2.なぜ「雑談」が必要なのか
著者: 桜林直子
悩み相談やカウンセリングでもなく、かといって、ひとりでああでもないこうでもないと考え続けるのでもなく。誰かを相手に自分のことを話すことで感情や考えを整理したり、世の中のできごとについて一緒に考えたり――。そんな「雑談」をサービスとして提供する“仕事”を2020年から続けている桜林直子さん(サクちゃん)による、「たのしい雑談」入門です。
雑談が足りない
わたしがマンツーマン雑談の仕事を始めたのは2020年の1月で、当時は「自分の話を思いきりできる場所がないから、あったほうがいいよね」ぐらいの感覚だった。ところがその後、感染症の拡大によってわたしたちの生活は大きく変わった。自分の話をする場所がないどころか、人に会う機会が激減した。
人と距離を取り、家に篭り、必要なやりとりはメールやチャットなどテキストで伝えるようになった。緊急時の一時的なものだから不便だけど我慢しようと、仕方なく慣れたはずだった。しかし、その生活は強弱の波はあれど3年以上にもわたり、すっかり慣れて、もはやそれが通常のやり方になってしまった。
2020年4月からの緊急事態宣言時には、一斉に飲食店が閉まり、友人と食事をしたりお茶を飲んだりしながらおしゃべりする時間がまるごと奪われた。そのときのしんどさを今でも色濃く覚えている。なくなることなど想像したこともなかったほど、あるのが当たり前だった他愛ないくだらない会話がなくなり、はじめてそれが自分にとってものすごく大事な時間だったのだと気付かされた。
仕事を終えて居酒屋で友人と待ち合わせ、おつかれさまと労いの乾杯をし、「ちょっと聞いてよ、先週こんなことがあってさ」と話し出す。休日の喫茶店でふと「そういえば、この前あの映画を観たらこんなことを思ったの」と話し出す。吐き出してすっきり終わることもあれば、思いのほか深く話し込むこともある。そうした雑談は、そのときのメンバーそれぞれのコンディションや状況の組み合わせによって偶然出てくるものがほとんどだ。緊急時には「不要不急」と取り除かれたそれらは、あまりに大切で、ちっとも不要ではなかった。
具体的にすぐに話すべきテーマはなくても、まったくこうした雑談が許されない状況になると、何かがうっすらと体に溜まっていくようなしんどさを感じた人は少なくないだろう。
日々の生活の中で自分の中に積もるあれこれは、出す場がないと溜っていき、淀み、ドロドロとしてくる。ひとつひとつはたいして意味のないようなことも、外に出さないで溜まると毒にもなり得るのだなとわかった。
「無駄」に光を当てる
雑談が足りない状況とは、つまり他人が足りないということだ。
人と話をしないとどうなるかというと、自分に向き合うことになる。普段自分自身と会話をしない人にとっては貴重な機会だろうし、ゆっくり自分と向き合うことに時間を使うのも悪くはない。実際、感染症禍に時間ができて自分と向き合う人は多かった。
ただ、それは簡単そうに見えて簡単ではない。「考えすぎて迷子になる」「イヤなことばかり見えてしんどくなる」という声を多く聞いた。ひとりで考えるのには多少コツがあり、闇雲に自分に向き合うと、考え始めたはいいが行き先がわからなくなって混乱することもあるし、お気に入りの傷を撫で続けるように同じところを何度も繰り返し考え続け、反芻するだけになってしまうことも多い。
自分に向き合うことと、他人と関わることは両方とも大事だ。しかし、それらはセットであることが必要で、どちらかに偏りすぎるとバランスが悪く不具合が出る。みんなが自宅に篭り、時間ばかりがあった時期に、他人と話す時間が極端に減ると、自分と向き合う時間だけが増える。そのことに危機感を覚え、「自分に向き合いすぎないように、人と話す時間が必要だ」とつよく思い、急いでオンラインで雑談ができるよう整え、雑談の仕事を再開した。
すると、やはり雑談が足りないことによる弊害があちこちにあることが、みんなの話を聞いてわかってきた。
あらゆる仕事が在宅でできるようリモートワークに切り替えられ、チャットやメールでのやりとりが基本になった。会議もオンラインの動画で行われる。そんな最中に就職や転職をした人たちが、みな同じように言っていた。
「一緒に仕事している人たちが、どんな人なのかまったくわからないんです」
「質問をしたいけど、相手の様子がわからないから声をかけるタイミングがむずかしすぎる」
「テキストで伝えるときに、言葉選びに時間がかかりすぎて効率が悪い気がする」
必要なことだけをやりとりして、ちょっとした世間話や自分の話をする隙間がないので、同僚の情報が入ってこない。出社して顔を合わせていたときには起こっていただろう「昨日、子供が初めて歩いたんだ」だとか「配信のドラマにハマって寝不足なんだ」だとか、テキストではわざわざ伝えないような他愛ない会話から、その人の人柄や生活などがにじみ出て、緊張が少し薄れる。なんなら、言葉を交わさなくても、同じ空間にいて表情を見るだけでもなんとなく調子の良し悪しがわかることもある。
オンラインで行われる会議は、終了時間が来たらプツリと画面が閉じられ、ひとり自宅の部屋に取り残される。顔を合わせていたときは、終了後に隣の席の人に「さっきのあれって、これでいいんですよね?」などとほんの5秒で済む確認をしたり、疲れたねーと言いながら一緒にグッと伸びをしたり、明らかに不安そうな部下に「大丈夫?」と声をかけたりしていただろう。そういった本体とは少しずれた余白の部分が、いかに必要だったかがよくわかる。無駄を切り捨てると、無駄なものの意味が浮き彫りになる。
わたしが、一見無駄に思える「雑談」を仕事にまでしようとしたのも同じ理由だった。無駄に見えるものにも価値があるのだと光を当てたかったのだ。
「雑談」と「お悩み相談」はどう違うのかとよく聞かれるのだが、たとえば、こちらが「悩み相談を受けます」と言えば、相手はしっかり「悩み」をわかりやすく整理して持って来て話してくれる。その悩みを解決するために時間を使うことには価値がある。
それも間違ってはいないが、わたしは、もう少しその「悩み」の周りの余白の部分も見せてほしい。本人がきれいに整えて用意したものだけ見てもわからないよ、とも思う。
「話してたら思い出したんですけど、」とか「そういえば関係ないかもしれないんだけど、」など、話していたら勝手に出てくるものの中に、大事なものがいつも含まれている。あれこれ話した後で「まとまってなくてすみません」と言われると、いいんだよ、むしろまとまっててたまるかよと思う。
仕事でも同じように、必要なことを効率よく伝えるだけでは、大事なものには触れられないのかもしれない。雑談の不足は、あちこちでかなり大きな影響が出ているように感じた。
出さないと出てこない
雑談をしているとよく出てくるテーマがある。
「やりたいことがわかりません」
「自分が何が好きなのかわからなくなってきました」
「怒りや喜びが薄くなってきて自分の感情がわかりにくいです」
そういう人にこそ雑談が必要だと思っているので、ようこそ、よく来たね、と思う。そして、かつてわたしも同じように感じていたので、その状態がとてもよくわかる。
自分のことなのによくわからない。出そうとしても出てこない。絞り出すようにして出したとしても、出てきたものを「これ、ほんとかな?」と、いまいち信用できない。
当たり前のように欲や感情が出てくる人からすれば、「好きとか怒りとかって、考えて出すものじゃないのでは?」と思うだろう。その通りで、本来は欲や感情は自然に出てくるものだ。小さな子供にとって、好きなものやしたいことに理由などない。うれしいときは全身で喜び、不快なときは泣いたり怒ったりして抗議する。だけど、いつしか出せなくなってしまった人がいる。それも、思ったより少なくない。
自分の欲や感情をいつしか見失ってしまったと言う人たちに、いつからそうなのかなと「子供の頃からそうでしたか?」と過去について聞いてみると、
「いつも母の持っている“正解”を当てるように行動していました」
「気分屋の父の機嫌を伺って過ごしていました」
「母がぜんぜん話を聞いてくれないので寂しかった」
などと、当時を思い出しながらそれぞれの経験を語ってくれた。
子供にとって初めての自分の居場所は、自宅である家だ。家は、外からは見えない密室で、そこしか知らない子供にとっては「絶対」の場所だ。この世に生まれて数年、そこでの経験は、自分を形成する土台になる。
その大事な時期に、自分の内側から湧き出てくる感情よりも、外側にある親など大人の感情や考えを優先したり、相手の機嫌に合わせて出すものを調整したりしないと身の危険を感じた子供は、湧き出る感情をそのまま出してもいいとは思えなくなる。こちらの感情や考えを先に出すと「失敗」する可能性があるからだ。
本当は自分の感情に正解も失敗もないのだけれど、大人の意図や気分が優先されるその家の中では「失敗」はある。また、どんなに感情を出してぶつけても話を聞いてもらえず、受け取ってもらえないと感じることが多かった子供も、出しても意味がないと伝えることを諦めるようになる。
そうして自分の身を守るために感情に蓋をしてしまった子供が、やがて大人になっても、相手が親でなくなっても、相手の顔色を窺って出すものを決め、正直な思いを出せないクセがとれないままということがある。「思ったことを出していいですよ」「好きなことをしていいですよ」と突然言われても、出してもいいと思ったことがないので、または実際に出すことを許されていなかったので、いざ出そうとしても急に出てくるわけがないのだ。かつて自分を守るためにできた蓋が、今度は妨げになってくる。
誰かの持つ正解を先回りしてその通りに出すことは得意でも、正解を問わず自由に考えや感情を出す場では途方に暮れてしまう。自分で選んでいるつもりが、自分のしたいことってなんだろう。本当にこれがしたいのだろうか。これで合っているのだろうか。と、不安になってしまうのだ。
自分の欲や感情が出てこないように抑圧した蓋によって、我慢することがクセになり、したいことがわからないだけではなく、自分は我慢すべき存在なのだというように、わざわざつらい方を選んで我慢することもある。我慢強いことが自分の価値になり、つらい場所で我慢することでようやく存在していいと思えるからだ。
欲や感情を抑える蓋の硬さや厚みは人によって異なるが、自分がどうしたいのか、欲や感情を取り戻すためには、少しずつでもその蓋を剥がしていく必要がある。自然になくなるとは思えないので、まずは蓋があることを自覚して、それがいつか誰かに言われた言葉や、誰かに対処するためについたクセだと知る。蓋は自分自身に生まれつき備わっているものではなく、環境に対処するために後からついたものなので、新しい考え方ややり方をクセにすれば、時間はかかっても古いクセは必ずとれていく。わたしは、そう考えている。
蓋を剥がす作業をひとりでするのは困難なので、人に話すことで自覚しながら一緒に蓋の存在を見つけていくといい。信頼できる人と雑談することで、ずっと出さないでいたら出てこなくなってしまった自分の欲や感情を少しずつ取り戻せるといい。自分のことなのに、何がしたいのか、何が好きか、よくわからないという状態は、自分の今後を決めようとするときに行き先が見えなくてとても困るから、自分をもっとよく知るために雑談をするといい。「そういえばこんなことがあったな」などと直接は関係なさそうな、たまたま出てきた話の中に、自分の欲や感情の端っこが見えたりするから。
外に出して風を当てる
人はどうしたって思い込む。信じると言い換えてもいい。事実よりも、自分が見たいように見たものを信じてしまう。自分が見たもの感じたことがすべてだとも言えるので、事実とはなんぞやと思う。自分から見た世界は、事実なのだろうか。
欲や感情に蓋をしている状態にある人が「わたしって、やりたいことがないんです」というとき、それはその人にとっての事実だ。しかし、欲や感情がある人とない人がいて、自分は「ない側」だと立ち位置を固定してしまうと、蓋を剥がすのは難しくなる。
今までがどうだったか、現状がどうか、今後はどうか。これらは地続きで繋がっているが、「今までがそうだったから今後もそうだ」と決めつけるのは「本当にそうかな?」と問うべきだろう。
過去の経験について話を聞いているとき、相手の口から出てくるものは、その人にとって本当のことで、紛れもなくその人が見てきた世界だ。どんな出来事があったとか、それをどんなふうに捉えているかを聞いて、一旦、それが事実かどうかよりも、「その人にはそう見えている」ということを大事にする。頭の中でたくさん考えてきたことや、いろいろな感情を、雑談することによってまずはテーブルの上にそのまま全部出してみてほしい。
自分の内側にあったものを外に出すと、自分でも客観的な目で見ることができるし、何より他人の目からも見えるようになる。
話しながら、糸口が見えると芋づる式に言葉が連なり出てくることもあるし、何かが引っかかって違和感を覚えて話しにくくなることもある。どちらにしろ、自分の内側にしまい込んでいるだけだと気がつかない。外に出す作業をしてようやくわかる。
話すことで外に出したものを、ふたりで一緒に眺めてみる。多く使われた単語が見えたり、矛盾が見えたり、いくつかの種類の感情が混ざっているのが見えたりする。
話し終えたときに、「こんな話するつもりじゃなかったのに、出てきちゃいました」と、話した本人も驚くことがある。それこそが、雑談の醍醐味だ。話し始めは普段頭の中でぐるぐる考えていることを、恐る恐る出してみる。頭の中にあったときは複雑でぐちゃぐちゃなイヤなものだと思っていたけど、出してみたらあまり大したことではなくて拍子抜けした。でも、それにくっついて他のものまでゾロっと出てきた。そういうことがよくある。
テーブルの上に出してくれたものを一緒に眺めながら、風を当てる。ぎゅっと固まったものを広げてみることで、思い込みを疑えたり、邪魔をしているものの存在が見えてきたり、大事なものの傾向が見えてきたりする。わたしが「雑談」でしているのは、おそらくそういうことだ。
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桜林直子
1978年、東京都生まれ。洋菓子業界で12年の会社員を経て、2011年に独立。クッキーショップ「SAC about cookies」を開店。noteで発表したエッセイが注目を集め、テレビ番組「セブンルール」に出演。20年には著書『世界は夢組と叶え組でできている』(ダイヤモンド社)を出版。現在は「雑談の人」という看板を掲げ、マンツーマン雑談サービス「サクちゃん聞いて」を主宰。コラムニストのジェーン・スーさんとのポッドキャスト番組「となりの雑談」( @zatsudan954)も配信中。X:@sac_ring
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 桜林直子
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1978年、東京都生まれ。洋菓子業界で12年の会社員を経て、2011年に独立。クッキーショップ「SAC about cookies」を開店。noteで発表したエッセイが注目を集め、テレビ番組「セブンルール」に出演。20年には著書『世界は夢組と叶え組でできている』(ダイヤモンド社)を出版。現在は「雑談の人」という看板を掲げ、マンツーマン雑談サービス「サクちゃん聞いて」を主宰。コラムニストのジェーン・スーさんとのポッドキャスト番組「となりの雑談」( @zatsudan954)も配信中。X:@sac_ring
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