歴史を隠蔽する。そして1960年代後半の時点でたかだか40年の歴史しかないレコード会社主導の流行歌制作スタイルを、商業主義的で非人間的な「悪玉」であるマーケティングとタイアップを重視する新しいタイプのレコード制作と対比することで、前者を「流し」の庶民的な感性に裏付けられた「古き佳きもの」として提示している。
五木自身の述懐によれば、こうした見立ては、彼がCM制作会社からレコード会社に転じた際の印象に基づくもので、「時代から孤立したスネモノが、世間に認知されないコンプレックスをバネにして、歌謡曲を作っていたように思え」、それを「『前近代』と否定するのではなく、むしろ、『反近代主義の新鮮さ』を持った人々というふうにとらえた」という。五木自身の意図はどうあれ、1960年代後半時点における慣習的なレコード制作手法を魅力的な「反近代主義」として描くことは、そうした制作手法を、変化の必要がなくそのまま継承されるべき「古き佳き伝統」とみなす、という、従来のレコード会社にとっては甚だ都合のいい解釈を引き出すことを可能にしたのではないか。
ありえたかもしれない艶歌の可能性
こうした「五木=藤」的な方向でジャンル形成された演歌像に対して、私は違う可能性を示したい。
そこで注目するのは、五木寛之が小説『艶歌』を著す前年の1965年に、「流し」出身でそのイメージを強調する北島三郎が大当たりを取り、局所的ではあれ「艶歌ブーム」を巻き起こしていた、という事実である。そして、はじめから近代的・商業的な音楽であったレコード流行歌を、「流し」の経験に基づいて、いわばハッキングするような形で土着化させた北島三郎の音楽は、「日本人の、弱さや、貧しさや、哀しさや、おろかさ」ではなく(少なくともそれだけではなく)、「日本に限らず世界中の庶民の、強さと、豊かさと、陽気さと、賢さ」を体現しているのではないか、と主張したい。
一方でそれは、単に五木の『艶歌』を批判するだけではなく、その重要な視点でありながら、その後、あまり展開されていない「未組織プロレタリアートのインター[ナショナル]」という言葉を再検討することにもつながるだろう。
つまり、前著では五木寛之の影響に注目して演歌ジャンルの形成についての歴史記述を行ったが、本連載では、その蓄積に基づきながらも、そうではない「ありえたかもしれない艶歌」の可能性を模索する。そしてそれは、旧来の知識人の流行歌蔑視と、それを価値判断だけ反転させた新左翼型流行歌礼賛の土台自体を揺り動かし、可能であれば日本の大衆音楽についての語り方の歴史そのものを転覆させようとする壮大な試みでもある。
これが無謀な計画であることは百も承知だ。しかし、「ひとりぐらいはこういう馬鹿がいなきゃ世間の目は覚めぬ」(「兄弟仁義」)。
北島三郎とその歌に背中を押されて、艶歌をめぐる思索の旅を始めてみたい。
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輪島裕介
1974年石川県金沢市生まれ。音楽学者。大阪大学文学部・大学院人文学研究科教授。専門はポピュラー音楽研究、近現代音曲史、アフロ・ブラジル音楽研究。東京大学文学部、同大学院人文社会系研究科(美学芸術学)博士課程修了。博士(文学)。2010年に刊行した『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社新書)で、2011年度の国際ポピュラー音楽学会賞、サントリー学芸賞を受賞。著書に『踊る昭和歌謡 リズムからみる大衆音楽』(NHK出版新書)など。Twitter:@yskwjm
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 輪島裕介
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1974年石川県金沢市生まれ。音楽学者。大阪大学文学部・大学院人文学研究科教授。専門はポピュラー音楽研究、近現代音曲史、アフロ・ブラジル音楽研究。東京大学文学部、同大学院人文社会系研究科(美学芸術学)博士課程修了。博士(文学)。2010年に刊行した『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社新書)で、2011年度の国際ポピュラー音楽学会賞、サントリー学芸賞を受賞。著書に『踊る昭和歌謡 リズムからみる大衆音楽』(NHK出版新書)など。Twitter:@yskwjm
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