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随筆 小林秀雄

 小林秀雄は、批評家である。明治三十五年(一九〇二)四月十一日、東京・神田に生れ、昭和四年(一九二九)九月、二十七歳の秋、「様々なる意匠」によって文壇に出、日本の思想史、精神史に、近代批評の創始者、構築者と称えられる足跡を印して、昭和五十八年三月一日、八十年の生涯を閉じた。

 小林秀雄、死す―その日、新聞各紙は第一面から社会面へと、「小林秀雄氏死去」を大きく報じた。「近代批評文学の構築者」(『朝日新聞』)、「近代批評文学の開拓者」(『毎日新聞』)…第一面の見出しを、各紙一様にこう打った。そして社会面には、「知的孤高貫いた“批評の神様”」(『サンケイ新聞』)、「文芸評論を芸術の高みに」(『日本経済新聞』)、「近代文学切った光彩」(『読売新聞』)等々と打った。テレビ・ラジオや雑誌が大特集を組んだことは言うまでもない。
 海外でも精しく報じられた。イギリスを代表する新聞『タイムズ』の同年三月十四日号は、小林秀雄は、近代日本の最も著名な批評家の一人であった、彼は、日本の文芸批評の水準を、たった一人で高めたといっても過言ではない…、と筆を起し、丁寧に業績を紹介した。
 小林秀雄、死す―。この一報は、一個人の死を超えて、昭和の日本の一大事件として内外に伝えられた。実に五十年余にわたって、小林秀雄の言葉が多くの日本人を烈しくつかみ、眠ろうとする魂を目覚めさせ、蹲(うずくま)ろうとする肉体を奮い立たせていたからである。

 昭和四年九月、「様々なる意匠」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第1集所収)が雑誌『改造』の懸賞評論二席に入って小林秀雄は文壇に出た。この「様々なる意匠」こそ、各紙が伝えた「近代批評」の出発であった。それまでは、文芸批評といえば他人の作品に得手勝手な難癖をつけるか、そうでなければマルクス主義その他の公式を作者や作品に押しつけて裁断するか、そのどちらかであった。小林秀雄は、そういう批評態度に、わけても後者に厳しく詰め寄った。詩であれ小説であれ、文学は作者の自意識の表現である、ならばこれと交感する批評もまた、評者の自意識の表現でなければならぬ、「批評とは竟(つい)に己れの夢を懐疑的に語ることではないのか!」、そう言い放って「近代批評」の楫(かじ)を握った。 以来五十年、「ドストエフスキイの生活」「モオツァルト」「私の人生観」「ゴッホの手紙」「近代絵画」「本居宣長」…と、批評の言葉を求めた世界は文学に留まらず、歴史、音楽、美術、哲学、思想…と多岐にわたった。

 今日、「批評」という言葉は、一般には「批難」や「批判」などと同列に受け取られている。そのため、小林秀雄の仕事も「批難」「批判」がもっぱらで、下世話に言えば悪口雑言の大家だったと思いこんでいる人がけっこういる。むろん、そうではない。永年、批評文を書き続けて小林秀雄が達した境地は、「批難」や「批判」からは一八〇度の対極にあった。小林秀雄の批評は、「けなす」ではなく、「ほめる」であった。昭和三十九年、六十一歳の正月に発表した「批評」(同第25集所収)にこう書いている、―自分の仕事の具体例を顧みると、批評文としてよく書かれているものは、皆他人への讃辞であって、他人への悪口で文を成したものはない事に、はっきりと気附く。そこから率直に発言してみると、批評とは人をほめる特殊の技術だ、と言えそうだ。人をけなすのは批評家の持つ一技術ですらなく、批評精神に全く反する精神的態度である…。別のところでは、こうも言っている、―ほめるところには創造がある、だが、けなすところからは何も生れない…。

 そして、小林秀雄にとって「ほめる」と「けなす」の関係は、「批評」と「評論」の関係と対応していた。文学辞典や人名辞典の類は、ほとんどが小林秀雄を「評論家」としているが、これは辞典の便宜的表記に過ぎない。小林秀雄は、「批評家」である、「評論家」ではない。批評もジャンルでいえば評論であるから、小林秀雄が文中で自分の文章を評論と呼んでいる例がないではない。しかし、小林秀雄の意識のなかでは、批評と評論は画然と区別されていた。日常談話で口にするとき、文章については常に「批評」であり、職業は常に「批評家」であった。
 この小林秀雄の類別意識は、「様々なる意匠」で切った啖呵、「批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語ることではないのか」に直結していた。「評論」は、他人を捉えて他人を語る、だが、己れを語ることはない。対して「批評」は、他人を捉えて他人を語り、他人を語ることによって己れを語る、そうやって己れを知る。小林秀雄は、他人という鏡に自分を写し、自分自身の深奥を透視しようとして「批評」を書いたのである。

 小林秀雄死去の日、『日本経済新聞』は、「文芸評論を芸術の高みに」と見出しを打った。厳密にいえば、これも「文芸批評を」と言ってほしいところであったが、『日経新聞』の言わんとしたところは、ふつうにはまず芸術とは見なされない表現形式の「論文」を、誰もが芸術と認めて讃えるほどの表現にまでしてみせたという一点である。では、なぜ、小林秀雄の文章は、芸術と讃えられるまでになったのか…。小林秀雄は、批評の文章を、「論文」としてではなく、「作品」として書いたからである。
 三十五歳の夏、「文芸批評の行方」(同第9集所収)を発表して、批評家も小説家と同様に、「創造的な」批評を書くのだという決意を示し、四十六歳の夏には、小説家・坂口安吾と対談して(同第15集所収「伝統と反逆」)、君たち小説家は、信長や家康を具体的描写で描く、僕はドストエフスキーやゴッホを、抽象的描写で描く、どちらも人間の肖像画を描くということに変りはないのだと言って、終生、「批評」という名の「作品」づくりに身を削った。
 新聞各紙が謳った「近代批評文学の構築者」とは、そういう小林秀雄の生涯を括ったものであった。『朝日新聞』はさらに「『本物』に徹した生涯」、『毎日新聞』は「『精神のドラマ』刻んで」、『東京新聞』は「無私で人生の真実見る」と打った。総じていえば、各紙が挙(こぞ)って伝えたのは、その業績もさることながら、「人間・小林秀雄の生き方」という、独創的な作品の姿であった。    

(第三回 了)

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

池田雅延

いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。

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