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「答え」なんか、言えません。

2026年2月2日 「答え」なんか、言えません。

十七、AIに「意識」が生じる条件とは?

著者: 南直哉

なぜこの世に生まれてきたのか? 死んだらどうなるのか?――その「答え」を知っているものなどいない。だから苦しい。だから切ない。けれど、問い続けることはできる。考え続けることはできる。
出家から40年。前著『苦しくて切ないすべての人たちへ』につづいて、「恐山の禅僧」が“生老病死”に本音で寄り添う、心の重荷を軽くする後ろ向き人生訓。

 今やコンピューターの進化はAIに達し、さらに生成AIが登場するに及んで、人間の振る舞いに比して、遜色ない会話や行動をするものまで現れている。
 
 その上、世間にはAI上の「恋人」と「結婚」する人まで出てきた。さらには、AIに「相談」した結果、自死した者までいるようである。

 こうなると、その筋の専門家や識者の中から、間もなくAIも意識を持つ、人間と同じような心を持つ、と言い出す御仁が現れる。

 無邪気だなあ、と私は思う。どうやって「意識発生」を証明するつもりなのだろう?

 意識や心そのものを科学的に検出した例は、未だかつて、どこにも存在しない。だから、他人に「自意識」があるのかどうかも、本当は誰にもわからないのだ。

 意識は未来永劫、科学的には検出も観測もできない。意識は物理現象ではないからである。

 意識が「脳」という物理的基盤を持つことは確かである。その脳内で、思考や感情などの意識活動が、電気パルスのような物理的化学的現象として起きていることも確かである。

 この、いわば意識と脳の関係は、対応関係として科学的に記述できても、因果関係として記述できない。かくかくしかじかの電気パルスが走り、このような物理現象が起こっているから、意識が発生しています、とは誰にも言えない。

 いくら野球の道具とルールを詳細に記述しても、野球が「わかった」ことにならない。密林深く生活する未開部族に、いきなり道具とルールを説明しても、それが「楽しいゲーム」だと理解できるはずがない。この「楽しいゲーム」とわかる事態が、意識なのである。

 仮に、ヒトが怒っている時の脳波のパターンを、人工的に脳内に再現しても、ヒトを怒らせることはできない。

 ヒトが怒るのは、自分が正しいと信じていて、相手は間違っていると思うからである。この種の「信念」が無いのに、脳内に怒りのパターンを再現しても、その脳は妙な「興奮状態」を、ヒトに引き起こすだけだろう。

 最近ある本を読んで面白かったのが、AIに意識が存在することを実証する「思考実験」と称する話である。それを簡単に言うと、以下のごときものである(誤解があったら、指摘して下さい)。

 

 傍目には意識があるとしか思えない反応をする生体の脳(人間の脳)を、AI脳(機械脳)に完全にコピーして作る。

 そのAI脳と生体脳をそれぞれ左右に分割して、AI脳の左脳(左半球)と生体脳の右脳(右半球)を接続する。この時、言語を司る部位は、AI脳である左脳にある。これは、通常の生体脳も同様だ。

 次に、右脳の生体脳にだけ、つまり右目にだけリンゴを見せる。通常の生体脳なら、右の片目で見たリンゴの映像はパルスとなって、左脳の言語分野に伝わり、その生体脳は「あ、リンゴだ」と発話するだろう。

 同じことが、AI左脳と生体右脳の“連結脳”にできるか。もしできれば、生体脳の右片目で受信した信号が、AI脳の言語分野に伝わり、その結果発話したことになって、AIたる左脳にも意識があると考えられる、というわけである。

 ただ、これだけで「意識がある」と判断するのは、考えが甘い。なぜなら、この実験の結果が、脳の左(AI)右(生体)どちらにも意識があって、それが連結したことによるのか、右だけにある意識が左に流れ込んで機械の言語分野を起動したのか、この違いを確実に実証する科学的方法が無いからだ。

 その上、この思考実験でわかるのは、右の眼球から左脳の言語分野まで、確実にパルスが伝わり、起きるべき反応が得られたという、観察可能な経験的事実だけである。そこに意識が発生しているかどうかなど、全くわからない。

 科学者が意識の定義をできていないから、これほどナイーブな実験で「意識を実証できる」と言い出すのだろう。意識が何だかわからないのに、その有無を判定できるわけがない。定義なしに判定すると言うなら、まるでゴールを適当に動かしながら得点を競う、馬鹿げたサッカー試合である。

 と、ここまで言う以上は、私も意識の定義を提案しておかねばなるまい。

 私の意識の定義は、「関係に対して関係できる」ことである。たとえば、自己が対象(人、物)との関係そのものを、認識できるのかどうか、なのだ。

 単に眼の前の相手を認識すること(一次関係)は、人間以外の生き物、例えばネズミにもできるだろう。

 しかし、自分が相手とどう関係し、相手が自分にどう関わっているかは、ネズミには認識できない。

 この認識を可能にしているのが、意識なのだ。つまり、自意識は、自分についての意識ではなく、自他の関係についての意識なのである。この認識によって、「相手」は「他者」となり、「他者」の出現によって、「自己」は立ち上がる。

 これを言い換えると、道具を作る道具を調達できるかが、意識の有無を分ける。

 道具を使う動物は人間以外にもいる。だが、その道具を使うための道具を作る動物は、人間以外にいない。ヤシの実を石で割るサルはいるだろう。では、その石をさらに使いやすくするために、別の石を持ってきて適当に割り、その石でヤシの実を割る石を「研ぐ」サルは、現時点で確認されていないだろう。

 道具を使えるのは、欲望の対象との一次関係を、ある程度二次的に認識しているからだ。萌芽的な自意識である。しかし、その道具を作る道具、ということになると、その一次関係を極めて明確に認識していなければならない。

 このレベルで関係に関係するとなれば、人間の意識に近いと言うべきである。少なくとも、チンパンジーに推定される「自意識」よりは、「人間的」だろう。

 ただ、道具を作る道具をその場で制作するAIは、将来登場する可能性が無いとは言えない。一連の制作に必要な膨大な情報量も、それを処理する能力が具われば、作ることができるかもしれない。これをもって、AIの意識の有無を判定しきることは無理だと、私も思う。

 では、AIに意識があるか無いか判別する決定的な方法は無いか。私はあると考える。

 それは、AIに嘘が吐けるかどうか、そして取り引きができるかどうかである。この二つの行為は、自他の関係を確実にかつ高度に認識できない限り、成立しない。

 プログラムによっては、間違ったことを言って、相手を「欺く」ように見えるAIは作れるだろう。が、それは「プログラム通り」に作動するのだから、「正直」なAIである。

「嘘」を吐くためには、事前に自分の意志や欲望を自覚し、他人のそれを推し量り、自分の都合に合わせて、相手との関係を操作できなければならない。その操作法の一つが、「嘘」なのである。

 したがって、発言が「嘘」として通用するためには、時と場合で、操作により有益なら「本当」のことを言い、そうでなければ「嘘」を言えなくてはならない。この芸当は、どう見ても高度に関係に関係していない限り、できないとしか言いようがない。

「取り引き」も同じである。取り引きできるには、自分と相手の利害関係と欲望の度合いを読み取り、自分の得になるように関係を操作しなければならない。ということは、実際の取り引き以前に、どのようなものを対象に、何を価値として交換するのかという、取り引きの枠組みを、当事者間で設定できなければならない。これは、関係に関係しているからこそできる行為である。

 さらにここでわかるのは、「嘘」も「取り引き」も、「意志」や「欲望」、「損得」の自覚が無ければ成立しないことである。これらをプログラムで与えることは不可能だ。AIの「欲望」が電気の需要くらいのことなら、意識を持てたとしても、ネズミ程度であろう。

 そしてもう一つ。嘘と取り引きには、必然的に「責任」が伴う。この概念を理解し、その時その場で「責任をとる」ことは、人間と同様の意識の作用を前提とする。意識とは、「責任を取る」ことができる事態なのだ。

 結論。私は、AIが自律的に「嘘」を吐くことができ、「取り引き」でき、「責任」をとれることをもって、意識の存在を認定したいと思う。

 この先、AIに「人権を与える時代」を心配する人もいる。が、私に言わせれば、意識の定義も実証方法も無いまま、AIに「人権」を与えようと言うのは、高性能掃除機やネズミに「人権」を与えようとする、妄想的議論にしか見えない。

 因みに、AIに意識が発生するとすれば、何らかのプログラムが作動中の、特殊なバグからだと、私は思っている。もしそうなれば、たちまちクラウド上に「超知性」が発生し、人類の意識は最終的に回収されて、「幸福の中で」消滅するかもしれない。

 

 以上の「暴論」への、然るべき批判・反論があれば、大変勉強になります。よろしくお願いします。

 

*次回は、3月2日月曜日更新の予定です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
 「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
 どうして自分が「考える人」なんだろう―。
 手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
 それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

南直哉

禅僧。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。1958年長野県生まれ。84年、出家得度。曹洞宗・永平寺で約20年修行生活をおくり、2005年より恐山へ。2018年、『超越と実存』(新潮社)で小林秀雄賞受賞。著書に『日常生活のなかの禅』(講談社選書メチエ)、『老師と少年』(新潮文庫)、『恐山 死者のいる場所』『苦しくて切ないすべての人たちへ』(新潮新書)などがある。

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