なぜ北島三郎なのか
前回私は、1960年代後半以降の新左翼的な思潮を背景に五木寛之が定式化した、「日本人の、弱さや、貧しさや、哀しさや、おろかさ」の表現としての艶歌という図式を逆転させて、「日本に限らず世界中の庶民の、強さと、豊かさと、陽気さと、賢さ」の表現として北島三郎の歌を捉える、と述べた。さらに、そこに暗示される「ありえたかもしれない艶歌」の姿を通じて、近代日本大衆音楽史の通念的な見方自体に挑戦したい、と宣言した。
今回は、その無謀な試みに着手するにあたって、私の立場と問題関心を示し、そこに我らが北島三郎を位置付けてみたい。北島三郎という個人の天才を崇拝する、ということではなく、「巷の歌」を歌う流し出身のレコード歌手が1960年代初めに登場し、その後、レコードのみならず映画やテレビや舞台の実演を中心に成功した、ということの意味合いを、歴史的に考えてゆくための道具立てを示してゆきたい。それは翻って、今まで北島三郎(に限らず重要な流行歌手)に関する学術的な研究が行われてこなかったのはなぜか、そしてその研究が必要なのはなぜか、を説明することにもなるだろう。
前2回が口上だったとすれば、今回は枕ということになろうか。いずれにせよまだ本題前ではある。柳家小三治師匠や音頭取りの名人方のように枕だけで満足させる芸は到底もちあわせていないにせよ、羽織を脱ぐまでいま少しお付き合いいただきたい。
限りなく「洋楽」に近い「日本の音楽」
日本の音楽史は、といきなり大風呂敷を広げるが、開国(または明治維新)を境として、その前と後では別物として扱われるのが一般的だ。それは「洋楽」つまり西洋近代音楽の影響の有無によって分けられる。音楽研究の領域で、「日本音楽史」といえば多くの場合、開国以前に存在した諸演目の歴史研究を指す。つまり西洋近代音楽の影響以前に存在していた諸芸が「邦楽」であり、その歴史は、畢竟すれば、ほとんどの場合家元制度に基づいて伝承された各流派の来歴を単純に合算したものである。
一方、開国以降の近代音楽史は、基本的に「洋楽受容史」として描かれてきた。それは、「遅れた」日本が、近代的国民国家(さらに植民地帝国)を目指す過程で、「進んだ」西洋近代諸国に備わる制度のひとつとして西洋近代芸術音楽を習得し受容してきた過程にほかならない。
そもそも、「音楽」という類概念自体、明治以降に定着した新しいものだ。西洋諸国の支配的文化及び制度の一部としての歌唱や演奏のありかたを日本に移植し、公教育におけるその教育者を養成するための公的な調査機関として設置された「音楽取調掛」(後の東京音楽学校、現在の東京芸術大学音楽学部)をきっかけとして日本語の語彙に登録されていった。その意味で、「音楽」という語彙ははじめから「洋楽」に限りなく近い含意があった。
「洋楽」としての「音楽」は、当初学校と軍隊という国家装置を通じて強制的に導入され、後には西洋の高級文化への同一化が可能なごく少数の特権的な階層のステータス・シンボルとして、また、学校的価値観を内面化した学歴エリートの教養主義的な芸術崇拝を通じて受容された。いずれにせよ「上」及び「外」から与えられるもの、学習すべきものであり、その受容層はきわめて限られていた。
俗悪? 過去の遺産?――「邦楽」の耐えられない軽さ
西洋近代芸術音楽を「普遍的」で「文明的」な規範とみなすこの立場からは、それまで存在した歌や楽器演奏は、花柳界や寄席、芝居小屋といった低俗で淫らな「悪所」と結びついたものとして敵視された。長唄なり清元なり箏曲なりといった種目や、それらを包括する語として「音曲」「鳴物」「歌舞音曲」と呼ばれたそれらの歌や演奏は、国民形成のために「音楽」を啓蒙・普及しようとする為政者にしてみれば、「洋楽」に取って代わられ排除されるべきものとして想定された。やがて、これらの音曲を、「俗悪」な実践の文脈から引き離され、無害化された博物館的な「過去の遺産」として旧来の形のままで保存されるべきものとする見方もあらわれる。そうした立場から使われ始めたのが「邦楽」という用語だ。
「邦楽」という用語は、明治40(1907)年に東京音楽学校内に「邦楽調査掛」が設置されたことをきっかけに用いられるようになった。それは既存の雑多な諸芸のうち、音楽取調掛を前身とする教育者養成機関である東京音楽学校で取り扱うにふさわしい、つまり「真面目な音楽」として捉えうるものを選択的に取り入れる概念であった。確立された流派に基づいて、演目の同定と五線譜による採譜、年表の作成、公開演奏会、といった形で、つまり、西洋芸術音楽を記述するような仕方で既存の音曲を取り扱うことを目指した。
お気づきのように、上述の、いわばアカデミックな専門用語としての「洋楽/邦楽」の対は、現在の大衆音楽領域における用語法とは、微妙に異なっている。現在一般に「洋楽」と呼ばれるものは、基本的には英語圏(及び若干の他の西洋語圏)の商業的レコード音楽としてのポップ/ロック(かつて「ジャズ」や「ポピュラー」と総称された娯楽的音楽群も含む)であり、「邦楽」は、その様式に基づいた日本製の音楽である。その意味で、ポピュラーな用法での「邦楽」は、アカデミックな音楽業界の用語法では「日本の洋楽」ということになる。
実際、軍楽隊出身で、『嵐を呼ぶ男』の音楽など大衆的な領域でも活躍した作曲家・トロンボーン奏者である大森盛太郎の著作は『日本の洋楽』と題されている。これはいわゆる芸術音楽と大衆音楽を並列して扱った良質の洋楽受容史である。なお、アカデミックな用法における「邦楽」を、ポピュラーな文脈で、主にレコードの分類名などにおいて指し示すときには、「純邦楽」なる面妖な語がしばしば用いられる。
「洋楽」がいわゆる「クラシック」を指す場合でも「ポピュラー」を指す場合でも、「洋楽/邦楽」の対は、単に生産地や様式の差異を中立的に示す指標では全くなく、明らかな優劣を含んで、「普遍/特殊」という含意を伴って用いられてきた、ということがわかるだろう。例えばジャズやロックなどポピュラーな「洋楽」を好む人が、いかにクラシックの権威性を批判したとしても、活字や録音といった複製可能な情報によって知的に媒介された舶来品としての音楽を規範と考える点では「洋楽至上主義」的な構図は変わらない。「洋楽」(及びその対として想定される「邦楽」)という言葉が示す対象は異なっていても、その規範性はかなりの程度共通している。
さらに問題なのは、いずれの場合にせよ、近代日本の音楽史は、「洋楽受容史」としてしか考えられてこなかった、ということだ。アカデミックな用法では、「邦楽」は定義上「近代以前」に完成・完結したものであるから、「近代以降」の歴史は無視されるか、せいぜい余生のようなものである。ポピュラーな用法では、「邦楽」は、「洋楽」の影響を通じて評価される。つまり、「洋楽」の歴史や最新の動向に詳しく、それらを適切に引用・模倣できることが優秀な音楽家の条件とされる。そのため、「邦楽」内部の連続性や影響関係は多くの場合看過される。
細川周平と大瀧詠一の日本音楽史
現時点で、近代日本音楽についての最も優れた学術的通史は、私の師匠の一人、細川周平『近代日本の音楽百年:黒船から終戦まで』(全4巻、岩波書店)であることは疑いない。いわゆる芸術音楽に限定されない視点は、それまでの洋楽受容史から大きな飛躍を遂げている。細川は既存の洋楽受容史の芸術音楽偏重と官学(音楽取調掛~東京音楽学校~東京芸術大学音楽学部)偏重を揶揄して、「上野から目線」と形容している。ここでの「上野」は、北からの上京者が降り立つ「おいらの心の駅」でも、恋に破れた女が青森駅に向けて乗り込む夜行列車の発車駅でもなく、官立機関の所在地である。それはさておき、大衆音楽を軸に開国以降の音楽史を通覧したこの記念碑的な労作でも、全体を貫く理論的な視座は「洋楽の衝撃」と設定されている。
しかしながら、実際にこの本を読んでいくと、その問題設定を裏切るような記述が多いことに気づく。いわゆる非エリート層にとって、三味線や箏曲や語り物やお囃子の感覚がいかに根強いものであり、「洋楽」を普及させようとするエリートがそのことにいかに頭を悩ませていたのかを示すエピソードが多く含まれている。「洋楽の衝撃」は、少なくとも人々の日常的な経験においてはきわめて限定的だったのではないか、と思わせる。ちんどん屋など、「洋楽」の要素が希薄な対象を描く際にひときわ筆が冴えているように思え、著者自身も「洋楽受容史」の枠組の呪縛から逃れようとしているのではないかとも邪推したくなる。
一方、おそらくポピュラーな文脈で最も知られた近代日本大衆音楽史に関する歴史的視点は、大瀧詠一の「分母分子論」だろう。そこでは、「分母」としての「洋楽」は、「世界史」と言い換え可能なものとされている。そして、「世界史分の日本史」として作られた音楽(たとえば古賀メロディ)においても、いつの間にか分母が忘却され、あたかも「日本史」として自明視される、という傾向を批判的に指摘する。
それ自体は卓見であるが、しかし、いつどのようにして「洋楽」が「分母」となりえたのか、さらに、いつどのようにしてそれが忘却されていったのか、については十分に語られない。開国または明治維新と同時に「世界史」としての「洋楽」が、人々の日常的な音楽感覚の基礎になった、などということはありえない。いつ基盤になったかも、いつ忘れられたかもはっきりしない「世界史」としての「洋楽」は、そもそも「分母」なのだろうか? しかし大瀧は、そういう仕方で問いをすすめるのではなく、「洋楽」という「分母」を再び意識化し活性化すべきである、と提案する。「分母」である「洋楽」を思い出せ、または、もっとよく知れ、ということだ。
私見では、「分母分子論」は、近代日本音楽史の一般理論というよりは、「洋楽」(もっぱら20世紀後半以降の英語圏若者音楽)のサウンドを意図的に参照しつつ、そこに日本語の歌詞を乗せる、という、大瀧自身とその周辺の人々の音楽制作手法を、歴史的に拡大解釈してみせることで正当化し、彼らの売り物であるレコードの商品価値を高める、つまり啖呵売のようなものだったのではないか。もちろんそれは、ケーシー高峰の医療漫談のように、独立した講釈芸とみることもできるだろう。いずれにせよ、必要以上に真に受けることは、その芸の達者さを楽しむことを妨げてしまうように思える。
あえて挑発的にいえば、「洋楽受容史」的な近代日本音楽史観はおしなべて、「洋楽」(「クラシック」と「ポピュラー」を問わず)を自らの聴取体験と音楽観の基盤にすることができた特権的な人々による、自身の経験と趣味を正当化し一般化するための物語としての性格を持っていたのではないか。上述の『近代日本の音楽百年』や「分母分子論」は、そういった性格を差し引いても十分に楽しめる卓越したものではあるが、凡百のそれは、「われわれはこうして洋楽を内面化し、その国産化に成功した(しつつある)のだ」というサクセスストーリーに留まっているように思える。そこでは、西洋近代システムの暴力性も、その尻馬に乗った帝国日本の所業も、戦後占領も、「望ましい西洋化」の一コマにすぎない。通俗的な戦後ポピュラー音楽史では、米軍による占領はあたかも恩寵のように描かれることもしばしばである。そうした姿勢は、「世界で初めて近代化(=西洋化)に成功した非白人国家」であり、「敗戦と戦後占領を乗り越えた経済大国」を自認していた日本の文化的状況を無批判に肯定するものであり、1970年代と80年代に隆盛した「日本人論」や、その後の「失われた30年」において頭をもたげてきた「日本スゴイ」論と共振するものであるようにも思える。
と、肩肘張らなくても、他の文化領域における歴史記述のあり方を考えれば、「近代日本の音楽史」が「洋楽受容史」に還元される状況はどう考えてもおかしい、ということは明らかだろう。日本語文学における外国語文学の影響や、日本映画におけるハリウッドやヨーロッパの影響、などは、もちろん重要な主題だが、それが当該ジャンルの歴史研究の圧倒的主流となる、というようなことはない。あるいは、新劇の歴史だけを扱った近代日本演劇史は成り立つだろうか? もちろん領域ごとに状況や歴史的背景は異なるだろうが、とりわけ音楽において、西洋中心主義が内面化され自明化された形で残存していることは指摘できるだろう。なぜそうなったのか、を冷静に分析した上で、それを克服することは、本連載の目標の一つでもある。
「洋楽受容史」の呪縛
このように偉そうにぶちあげてみたものの、私自身も、「洋楽受容史」の呪縛から自由ではなかった。
前著『創られた「日本の心」神話』で「演歌」を論じたときは、レコード歌謡としての「流行歌」(昭和初年の外資系レコード会社の日本市場進出をきっかけに成立した、レコード会社が独占的に企画・制作する大衆歌謡)は、根本的に「日本製洋楽」である、という、ポピュラーな洋楽受容史の前提をあまり疑うことはなかった。そのうえで、「にもかかわらず、ある種の流行歌が日本的/伝統的とみなされるようになったのはいつ、どうしてか」と問題を設定した。
そのことによって、それなりに一貫した叙述が可能になり、ありがたいことに洋楽や「より洋楽に近い」と考えられる日本の音楽を好む読者層からの一定の評価をも得ることができた。その一方で、「演歌は洋楽の一変種である流行歌(レコード歌謡)の下位区分に過ぎず、それゆえ日本的な音楽ではない」という単純な主張として読まれることもあった。もちろんそれは私の意図するところではなかったが、洋楽受容史の枠組に引き付ければ、そうした読みが現れるのはむしろ当然だったかもしれない。
次著の『踊る昭和歌謡』では、鑑賞音楽と踊るための音楽という区別を、「芸術」音楽と「大衆」音楽という対に沿って導入した。これは、日本において、「洋楽」が主にレコードを通じて受容されたことも手伝って、ポピュラーな音楽スタイルであっても教養的・鑑賞的な受容に傾く傾向があったこと、そして、そうした受容に相応しいタイプの音楽(典型的にはモダンジャズ以降のジャズや、60年代後半以降の「コンセプト・アルバム」中心のロックといった英語圏音楽)がより評価されてきたことを批判する意図に基づいていた。そこでは、マンボやカリプソやボサノバやスカと並んで、「ドドンパ」という「日本製ラテン」(フィリピン発で東アジア/東南アジア全域で流行したオフ・ビート・チャチャの変形)を大きく取り上げることで、英語圏の(とりわけ白人の)若者音楽の覇権に挑戦するという意図をもっていたが、「外来」リズムの輸入・変形・定着、という洋楽受容史の構えからは自由になれていなかった。
いかにして「日本音楽史」をひっくり返すか?
そこで、本連載では、「洋楽受容史」の枠組にどうやって立ち向かうことができるのか、ということを本格的に探究してゆきたい。
一つの戦略は、前回批判的に言及した、五木寛之的な「艶歌」観、つまり、西洋に対する劣位という図式を受け入れつつ、その劣位自体を日本の宿命的な特殊性としてあえて肯定する、というやり方かもしれない。これは一種の「返し技」として、当時の日本語圏の知的状況の中で一定の効力を持っただろう。しかし、それは逆に言えば日本語圏の状況の中でしか機能しえないものではなかったか。その帰結として、「演歌のよさは日本人にしかわからないから日本的な音楽だ」、というような同語反復的な考えをもたらし、しかも、ジャンル形成時の諸特徴を、変えてはいけないものとして温存する、という保守的な態度を許容したのではないか。
一方、「民族的な伝統」を旗印にするやり方も考えられる。例えば三波春夫のように、浪花節を中世以来の日本の「民族的」な諸芸の集大成とみなし、その現代的形態として流行歌(演歌)を位置づける(『歌藝の天地』)、とか、小泉文夫が民謡やわらべうたの音階抽出を通じて行ったように、特定の音の並びを排他的に「民族的な基層」とみなすような考え方は、一種の説話として魅力的ではあっても歴史的現実に即していないことはいうまでもない。そもそも「国民=民族」としての「日本人」という考え自体の人工性については言わずもがなにせよ、「民族的」な伝統を背負ったとされる演目や主題や音楽性も、いとも簡単に衰退したり変化したりする。
なお、三波春夫の説話的かつ民族主義的な芸能論については、後に北島三郎との対比においてとりあげることになるだろう。また、小泉文夫の音階論について付言すれば、彼が「民族」の基層的音階とみなしたラドレミソの「民謡音階」または「二六抜き短音階」は、小泉の学生時代からの友人である作曲家の渡辺宙明が、小泉理論に触発されて意図的に特撮やロボットアニメの主題歌で用いたことによって、むしろ1970年代以降広く定着していった。マジンガーZやゴレンジャーに代表されるいわゆる「宙明節」がそれである。しかし特撮やロボットアニメとその主題歌の国境を超えた人気は、この音階の訴求力が特定の「民族的音感」に由来するものではないことを傍証してもいる。
「洋」と「邦」の観念的な二元論に基づくこうしたやり方ではなく、私は「洋楽」の規範性を前提とする(アカデミックとポピュラー双方の)「近代日本音楽史」から必然的に抜け落ちるものはなにか、を愚直に問い直すことからはじめてみたい。そして私の答えは、ある意味でコロンブスの卵のように単純なものだ。つまりそれは、明治以降に勃興し隆盛した巷の雑多な歌や踊りや演奏、そしてそれが演じられる実践の文脈における連続と変化への関心である。明治以降の、しかし既存の芸能に基礎を持つ演目群は、「邦楽」を「近代以前の日本に存在した音楽」と捉える視点からも、「当世流行の洋楽に影響を受けた日本製の音楽」と捉える視点からも死角になってきた。
「近代音曲」という可能性
私が主に念頭に置いているのは浪花節や漫才や音頭といったものだ。寄席で「色物」として演じられる諸芸はもとより、映画館の伴奏音楽、ちんどん屋、いわゆる「ボーイズ」芸、さらに、大道の壮士節や書生節、さらにはレコード会社製の流行歌もレパートリーに含める「流し」の艶歌師もその系譜に位置づけることができるだろう。
これらはいずれも、明治以前にその原型をもち、明治以降に人気を得た演目である。録音・音響技術の使用や、主題の選択、ジャンル自体の位置付けなどにおいては、明らかに「近代」の産物である。書生節のヴァイオリンや河内音頭におけるギターのように、西洋楽器の響きを取り入れることはあるが、西洋由来の音楽語法(調性や機能和声や規則的リズムなど)には必ずしも基づいていない(少なくともそれを規範として遵守することを重視しない)。
また、厳格な家元制度の外部で伝承され、個々の演者の個性や創作や即興が大いに評価されるという点でも、「古典」の伝承を旨とするアカデミックな「邦楽」とは大きく異なっている。その本性上、異種混交的で流動的でしばしば即興的でありながら、個別具体的な実践の場と伝承の過程に裏付けられた諸々の実践は、個別の演目として名指されないような雑多な歌や踊りや鳴物を含んでいる。小沢昭一の「放浪芸」に近いが、彼の関心とそれを表現する修辞が、「河原乞食」のように歴史や起源を参照するのに対し、私の関心は主に近代における変化にある。
これを便宜的に「近代音曲」と呼ぼう。これは前述の『近代日本の音楽百年』で細川周平が勝太郎の「島の娘」や「東京音頭」を分析する際に用いた用語だが、細川が主題としているレコード産業のなかの「日本調」流行歌にとどまらず、巷の歌や踊りや演奏(歌舞音曲)を、「音楽=洋楽」の規範性から離れて考えるために用いたい。それは音楽的特徴において「西洋的」であるか「日本的」であるかを問わず、実演の場や受容の文脈の通俗性、娯楽性、即興性、非エリート性によって特徴づけられるものである。本連載で私の専門分野を「近代音曲史」としているのは、官製の翻訳概念の亡霊がつきまとう「近代日本音楽」ではないもの、そこから排除されたものを扱う、という気概の表明である。
近代音曲は、アカデミックな「邦楽」のように、流派を形成し固定され古典化されるものではない。もちろん、小唄や民謡の「正調」のように新たに疑似家元制度的な伝承形態を取り入れてアカデミックな「邦楽」に近づこうとするものもあるにせよ、それらは必ずしも成功しているようには思えないし、かえってその魅力を大いに減じる営為のように思える。
雑種的で移ろいやすいそれらの諸芸の重要性を、それ自体として論じるためには、新しい視点が必要だ。というのは、雑種性自体を近代日本文化に特有の傑出した特徴とみなし、「近代化の成功」の主要因とする見方は、「日本人論」や当世風にいえば「日本スゴイ」論の紋切型であり(岩渕功一『トランスナショナル・ジャパン』)、これも避けなければならない。
「耳の脱植民地化」という革命
こうした雑種性は、帝国主義下で西洋近代システムの一環としての西洋音楽の支配的な影響を被った諸地域における非エリート層の日常的な音楽(音曲)行為においては常態であって、「日本人」に特有のものではまったくない、と主張したい。そして、そうした音楽(音曲)のあり方を考えるために「在地音楽(vernacular music)」という考えを紹介したい。
これはアメリカの文化研究者、マイケル・デニングの著書『騒音の蜂起:世界音楽革命の音の政治Noise Uprising: The Audiopolitics of aWorld Musical Revolution』に依拠している。デニングは、1925年から1930年、電気録音が始まってから大恐慌による不況を迎えるまでのごく短い期間に、世界の植民地及び植民者国家の港湾都市で同時多発的に新たな「ヴァナキュラー音楽」が勃興した、と論じる。具体的には、ハバナのソン、リオ・デ・ジャネイロのサンバ、ニューオリンズのジャズ、ブエノスアイレスのタンゴ、セビージャのフラメンコ、カイロのターラブ、ヨハネスブルクのマラビ、ジャカルタのクロンチョン、ハワイのフラといったものだ。
植民地下で「帝国の音」として強制された19世紀的な西洋芸術音楽の語法と、農村の民俗的な音楽性が、都市で融合し、それが電気録音という新たな技術によって商品化されてゆく。正式な書法に基づく西洋芸術音楽の訓練を受けない「耳の音楽家」たちの独特の音楽性や、即興的な演奏は、録音という技術によって記録・保存・運搬することが可能になる。さらにそうした録音は、交易を通じて別の港湾都市にも輸出され、さらに新たな折衷と融合を生み出す。これらは、西洋中心的な音楽観にとっては危険な「騒音」であり、政治的な脱植民地化に先立って、「耳の脱植民地化」を促していった、というのだ。
さらにデニングは、1920年代後半に勃興したこれらの音楽の「残響」についても指摘している。1930年代には世界恐慌やラジオの影響で急激に衰退し、あるいは権威主義的な政治体制に取り込まれていくものの、1960年代には、これを「民俗的・伝統的」なものと解釈(誤読)したフォーク・リバイバルや伝統復興運動のなかで再発見され、あるいは1990年代以降は、「ワールドミュージック」として、あるいはサンプリングやDJプレイの素材として新たな音楽創作を触発している、というのだ。
デニングは、少数のエリート的なプロフェッショナルが制作する商業音楽という含意を持つpopular musicや、限定された地域での比較的変化の少ない伝承形態を含意するfolk musicではなく、vernacularという語でそれらの音楽群を特徴づける。「口語的・日常的・非正統的」という一般的な語義に加えて、中世キリスト教世界の正統な公用語であるラテン語の支配に対して宗教改革やブルジョワ革命の導因となった世俗語の勃興、という政治的な意味合いを重ね合わせてもいる。ヴァナキュラー音楽群は、ラテン語に相当する西洋近代芸術音楽の支配と正統性を突き崩し、脱植民地化という「革命」を準備した、ということだ。
「在地音楽」としての北島三郎
ところで、vernacular musicという概念をどう翻訳するかは悩みどころだ。原語との関係を意識するなら「ヴァナキュラー音楽」とするのがよいだろうが、「ヴァナキュラー」というカタカナ語は日本語圏では日常的な(それこそヴァナキュラーな)語彙にはなっていない。「ポピュラー」や「フォーク」もそうだが、外来語のカタカナ書きでの使用は、それ自体が、ある種の権威としての外来性をまとわせる効果をもつ。「ポピュラー」は、戦後から1960年代頃までは「流行歌」と対比される「輸入軽音楽」を指してきたし、「民謡」と「フォークソング」の含意の違いは説明するまでもない。「ヴァナキュラー」の訳語としては、「在来」「地場」「土着」などが考えられるが、これらは、ある特定の時点で日常的なものとして使われている、というよりも、特定の場所との歴史的な結びつきに基づく固有性及び排他性を強調するように思える。
そこで、「在地音楽」という訳を案出した。これは、歴史的な起源や固有性よりも、ある時点で「そこに定着している」状態を含意する。日本史でいう「在地領主」の「在地」である。朝廷や寺社の抽象的な権威によって認められた土地所有でなく、そに住んで実効支配している、ということだ。具体的な場所に根を下ろしているけれども、その生活様式は常に変化の可能性を含んでいるし、場合によっては在地する場所自体が変わることもある、というような意味ももたせているつもりだ。とはいえあくまでも便宜的な訳語なので、さらに適切な語があればぜひお知らせいただきたい。
もはや多くを説明する必要はないだろう。私の目論見は、北島三郎の艶歌を、上述の在地音楽群のひとつとして考えたい、ということだ。正確に言えば、1920年代末の電気録音によって形成された(しかし様々な要因でその「革命的」な性質の多くを失ってしまった)レコード音楽としての「流行歌」を、巷の実演音楽家としての「流し」の経験に基づいて再解釈し、リバイバルさせたのが北島三郎である、ということだ。
アメリカ・ニューオリンズで例えればファッツ・ドミノ、ブラジル・リオデジャネイロで例えればジョルジ・ベン、ハワイで例えればギャビー・パヒヌイあたりになるだろうか? 直接的な比較や見立ては連想ゲーム以上のものにはならないかもしれないが、少なくとも私自身はそういう視点で北島三郎を世界の在地音楽の歴史地図の中に位置付けてゆきたいと考えている。
サブちゃんの決まり文句、「アメリカにはジャズ、フランスにはシャンソン、そして日本には艶歌」を、「韓国にはトロット、タイにはモーラム、インドネシアにはダンドゥット、ナイジェリアにはアフロビート、モロッコにはグナワ、コロンビアにはクンビア、マルティニークにはズーク(以下略)、そして日本には艶歌」のように拡張し、その音楽と実演の魅力を、欧米に留まらず世界各地のさまざまな在地音楽との同時性や共振性においてとらえてゆきたい。
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輪島裕介
1974年石川県金沢市生まれ。音楽学者。大阪大学文学部・大学院人文学研究科教授。専門はポピュラー音楽研究、近現代音曲史、アフロ・ブラジル音楽研究。東京大学文学部、同大学院人文社会系研究科(美学芸術学)博士課程修了。博士(文学)。2010年に刊行した『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社新書)で、2011年度の国際ポピュラー音楽学会賞、サントリー学芸賞を受賞。著書に『踊る昭和歌謡 リズムからみる大衆音楽』(NHK出版新書)など。Twitter:@yskwjm
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はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
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それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 輪島裕介
-
1974年石川県金沢市生まれ。音楽学者。大阪大学文学部・大学院人文学研究科教授。専門はポピュラー音楽研究、近現代音曲史、アフロ・ブラジル音楽研究。東京大学文学部、同大学院人文社会系研究科(美学芸術学)博士課程修了。博士(文学)。2010年に刊行した『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社新書)で、2011年度の国際ポピュラー音楽学会賞、サントリー学芸賞を受賞。著書に『踊る昭和歌謡 リズムからみる大衆音楽』(NHK出版新書)など。Twitter:@yskwjm
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