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あなたには世界がどう見えているか教えてよ 雑談のススメ

2024年1月17日 あなたには世界がどう見えているか教えてよ 雑談のススメ

3.「よい雑談」とは?――「あなたとわたし」の間の正直さ

著者: 桜林直子

悩み相談やカウンセリングでもなく、かといって、ひとりでああでもないこうでもないと考え続けるのでもなく。誰かを相手に自分のことを話すことで感情や考えを整理したり、世の中のできごとについて一緒に考えたり――。そんな「雑談」をサービスとして提供する“仕事”を2020年から続けている桜林直子さん(サクちゃん)による、「たのしい雑談」入門です。

「よい雑談」とは、いったいどんなものだろうか。言葉を使って人と関わるシーンを、過去に遡って思い出してみることで、「よい雑談」になるための条件を見つけてみよう。

空気を読み、言葉の裏を読み、先回りするクセ

 子供の頃から、人と話したい気持ちが強かったような気がする。しかし、満足する会話ができた経験はあまりに少ない。おしゃべりだと「うるさい子」と嫌がられることもあったし、そもそも他の子供たちは言葉を使ってお互いを知りたいという思いがなく、ただ一緒に遊ぶとか一緒に笑うとかそういったなんとなくの感覚で「友達」になっているように見えた。わたしは、学校でたまたま同じクラスに集められただけの子供を「みんな友達」とは到底思えなかった。

 今思えば、ひとりひとりと話をしてどんな人か知りたいというのは、つまりよく知らないと怖いということでもあって、どこか警戒していたのかもしれない。他の子供たちがノリで誰とでも遊べるのは、ベースに「この人たちは敵ではない」という安心があるからで、ほとんどの子供にとっては他者をよく観察して警戒を解く必要などなかったのだろう。

 わたしは、とにかくよく観察する子供だった。

 なぜそうなったのかには理由がある。両親の気分の波が大きかったので、地雷を踏まないよう、家の中の空気を平穏に保つために親の顔色を窺うクセがついたのが始まりだと思う。

 元来相性が悪いのか、父親はわたしが幼い頃から何をしても気に食わないようだった。何をしても何を言っても怒られるので、家の中ではのびのびするどころか素直な言動や行動はむしろ危険だった。母親もまた、「お父さんを怒らせないで」と、家庭内の空気を守るために、わたしの言動をたしなめた。三姉妹の姉と妹は特段怒られることはないので、子供ながらにおかしいなと思いながらも、「怒らせてしまうわたしが悪いんだろうな」と感じて、空気を読んで先回りするようになった。そして、それが上手になり、クセになった。

 そのクセを、家の外でも応用していたように思う。他人の言葉や態度に対して「何を思ってそうしたのか」と、その意図を知ろうと観察した。そんなふうに言葉の裏を想像しても、悪い想像ばかりしてしまい事実とは異なることが多いのだが、当時はそれがわかる由もなかった。

 たとえば「一緒に遊ぼうよ」と友達を誘い、「今日は用事があるから無理」と断られたら、「わたしとは遊びたくないのかな。きっと嫌われているんだ」などと勝手な解釈をして、事実を知ろうとせず悪い想像を信じては落ち込んでいた。友達は単に用事があってそのままを伝えたのだとしたら、勝手に「嫌われた」と落ち込まれてはとんだとばっちりである。普通に考えれば訳もなく嫌われることなどないのだが、家の中での自分の扱いを投影してしまっていたのだ。

「素直じゃない」子供だった理由

 よく観察すること自体はいいことのはずだが、不信や警戒がベースにあると、どんなに観察してもあまりいい結果にはならない。「相手を怒らせるかもしれない」とか「嫌われないように気をつけなければ」などと警戒するあまりに、ありもしない悪意ばかりを探そうとして、過不足ない事実を見るのが難しくなるからだ。

 子供だったわたしは、家の中で培った視点が偏っているとは気がつかないので(子供にとって家の中の「当たり前」はあまりに絶対で疑わないものだ)、勝手な想像でキャッチした他者からの“悪意”が「真実」になってしまう。厄介なのは、自分にとっては真実であることで、そのまま人に話すと「素直じゃない」「ひねくれている」と言われてしまう。「どうしてもっと子供らしくいられないんだ」と小学校の担任の先生に言われたこともあった。当時は「子供だって人によるわ」と怒ったり、「どうしてわたしはみんなと同じようにできないんだろう」と悩んだりもした。

 本人はわざとそうしているわけではなく、見えたまま感じたままを伝えているので、むしろ素直に言えば言うほど「素直じゃない」と言われる悪循環に、戸惑うばかりだった。

 最近になってわかるのは、きっと、先生の言うところの「子供らしさ」や「素直さ」とは、世界に安心し信用する態度だったのだろう。それがまったくできずに警戒しまくっていた子供の頃のわたしを思うと、不憫で、仕方ないよねと背中を撫でたくなる。

「不信メガネ」を外す練習

 子供の頃のわたしに問題があるとしたら、それは「素直じゃない」からではなく、人の悪意から逃げようと、身の安全を守るために先回りして警戒し、イヤなことばかりを見つけようとしてしまう偏った視点だ。それは、自分の意思や生まれ持った性格ではなく、自分を守るために自らかけた「不信メガネ」のせいだ。

 不信メガネをかけると、他人を警戒し、疑い、悪意ばかりが見えてしまう。世界や他人は自分を傷つけるもので、警戒しなければいけないという姿勢になる。

 子供の頃に図らずも身につけてしまったメガネをかけたまま歳を重ね、人と関わろうとすると、うまくいかないことが多かった。今思えば、完全にそのメガネのせいなのだが、かけている本人は、あまりに馴染んだそのメガネ込みで自分自身だと捉えてしまうので、「うまくできないのは自分のせいだ」と思っていた。

 では、どうすればいいかというと、ものすごく単純。ただメガネを外せばいいのだ。それは自分の意思で外せる。当時は自分を守ってくれる必要なものだったかもしれないが、大人になったら自分で外していいのだ。いや、外すべきだと思う。

 なぜなら、イヤなものに対処するために身につけたそのメガネは、いいものに対して使うと、逆効果でいい結果にならないからだ。いい人と対等に関わろうとすると、相手を疑い自分を卑屈に扱うメガネが邪魔をする。

 相手を信用し合い、尊重し合うことが必要になる状況や場所で、誰かの言葉を「こんなふうに言ってくれるけど、本当はそう思っていないんじゃないか」などと疑うのは、相手を信用していないということで、失礼にあたる。だから、自分自身で判断するのは一旦置いておいて、相手に失礼なことをしたくないという気持ちだけがあればいい。相手のために、不信メガネをかけずに言葉をそのまま受け取れるようになりたいと思った。

 子供の頃は身近な人を自分では選べなかったが、大人になって、誰と関わるかを自分で決められるようになったら、不信メガネはもう必要ない。自分の意思で外していい。

 自分で外せるの?と驚く人もいるだろう。たしかに、どんなに外したいとつよく願っても自分ひとりで外すのは難しいかもしれない。

 そこで、雑談だ。

 雑談そのものにメガネを外す効果があるというよりは、雑談することで、新しいやり方を身につける練習になる。

 言葉の裏を読んで言葉通りに受け取れないのは相手を信用していないということだ。そのクセを外すにはまず信用できる人の近くにいること、その人を信用したいならそのまま受け取る練習を繰り返すこと。それは意思と技術でできるようになるとわたしは思う。

 信用できる人と雑談をすることで、思ったことをそのまま出してみる練習と、相手の言うことをそのまま受け取ってみる練習が同時にできる。「不信メガネ」によって生じる様々な想像や思い込みを信じないで、目の前の相手を信じてみる練習ができる。

「あなたとわたし」の間の正直さ

 世界や他人を警戒しているというネガティブな理由からではあるが、子供の頃から「みんな」という単位よりも「ひとり」という単位で、よく見たい、よく知りたいと考えていた。同時に、自分もまた同じように「ひとり」という単位で見てほしいと思っていたのだろう。その欲は、大人になってからもあり続けるが、今ではとてもいいものだと思える。

 「ひとり」と「ひとり」、すなわち「あなたとわたし」は、いちばん小さくてとても大切な単位だからだ。それゆえ、わたしが雑談サービスをはじめるとき、マンツーマンという形を選んだ。

 「あなたとわたし」のマンツーマンで雑談をするとき、「よい雑談」をするために必要なことのひとつは、お互いに警戒せず目の前の相手を信用することだ。だから、「普段はどうあれ、この時間だけは信用し合いましょう。正直に話しましょう」としている。そして、事前に「雑談をするのに準備は必要ですか?」と聞かれたら、「正直さだけ持ってきてください」と答えている。

 ここで言う正直さとは、思っていることを全部ぶちまけるとか言えない話をするとかではなく、思っていないことを言わないだけでいい。気をつかって相手に合わせたり、過剰に共感したり、相手が喜ぶことを言ったり、わかったふりをしたりするのをやめるだけでいい。

 普段、人と話す内容やリアクションに正解があると思っている人にとっては、何も用意せずに思ったままを話すのは怖いと感じるかもしれない。相手に合わせて自分を作らないことにも勇気がいると思う。

 人は多面体で、誰と居るかで見せる面が変わるのは当然だ。ただし、それは相手によって引き出されるもので、どの面を見せるか用意しておくものではない。だから、勇気を出して、手ぶらで来てほしいと願う。

 「あなたとわたし」の間に出し合ったものから、どんな自分が見えてくるか、一緒に楽しみたいと思う。

 相手を信用し、どんな自分が出てくるかを楽しめること。

 それが、わたしの考える「よい雑談」の条件のひとつだろう。

 

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

桜林直子

1978年、東京都生まれ。洋菓子業界で12年の会社員を経て、2011年に独立。クッキーショップ「SAC about cookies」を開店。noteで発表したエッセイが注目を集め、テレビ番組「セブンルール」に出演。20年には著書『世界は夢組と叶え組でできている』(ダイヤモンド社)を出版。現在は「雑談の人」という看板を掲げ、マンツーマン雑談サービス「サクちゃん聞いて」を主宰。コラムニストのジェーン・スーさんとのポッドキャスト番組「となりの雑談」( @zatsudan954)も配信中。X:@sac_ring

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