仙台との縁は、もう十年になる。東北学院大学で、哲学の佐々木俊三先生が、新入生を対象に「学問のすすめ」と題した講座をひらかれ、その「学問のすすめ」のなかで、ゲスト・スピーカーとして小林秀雄の学問について話してほしいと頼まれたのが最初である。
新潮社の出版部に籍をおいて、昭和四十六年(一九七一)の夏、小林秀雄先生の書籍の編集担当を命ぜられ、五十一年の暮から五十二年の秋にかけて「本居宣長」の本を造らせてもらった。そのおかげで、小林先生が学問に関してどういうことを言われているかはある程度まで承知していた。じかに聞かされていたこともある。むろん佐々木先生の意図もそこにあったのだが、大学に入ったばかりの学生諸君に、小林秀雄について聞いてもらえるとなればうれしいかぎりだ、よろこんで承諾した。
私は、戦後すぐの生まれで、先の東京オリンピックがひらかれた昭和三十九年が大学受験の剣ヶ峰の年だった。当時の大学入試の国語の読解問題は、「朝日新聞」の<天声人語>、夏目漱石、そして小林秀雄が出題数の御三家と言われ、毎年この三者が他を圧していたが、<天声人語>と漱石はともかく、小林秀雄は難解も難解とされていた。そのため、文科系・理科系を問わず、小林秀雄を制する者よく大学入試を制すとまで言われた。逆にいえば、いざ試験場に入って小林秀雄に出くわして、手も足も出ないようでは合格はない、そう思えということだった。
こうして私たちの世代の大学生は、誰もが小林秀雄を知っていた。受験勉強を通じて小林秀雄を知り、私のように生涯の師表と仰ぐようになった学生もいれば、合格通知を手にするや堪忍袋の緒を切り、小林秀雄と聞けば嫌悪と憎悪をむきだしにする学生もいた。ざっと思い起せば十人中三人が熱烈敬慕、三人が徹底忌避、あとの四人はそれぞれに思いを抱きながら我関せず焉(えん)を決めこんでいたというところだっただろうか。
ところが、昭和五十年代の後半、様相が一変した。小林秀雄がぱたりと大学入試に出なくなった。それだけではない、小林秀雄は高校の教科書からも姿を消した。なぜそうなったのか、何があったのか……。今になってみれば、たぶんあれだと思える力がはたらいていた。その、大学入試と高校教育の現場から小林秀雄を締め出した力は、それはそれで小林秀雄という存在の大きさを示していたのだが、そこに立ち入るのは追ってのことにしよう。
ともあれ、この大学入試の急変ぶりは、やがて社会現象となって現れた。出版社の新入社員ですら小林秀雄を知らないという者が多くなった。ある年など、某誌の編集長が新人研修の講師を務め、新入社員に小林秀雄についての感想を求めたところ、全員が作品はおろか、名前さえも知らなかったという。こんな連中に日本を任せられるのかと、編集長は息巻いて帰ってきたそうだ。
そういうわけで、十年前、東北学院大学へ招かれた最初の講義で、私は、諸君は小林秀雄を知っているかとまず尋ねた。百五、六十人ほどの学生のうち、手が上がったのは十人足らずだった。予期したとおりだった。別段がっかりはせずに、小林秀雄とはどういう人物かを丁寧に話して第一回の講義を終えた。
そのときだった、教卓のまわりへ、数人の学生が寄ってきて、そのうちの一人がこう言った、――小林秀雄、知っています、予備校で習いました、大学へきてまた聞けてうれしいです……。彼の後ろにいた他の学生たちもうなずいた。思いがけない彼らの反応はうれしかった。しかし、さほどの感慨はなかった。予備校で習ったとは、受験勉強の教材に使われたのだろうくらいに受け取った。
ところが、次の年にまた同じことが起った。むろん前年とはまったく別の学生たちである。これを佐々木先生に話すと、たちどころに答えられた。ああ、それは三浦先生です、河合塾に三浦武という現代文の先生がいて、三浦先生の名前を口にする学生は何人もいます……。私は、「三浦先生」に会いたいと思った。教え子だという男子学生二人に頼んで機会をつくってもらった。
教え子たちによれば、三浦武さんは世にいうカリスマ教師で、現代文の指導実績にかけては斯界で知らぬ者がないという。しかし、直に会って話してみて、私は、私より一回り以上は若いと思われる三浦さんが、見事な小林秀雄の読み手であることに感じ入った。言うまでもないが、受験勉強の読み方ではない。東北学院で私の教卓を囲んだ学生たちは、三浦さんのこの「読み」に感化されたにちがいない。
聞けば、三浦さんは、学生時代から青年期のある時まで、小林秀雄を指弾する側の読者だったという。その彼が、突然、天啓を得たかのように擁護・喧伝する側の読者になった。最初はキリスト教を迫害するユダヤ教側の烈士だったが、ダマスクスへの道で復活したキリストの声を聞き、回心するや史上最強のキリスト教伝道者になったパウロのような小林秀雄の読み手なのである。
今年の夏、仙台の河合塾で私の話を聞き、手紙をくれたS君は、三浦さんが近代文学の講師として出向いた福島大学での教え子だった。私が佐々木先生に招かれた東北学院大学では、講義ごとに出席カードを配り、それに講義の感想を書いて提出させる。私の講義は三回だが、第一回の講義の後のカードにはほとんど全員が小林秀雄は名前も知りませんでしたと書き、第二回の後には小林秀雄を読んでみたいと思いますという者が増え、最終回の後は皆が皆と言っていいほど、私が伝えた小林秀雄の言葉をきちんと引くなどして的確に思いを打ち返してくる。これが毎年繰り返される。
小林秀雄の言葉は、それを入試問題や評論文のようにでなく、自分自身の出会いの経験として語れば電光石火で相手の胸に届き、波立てる。小林秀雄を知る者として小林秀雄の微妙を語れという示唆は、早くに佐々木先生と三浦さんからもたらされていたのである。
(第二回 了)
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池田雅延
いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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