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山野井春絵「友達になって後悔してる」

2025年7月21日 山野井春絵「友達になって後悔してる」

第5回 ハンドメイドマルシェの相棒は“フリーライダー”

著者: 山野井春絵

「LINEが既読スルー」友人からの突然のサインに、「嫌われた? でもなぜ?」と思い悩む。あるいは、仲の良かった友人と「もう会わない」そう決意して、自ら距離を置く――。友人関係をめぐって、そんなほろ苦い経験をしたことはありませんか?

 自らも友人との離別に苦しんだ経験のあるライターが、「いつ・どのようにして友達と別れたのか?」その経緯を20~80代の人々にインタビュー。「理由なきフェイドアウト」から「いわくつきの絶交」まで、さまざまなケースを紹介。離別の後悔を晴らすかのごとく、「大人になってからの友情」を見つめ直します。

※本連載は、プライバシー保護の観点から、インタビューに登場した人物の氏名や属性、環境の一部を変更・再構成しています。

 40代で美術作家に転身した咲子さん(50)。毎年個展を開催し、インテリア会社とコラボするなど、順調に活躍の場を広げている。足がかりは、地元のハンドメイドマルシェだった。日々創作に打ち込み、人間関係のゴタゴタとは無縁に見える彼女が語ったのは、友達を“切り捨てた”体験談。「いい大人が情けないと思いつつ、もう生理的に嫌いになってしまったから仕方がない。悪口のようにはなるけれど、顛末を聞いてもらいたい」と話す。相手は、かつて共にマルシェを盛況に導いた相棒で、同い年の美馬子さん。喧嘩別れではない。むしろ美馬子さんはいつでも低姿勢で、今も咲子さんを悪くは思っていないようだ。2人は、今でも同じ地域に暮らしているが…。

『テルマ&ルイーズ』気分で遠征ドライブ

 美大を卒業後、リゾート施設の美術制作部に就職。結婚を機に転職して、長く雑貨のセレクトショップで働いていました。なかなか子どもに恵まれず、不妊治療を受けはじめたのは30代半ばのことです。現在は生殖医療もずいぶん進んでいるようですが、当時は排卵誘発のために、2週間ほど筋肉注射を打つ必要がありました。毎日時間をやりくりして、仕事の前後に病院へ通いました。顕微授精まで行ったものの、着床にはいたらず、生理が来るたびに泣き崩れていました。休み休みながらも数年間治療を続けて、40代になったころには、身も心もボロボロ、貯金もすっからかんに。最後の最後だと決めて受けた顕微授精でようやく妊娠、12週で流産しました。立ち直るまでにずいぶん時間がかかりましたが、救いは、夫が静かにそばにいてくれたこと。そして、趣味のアート制作に集中することで、ずいぶん気持ちが楽になりました。

 美馬子さんに出会ったのは、流産して1年くらい経ったころです。

 自宅の近くにあるギャラリーでは、数ヶ月おきに、地元の人たちがハンドメイド作品を持ち寄って販売をするイベントが行われていました。今では全国でこうしたハンドメイドマルシェがさかんに行われていますが、私が暮らす地域では、このギャラリーが走りだったと思います。知人だったオーナーに声をかけられ、仕事の合間に作品作りに精を出して、初めての出店に臨んだのでした。

 そのころから、美馬子さんのデリは人気がありました。以前レストランで働いていた美馬子さんの得意料理は、質のいいバターをたっぷり使うキッシュや焼き菓子、惣菜など。毎回ブースにはたくさんの女性が列をなしていました。ふくよかな美馬子さんの柔らかいキャラクターも、人気の一因だったと思います。同い年だったこともあり、私たちはすぐに意気投合して、親密になっていきました。

 美馬子さんも私のアート作品を気に入って、お客さんにも宣伝してくれました。共通の友達も増えていきます。そのうち、私たちは別の場所でもマルシェを企画しはじめました。SNSのアカウントを作ると、各地でアパレル、アクセサリー、陶芸作品、パンなど、さまざまな個人ショップが参加してくれるようになり、コミュニティがどんどん広がっていきました。キッチンカーやクラフトビールのショップも加わって、ちょっとしたお祭りのようになっていったのです。私たちのマルシェは、町おこしのような側面もあり、遠方から開催を依頼されることも増えていきました。

 「今日も行商だべ!」と声をかけあい、私の車のトランクに2人分の荷物を詰め込んで、いざ出発。道中はいつも映画『テルマ&ルイーズ』のドライブシーンみたいな気分でした。美馬子さんはペーパードライバーだったので、運転はいつも私。お礼にと、美馬子さんは余った料理を分けてくれました。

 どこへ出かけても美馬子さんのデリは評判がよく、いつも行列ができました。一方、私の作品も徐々に認知されて、ブースにはオープン前から人が並ぶほどに。毎回、持参したものはほとんど売り切れ、私と美馬子さんはホクホク顔で帰りました。

 このころが私と美馬子さんの友達関係のピークです。よく2人で飲みに行き、会えない日は長電話をするなど、とても密な関係でした。私が退職してフリーになると、ますます会う頻度が増えました。

 美馬子さんは当時中学生だった長女と、歳の離れた幼稚園児の長男とがいる4人家族でした。旦那さんの仕事は住宅関係で、お休みは平日です。休日のマルシェには、よく長男のリン坊を同行させていました。ヤンチャなリン坊に美馬子さんはずいぶん手を焼いていて、仕事中も叱りつけてばかり。やがてリン坊はずっと私の出店ブースで時間を潰すようになりました。私が、叱らなかったからだと思います。足元にシートを敷いて、そこに寝そべってスマホを見ていました。美馬子さんは、子連れで来ていることすら忘れているかのように接客に大忙しです。リン坊は、私がお客さんに作品の説明をしているときにも、私の服を引っ張ってみたり、やたら質問をしてきたり、トイレに行きたいと言ったり…子どもがいたらこんな感じだったのかな…とも思えず、私は困っていました。何度も美馬子さんのブースへ行くように促しますが、リン坊は動こうとしません。

 マルシェが終わって、それぞれブースを片付け、車に乗って帰る途中、フラストレーションを溜めていたリン坊は決まってぐずりはじめるのでした。

 「リン坊、よくママたちのお仕事に付き合ってくれたね、我慢できたね、よしよし。…咲ちゃん、本当にごめんね、そこの公園にちょっとだけ寄ってもらっていいかなあ? ちょっと遊ばせないと、ダメだわ、この子は」

 車を止めると、リン坊は「咲ちゃんも公園行こう!」と言います。

 「ごめん、ちょっとまとめてメール返しちゃいたいから、私、車にいていい?」

 とかなんとか言って、私は公園遊びの同伴を回避。美馬子さんはリン坊を連れて公園へ行きます。運転席から2人が遊んでいる姿を遠目で見ながら、私はうつらうつら…。30分ほど待つと、ようやく帰路につくことができるのでした。こんなことが、何度もありました。

 それでも美馬子さんはいつも謙虚で、感謝の言葉を口にする、「いい人」でした。マルシェの成功は彼女の力も大きかったので、一緒にいる時間はどうしても長くなりました。また当時、美馬子さんは夫婦関係について悩んでおり、私は相談相手として頼られてもいたのです。

モラハラ夫の浮気騒動

 美馬子さんの旦那さんとは、会えば立ち話をする程度でしたが、いつもニコニコ、優しい人に見えました。しかし美馬子さんによると、彼は男尊女卑傾向が強い、いわゆるモラハラ系。お酒が入ると、美馬子さんはきまって旦那さんへの不満を漏らしました。話を聞き続けていると、彼がどんどん矮小な人物に思えてきます。

 「咲ちゃんは、いいよね。ちゃんとキャリアもあって、才能もあって、自由に作品作りをさせてくれる優しい旦那様がいて。私、咲ちゃんみたいな人生がよかったよ。咲ちゃんみたいに、シュッとして、自信に満ちた人に生まれたかった。私なんて、ご飯作るくらいしか能がなくてさ、でもお店とか、会社をやるみたいな度胸もなくて、中途半端でさ…」

 「そんなことないよ、美馬子さんの作る料理は、デパ地下レベルよ。もっと自信を持って! 」

 酔えば酔うほど自虐モードに入る美馬子さんを、私はよく励ましたものです。彼女があんなふうに自己評価を下げてしまうのは、やっぱりモラハラ夫のせいなのかしら、などと考えていました。

 ある夜、お風呂から上がってのんびりしていると、美馬子さんから着信がありました。こんな時間に珍しい、と不思議に思いながら出ると、美馬子さんは電話の向こうでヒックヒック泣いています。聞けば、旦那さんと大喧嘩をしたとのこと。ちょうど夫が出張に行って不在だったので、私は「よかったらうちに来る?」と誘いました。

 「初めての家出よ! 家族のために作ったおかず、全部持ってきたから、食べよう」

 美馬子さんは、たくさんの惣菜とお酒を持って自転車でやってきました。子どもたちは大丈夫かと聞くと、「知らないよ、アイツが面倒見ればいいんだよ!」。

 喧嘩の原因は、旦那さんの浮気でした。興奮したと思えば泣き出して、落ち着くと絶望的な表情になり、その夜の美馬子さんは大変で、私も一緒になって泣いたり怒ったりしました。

 「実家に帰るのも嫌だし、かといって離婚して、私ひとりで子どもたちを食べさせていく力もないし。本当に、どうしたらいいんだろう」

 酔い潰れた美馬子さんはそのままソファで眠ってしまいましたが、早朝、私が目を覚ますと、もう姿がありませんでした。LINEには、娘の弁当を作りに帰るね、というメッセージがありました。

 その後も美馬子さん夫妻のすったもんだは続き、喧嘩のたびに、美馬子さんはわが家に駆け込んできました。「絶対に離婚はしない、それがアイツへの復讐だ」と踏ん張っていましたが、ある日、旦那さんが浮気相手を家に連れてきて「この人と一緒になりたいから離婚してください」と2人で頭を下げたことがありました。その修羅場になぜか私も呼ばれて、はじまった激しい夫婦喧嘩を、浮気相手の女性と黙って眺めるという…思い出しても不思議な時間を過ごしました。激昂した美馬子さんは荷物をまとめ、子どもたちを連れて私の車に乗り込みました。駅前のビジネスホテルに送り届けると、美馬子さんは言いました。

 「咲ちゃん、私、決めた。離婚する。すぐには無理かもしれないけど、自立できるように頑張るよ。子どもたちも、絶対に渡さない。協力してくれるよね」

 もちろんだよ、と請け合い、私はスーパーで買い出しをして、3人のために食料などをホテルに届けました。

 「私、なんで咲ちゃんとこうやって友達になったのか、今回、意味がわかった。私も、咲ちゃんみたいに本気出して仕事しろってことなんだわ。これからはそのために儲ける方法を考えて、計画的に行動しようと思う」

 古びたツインルームのベッドに座り、美馬子さんはビールを飲みながら気を吐いていました。私たちはノートパソコンを開き、成功した飲食店の事例などを検索して、ああでもない、こうでもないと話し合いました。

 ホテルに数泊すると「お金が尽きた」と言って、美馬子さんは家に戻って行きました。ほどなくして旦那さんは浮気相手と別れたそうですが、美馬子さんは「仮面夫婦のまま過ごして、離婚できるチャンスを待つ」と肚を決めたように見えました。

 それからしばらく、美馬子さんは本当に頑張っていました。ガラスのジャーポットに入れたサラダなど、当時流行していた見栄えのいい商品を作ってみたり、マルシェの合間に各地のデリショップを巡ったり、彼女なりに、専業主婦の片手間から本格的な起業へと歩み出そうとしていた…と思います。そんな矢先、またもや美馬子さんにとってショックな出来事が起こりました。

レシピに著作権を! の衝撃

 このころ、マルシェブームはますます高まり、私たちが主催する以外にもさまざまなマルシェが各地で行われるようになっていました。隣町の山の手に暮らす料理家「ミナさん」も、出店者の一人です。シアトル帰りというミナさんは、アメリカらしいボリュームのあるデリメニューを売りにしていました。建築家のご主人が設計した大きな邸宅で月に二度ほど自宅カフェをオープンし、たまにマルシェも催していました。何度か私も呼ばれて、出店したことがあります。

 大きめのマルシェでは、ミナさんと美馬子さんが同時に出店することもありましたが、2人はそりが合わなかったようです。

 「私、ミナさんに嫌われてるみたい」

 美馬子さんによると、挨拶をしても目を合わせてくれず、すげなくされているとのこと。私はミナさんを天然気味の明るい人だと認識していたので、意外でした。

 「気のせいじゃない? ミナさんって悪い人じゃないと思うけど」 

 そう言うと、美馬子さんは「そうかなあ」と不安そうでしたが、私はあまり気にしていませんでした。

 ある日、私は美馬子さんと企画したマルシェをSNSで告知しました。メイン写真は、美馬子さんが売り出したばかりの創作メニューでした。すると同日、ミナさんもSNSを更新。その料理内容は、なんと私たちのSNSの写真とそっくりだったのです。ミナさんはコメントでこう記していました。

 「あまりネガティブなことをつぶやきたくはないのですが、私の料理ファンたちのために、あえて書きたいと思います。このところ、私のレシピのアイデアが盗用されているという報告を受けました。私が発案した○○○のレシピは、1年前、20××年×月に載せていることからも、オリジナルであることは明らかです。Check it out! 私はこれからも、“レシピに著作権を!”と訴えていきたい。Choose food for the future! Thank you!」

 これは美馬子さんに対するあからさまな皮肉だと感じ、私は慌てて電話をかけました。

 「ミナさんの投稿、見た? あれって私たちのマルシェに対する嫌がらせだよね。まるで美馬子さんがアイデアを盗んだみたいに見えるじゃない」

 「う、うん…」

 一緒になって怒るだろうと思っていた美馬子さんの歯切れの悪さに、私は嫌な予感がしました。

 「ねえ、ひょっとして、心当たりがあったりする?」

 「…うん、まあ、ぶっちゃけ、ちょっとだけ参考にさせてもらったっていうか、その程度よ。この料理は今ではいろんなサイトに載ってるし…」

 パクったんかい! と突っ込みたくなりながらも、ミナさんの「レシピに著作権を」という考え方や、遠回しなエアリプに違和感を持った私は、言いました。

 「な、なるほど。まあ、本当にミナさんが元祖かどうかわかんないしね。ていうか、疑ったなら直接言ってくればいいじゃない。わざわざ同じタイミングに投稿するなんて、営業妨害もいいとこよ。ミナさんも意地が悪いわ、天然はフリだったんだな」

 「そうだよね、意地悪だよね! …でも、こんな投稿をされたら、変な噂になるよね、どうしよう。今回のマルシェは休んだ方がいいかな」

  「何言ってるの、ここで出なかったら、『私パクりました』って言ってるようなもんでしょ。頑張ろうよ」

 「うん…」

 当時私は、美馬子さんとのマルシェ活動を、とても大事なものだと考えていました。固定客も増えており、地域のブランドイメージもつきはじめていたのです。私の説得に、「頑張る」と言っていた美馬子さんですが、結局、直前になって体調を崩し、出店を取りやめました。

 地域ではこの「パクリ疑惑」がずいぶん噂になりましたが、どちらかというとミナさんの意地悪さが際立ったこともあって、美馬子さんの悪評はさほど立ちませんでした。私は胸を撫で下ろしましたが、なんだか複雑な思いが残りました。美馬子さんはけろっとして、次のマルシェの企画を、と張り切っていたその矢先、急にお父さんの具合が悪くなり、介護のために実家へ通うことになったのです。受験生だった長女の反抗期も激しく、毎日がいっぱいいっぱいという様子でした。またまた電話で泣きついてきた美馬子さんに、私は言いました。

 「いったん、仕事は休憩してさ。色々落ち着いて考える時期なのかもしれないよ。今は、子どもたちとお父さんのこと、大事にしてあげて。待ってれば、きっといいことも起こるから」

 「そうだよね、咲ちゃん、いつもありがとう。私、絶対に頑張る。地道にコツコツ、研究するよ。自分でお金を稼げるようになるから、待ってて。また一緒にマルシェをやろうね、絶対よ」

彼女にとって、私は今でも「駆け出し」なんだ

 美馬子さんとのマルシェができなくなった私は、別の知人たちのマルシェに参加するようになりました。ミナさんにも誘われたことがありましたが、お断りしました。

 美馬子さんと会えない間に、私の作品を著名人がインスタグラムで紹介するという幸運があり、フォロワーが爆発的に増えました。そこから知人を介して、北関東で開かれる大きなクラフトフェアに出店する機会を得たのです。そのフェアは、私のひとつの目標でした。本当に嬉しくて、毎日夜遅くまで作品づくりに精を出しました。

 美馬子さんから連絡を受けたのは、その制作がひと段落したタイミングでした。解放感と、久しぶりに心置きなく飲める嬉しさで、私はウキウキしながら、美馬子さんが予約してくれたイタリアンレストランへ向かいました。

 「咲ちゃん、会いたかった!」

 ハイタッチをして再会を祝いましたが、内心びっくりしていました。約1年ぶりに会った美馬子さんは、ずいぶん大きくなっていたのです。もともとぽっちゃりタイプではありましたが、そこからさらに1.5倍という感じ…。ようやくお父さんの介護施設が決まり、ほっとして食べ過ぎちゃったんだ、と笑います。美馬子さんはこの日も食欲旺盛で、もりもりピザをおかわりしていましたが、お酒はめっきり弱くなった、とワインを1杯しか飲みませんでした。

 「私も、ここから仕切り直しで、いろいろとまたやってみようと思うんだ。前のお客さんたちからよく声をかけられるの、また私の料理が食べたいって。それでとりあえず、自宅で料理教室でもはじめてみようかなって思うんだけど」

 「料理教室ね。うん、それはいいアイデアだと思う」

 「咲ちゃん、私が料理教室をするとき、うちで作品の展示会をしたらどう? 少しでも売れたら助かるでしょう。ちょちょっと作ってよ」

 その言葉に、私はドキッとしました。ああ、そうか、美馬子さんは、今でも私のことを「駆け出しの作家」だと思っているのか。驕るつもりはありませんが、そのころはすでに、買い手には困っていませんでした。また、「ちょちょっと」簡単に作れるものでもありません。言葉を濁していると、美馬子さんはそのまま計画について話を進めていきます。断りきれず、日程については同意しました。予定はクラフトフェアのすぐ後に決まり、ようやく制作期間を終えたとほっとしたのも束の間、翌日から私はまた創作にはげむことになりました。

美馬子さん家の仰天ニュース

 初めてのクラフトフェアで連日のテント出店を終えて、私は確かな手応えを感じていました。売りあげは上々、志を同じくする作家たちとたくさん知り合うことができましたし、主催者から「次回もぜひ」と言われ、自信につながりました。緊張と興奮でヘトヘトでしたが、私は疲れた体に鞭打って、すぐに美馬子さんとのイベントのための作品づくりを続けました。

 「そろそろ具体的な打ち合わせを」と美馬子さんに連絡をすると、すぐには既読にならず、しばらくしてこんな返事が送られてきました。

(記事中のLINEの文面は取材を元にイメージを再現しており、実際のやり取りをそのまま転載したものではありません)

  驚いた、というよりも、呆れました。が、正直、このイベントにははじめからあまり乗り気でなく、少し休みたい気持ちもあったので、ほっとしていました。

 「えー、びっくり! でもよかったね、おめでとう、無理せずのんびりね。元気な赤ちゃんを産んでね、楽しみにしてるよ。落ち着いたらお茶でも!」

 そうメッセージとスタンプを送ると、今度はすぐに返事がきました。

  ブルーシートを敷いたリビングの床には、美馬子さんとのイベントのために夜なべして作った作品たちが並んでいました。「よかった、休める」とほっとしたはずなのに、それらを眺めているうちに、なんだか力が抜けてしまい、私はソファに倒れこみました。

 「咲ちゃんは在庫OK」、「金額倍にして売っちゃって」。LINEを見直すと、美馬子さんの私の仕事に対する認識が、この言葉に凝縮されていると思いました。“咲子は作品に自分で好きな値段をつけ、かつ、食品のようにロスがないので、うまく儲けている”。言語化していたかどうかはわかりませんが、美馬子さんはそんなふうに思っていたのでしょう。なるほど、だからずっと、車の経費を折半してくれなかったのか、と合点がいきました。どんなに遠方へ行こうとも、ガソリン代と通行料はすべて、運転する私持ちだったのです。

 何が「パパにも無理は禁物と釘をさされまして」、よ。モラハラ浮気性旦那に愛想を尽かしていたんじゃなかったの? やることやってんじゃん。…これまで美馬子さんの夫婦喧嘩に振り回されてきた私は、まるで道化です。

 「仕事とか、とてもとても」にも腹が立ちました。仕事で自立する、女手一つで子どもたちを立派に育ててみせると鼻息荒く語っていたあれは一体? なぜこんな短期間に方針転換ができるの?

 帰宅した夫に愚痴を言うと、「でも、離婚しないんだから、子どもたちにとってはよかったじゃん」と言われて、その視点はなかったとハッとしました。

 「咲子さんは、言動に一貫性がない人が苦手だもんね。でもさ、みんな咲子さんみたいに完璧主義じゃないから。他人事、特に夫婦のことは、流していけばいいんだよ」

 ブレブレの仕事観を軽蔑する気持ちはありましたが、この段階では美馬子さんそのものに嫌悪感を抱くところまでは至っていなかったのです。にわかに忙しくなり、美馬子さんからきたLINEに返事をするのを忘れて、しばらく放置してしまいました。

勝手に「可哀想な友達」にしないでほしい

 ある夜、美馬子さんから届いたLINEは、ショッキングでした。実際にはいつものように過剰な絵文字がちりばめられており、「すべて見る」というボタンを押さなければ最後まで読むことができない長さでした。

 「咲ちゃん、前回はイベントのドタキャン本当にごめんなさい。あれから咲ちゃんからの連絡がなくなって、私はやっちまったーと猛反省…。咲ちゃんが怒って当然です。どうしても許してほしくて、勇気出して書いてます。なんで咲ちゃんが返事をくれなくなったのかと、私も、ない頭をひねって考えました。でもやっぱり、辛いけど、理由は一つだよね。咲ちゃんの気持ちも考えずに、本当にごめん。咲ちゃんがBABYを流産しちゃったこと、泣きながら話してくれたのに、私は呑気にまたBABYを授かったなんて、連絡してしまいました。こればっかりは、神のみぞ知るといいますか。運命のいたずらといいますか。新しい命にはまったく罪はないワケで、そのあたりは本当にごめんなさい、大事にしたいです。パパにも、配慮がないぞってすごく叱られました。咲ちゃんが傷ついているんだから、そっとしておけって言われたのだけど、私と咲ちゃんの仲は、そんなものじゃない。絶対的な絆を、私は信じています。それでやっぱり、私はこう思うのです。子どもに恵まれない人は、本当に人間がデキている人だと。私のような未熟な人間こそ、神様が何度も子育てをさせるように仕向けて、人間育てをさせるのですよね。私は咲ちゃんのことがずっとうらやましかった。なんでもできて、かっこよくて。私は咲ちゃんになりたかった。でも私には子育てという仕事をやる宿命があったのです。そんな、どうしようもない宿命が、咲ちゃんを傷つけてしまっているなんて、人生って、本当に、難しいね…」

 「違う違う、そうじゃ、そうじゃな〜い〜」、頭の中でMartin(鈴木雅之)の歌が鳴り響きます。私は途中からゲンナリしていました。

 せめてスタンプだけでも送ればよかったのかもしれません。しばらく連絡をしなかったことに他意はなく、正直、忘れてしまっていたのです。妊娠中で心が不安定だった美馬子さんの考えすぎだったかとも思いますが、それにしてもこれは酷いと思いました。「流産で子どもを失った可哀想な友達を、不用意に傷つけてしまった幸せ妊婦」というストーリーに当てはめて満足している、なんと浅はかなんだろう。そもそも美馬子さんは、ずっとそんなふうに私を見てきたのかと思うと、怒りで震えました。

 私はこれまで、この手の子どもの話ではずいぶん傷ついてきました。不妊治療をしている最中は、街で妊婦を見かけただけでもドキッとしましたし、友人の妊娠・子育て話にささくれ立ち、第二子不妊のために子連れで通院している女性を待合室で見ればモヤモヤしたものです。しかし流産で涙が枯れるまで泣いたあと、「いつまでも子どものことで傷ついていては、とても生きていけない、だからもう、ちょっとやそっとじゃびくともしないぞ!」と心に決めました。子どものいない人生は、すでに私なりに受け止めた課題だったのです。「流産しちゃったこと、泣きながら話してくれた」とありますが、私は泣いていません。私が語った内容に涙を流したのは美馬子さんでした。

 彼女はそんな私の覚悟は聞き流し、事実を自分の心地よいストーリーにすり替え、そしてようやく塞がった私の傷口を、鈍い刃物でごしごしと無理やりこじ開けたのです。

 これ以上こんな話を続けられたらたまらない。しばらく考えて、私はいつも使わない絵文字満載で、返事を送りました。

 「美馬子さん(ハート)、忙しくてお返事(手紙)できなかった、ごめんなさい(ぺこり)。びっくりしたよ(汗)、そんなに心配してくれてたなんて。まったく気にしてなかったよ(笑顔)、気にしすぎだよ(星)! とにかく体を大事にね(赤ちゃん)(哺乳瓶)」

 美馬子さんからも絵文字いっぱいの喜びの返事がいくつもきましたが、それにはすべてスタンプで返しました。

 ややこしいやり取りを続けるのも嫌なので、狙うはフェードアウトでした。会う約束はのらりくらりとかわし、当たり障りのない言葉とスタンプだけでやり過ごしているうちに、連絡は減っていきました。

 今も街で彼女を見かけることがありますが、ゴキブリに出くわしたような気持ちになって、隠れるようにしています。避けられず目が合ってしまったときには、急いでいるふりをして、笑顔で手を振ります。そんなとき、美馬子さんが見せるなんとも物欲しげな目線は、たまらなく不快です。

 ああ、あの人は“フリーライダー”だった。「私なんて」「あなたが羨ましい」と言いながら内心は私を憐れみつつ、私の車にも、心にも、“ただ乗り”を繰り返した。…これは時間が経つほどにわかってきたことです。何が『テルマ&ルイーズ』だよ、と自分にツッコミを入れたくなります。

 先日、美馬子さんから久しぶりにきたのは、こんなLINEでした。

(※本連載は、プライバシー保護の観点から、インタビューに登場した人物の氏名や属性、環境の一部を変更・再構成しています)

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
 「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
 どうして自分が「考える人」なんだろう―。
 手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
 それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

山野井春絵

1973年生まれ、愛知県出身。ライター、インタビュアー。同志社女子大学卒業、金城学院大学大学院修士課程修了。広告代理店、編集プロダクション、広報職を経てフリーに。WEBメディアや雑誌でタレント・文化人から政治家・ビジネスパーソンまで、多数の人物インタビュー記事を執筆。湘南と信州で二拠点生活。ペットはインコと柴犬。(撮影:殿村誠士)

 

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