十八、「諸行無常」の民主主義
著者: 南直哉
なぜこの世に生まれてきたのか? 死んだらどうなるのか?――その「答え」を知っているものなどいない。だから苦しい。だから切ない。けれど、問い続けることはできる。考え続けることはできる。
出家から40年。前著『苦しくて切ないすべての人たちへ』につづいて、「恐山の禅僧」が“生老病死”に本音で寄り添う、心の重荷を軽くする後ろ向き人生訓。
およそひと月前、「厳冬期の短期決戦」と言われた例の選挙で、「中道」を名乗る急ごしらえの政党が、それまでの議席の3分の2以上を失う破局的な負け方をして、メディアは「惨敗」「大敗」「壊滅的」の大合唱になった。
ご存じの方も多いと思うが、「中道」は政治用語である前に、元々は仏教語である。それが「惨敗」「大敗」と一斉に言われると、関係ないと思いつつも、仏教が「惨敗」したかのようで、何となく私も心穏やかでない。
政治用語ではない、仏教語の「中道」の意味については、いずれまた考えるとして、そもそも「出家」「出世間」を標榜する仏教には、政治的な発言が馴染まないし、たとえば経典にそんな文言が出ることは、まずない。
ただ、ブッダの言葉を比較的忠実に伝えるとする初期経典(『大パリニッパーナ経』)に、政治性を感じさせるエピソードがひとつ、紹介されている。それは、当時インドにあった、ヴァッジ族という部族国家にまつわる話である。
ある大国がヴァッジ族の国を滅ぼそうとしたとき、ブッダは、以下の七つの態度を彼らが維持するなら、国の衰亡は無いだろうと言う。
一、ヴァッジ人が、しばしば会議を開き、会議に多くの人々が参集する間は、ヴァッジ人には繁栄が期待され、衰亡は無いであろう。
二、ヴァッジ人が協同して集合し、協同で行動し、協同してヴァッジ族として為すべき事を為す間は、ヴァッジ人には繁栄が期待され、衰亡は無いであろう。
三、ヴァッジ人が未来の世にも未だ定められていない事を定めず、既に定められた事を破らず、往昔に定められたヴァッジ人の旧来の法に従って行動する間は、ヴァッジ人には繁栄が期待され、衰亡は無いであろう。
四、ヴァッジ人がヴァッジ族のうちの古老を敬い、尊び、崇め、もてなし、そうして彼らの言を聴くべきと思っている間は、ヴァッジ人には繁栄が期待され、衰亡は無いであろう。
五、ヴァッジ人が、良家の婦女・童女を暴力で連れ出し捕らえ留める事を為さない間は、ヴァッジ人には繁栄が期待され、衰亡は無いであろう。
六、ヴァッジ人が(都市)の内外のヴァッジ人のヴァッジ霊域を敬い、尊び、崇め、支持し、そうして以前に与えられ、以前に為されたる、法に適った、彼らの供物を廃する事がない間は、ヴァッジ人には繁栄が期待され、衰亡は無いであろう。
七、ヴァッジ人が真人たちに、正統の保護と防禦(防御)と支持とを与えて、よく備え、未だ、来らざる真人たちが、この領土に到来するであろう事を、又、既にやって来た真人たちが領土のうちに安らかに住まうであろう事を願う間は、ヴァッジ人には、繁栄が期待され衰亡は無いであろう。
七にある「真人」は、ブッダの弟子たちに限らず、当時の様々な系統の出家修行者を意味しているとされる。
以上の七項目を見ると、ヴァッジ族の人々が、今で言えば保守的で穏健な共和制的な統治システムを持っていたらしいことが、わかるだろう。
経典はこれに続けて、「ヴァッジ人」の文言を「修行僧たち」に置き換えて、修行僧共同体の統治について語っている。すなわち、ブッダは、自らの僧団も共和制的保守主義に基づいて運営されることを望んだわけだ。
ただ、三に関係して、ブッダも僧団の戒律を安易に変更することを望まなかったが、入滅直前、自分の没後に必要に応じて細部を変更することは認めているので、頑迷固陋な前例墨守主義とは、一線を画する考えを持っていただろう。
このような、現代で言えば民主主義的統治システムに親和性の高い教団運営を、ブッダが志向していたことに、私は深く共感する。なぜなら、民主主義的統治システムには、二つの決定的に重要な原則があるからだ。
一つは、民主主義は、それが言論で表現される限り、民主主義を否定する思想を許容することである。
もう一つは、民主主義は、「人間は間違えることがある」という前提で、指導者の変更を必須とする方法を、原則的な制度として実装していることだ。
自己を否定する言論を許すという統治体制は、民主主義以外にない。それは正に民主主義さえ絶対化することを拒否する態度であり、あらゆる統治形態に正統性の確実な根拠を与えないのだ。
ということは、民主主義は「異論」の存在を前提にする。「異論」の存在が「主論」を鍛え、いざ「主論」が通じなくなった時の「代案」になるのだ。それが制度の存続の保障となるわけである。だから、十分な「議論」が必要不可欠なのだ。
システム自体がそうとなれば、その運営について、指導者変更の方法が、最初から制度的に組み込まれていることは、当然のことである。誰であれ、どんなに「優秀」な者であろうと、およそ「人間は間違えることがある」という、リアリズムに徹した統治こそが、民主主義の本領なのだ。
世の中に「掛け替えのない」人物などいない。そんな者がいたら、そもそも世代交代ができず、社会の持続を阻害する。実際にいるのは、限られた特定の誰かが「掛け替えがないと思い込んでいる」人だけだ。仮に、ある組織を「掛け替えのない」人物が指揮しているなら、即ちその組織は根本的にダメなのである。
この二つの原則は、まさに「諸行無常」の考えを前提にしていると言ってよい。「絶対に正しい何か」――それがシステムであれ、人間であれ――そういう存在を認めない態度が集団統治に適用されれば、それは民主主義的体制になるはずなのだ。
ならば、専制主義、あるいは独裁体制が、いかに幻想的で危険な統治体制かわかろうというものである。異論を徹底的に封じ、自身や自身の体制の「無謬性」を前提に統治するなどという妄想的所業は、結局は甚大な厄災を共同体にもたらす他ない。
今や世界中で、大声で「ファースト」を叫ぶ、専制主義的な志向の強い政治指導者が跋扈している。
私は改めて思う。たとえ如何なる欠陥があろうとも、不断の改良を要件として、民主主義、あるいは共和制的な統治を擁護し続けるべきであると。
*次回は、4月6日月曜日更新の予定です。
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南直哉
禅僧。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。1958年長野県生まれ。84年、出家得度。曹洞宗・永平寺で約20年修行生活をおくり、2005年より恐山へ。2018年、『超越と実存』(新潮社)で小林秀雄賞受賞。著書に『日常生活のなかの禅』(講談社選書メチエ)、『老師と少年』(新潮文庫)、『恐山 死者のいる場所』『苦しくて切ないすべての人たちへ』(新潮新書)などがある。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
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- 南直哉
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禅僧。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。1958年長野県生まれ。84年、出家得度。曹洞宗・永平寺で約20年修行生活をおくり、2005年より恐山へ。2018年、『超越と実存』(新潮社)で小林秀雄賞受賞。著書に『日常生活のなかの禅』(講談社選書メチエ)、『老師と少年』(新潮文庫)、『恐山 死者のいる場所』『苦しくて切ないすべての人たちへ』(新潮新書)などがある。
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