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随筆 小林秀雄

 小林秀雄先生は、昼間はきわめて寡黙だった。お宅に参上するのは午後の三時が多かったが、その日の相談事がすんでしまうと、後はいつも静寂に領された。こちらが何かを切りだせば、きちんと応じて下さるのだが、それもすぐに途切れて静寂がもどった。
 その間、先生は硝子戸越しに、庭に目をやっていられる。私も黙って庭をながめる。そのうち、ふと先生がこちらを向き、口をひらかれることがある。あの日もそうだった。
 「君、そりゃあ、文学は読まなくちゃだめだよ、だがね、文学を読んでいただけではわからない、微妙ということがわからない。音楽を聴けばわかるよ、絵を見ていればわかるよ」
 そのまましばらく口をとざし、そして続けられた。
 「齋藤はわかっているよ。微妙ということがわかっている。あいつは、音楽を聴いているからな…」
 私は、次を待った。しかし、一息いれて先生が私に向けられた質問は、まったく別の話題だった。私は二十代の終りだった。 

 小林先生の音楽好き、絵画好きは、「美を求める心」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第21集所収)などによってもよく知られているが、先生が「音楽を聴いているからな」と言われた「齋藤」は、新潮社の編集者、齋藤十一さんのことである。昭和二十一年(一九四六)、三十二歳で看板雑誌『新潮』の編集を任され、ほぼ同時に役員となった。以後、齋藤さんに見出され、鍛えられて出版界を賑わし、戦後の文学史に名を刻んだ作家たちの名は枚挙に遑(いとま)がない。しかも齋藤さんは、『新潮』で辣腕をふるいながら二十五年には『芸術新潮』を創刊、三十一年には『週刊新潮』を、五十六年には写真週刊誌『FOCUS』を出した。出版社系初の週刊誌『週刊新潮』はたちまち週刊誌ブームを巻き起し、『FOCUS』の五十九年一月六日号は二〇〇万六五〇部という週刊誌史上最高の発行部数を記録した。
 齋藤さんは、小林先生のちょうど一回り下、大正三年(一九一四)の寅だった。別段、干支の縁でというわけではないが、小林先生と齋藤さんは、肝胆相照らす仲だった。小林先生最後の大業「本居宣長」が『新潮』に連載されたのも、「小林秀雄全集」が五回にわたって新潮社から刊行できたのも、元はといえば齋藤さんの手柄である。純文学の『新潮』を部下に引き継いだ後は、『週刊新潮』、『FOCUS』と、俗臭の勝った荒っぽい分野に一途に意欲を燃やしたが、その変身ぶりを訊かれるとこう答えた、―僕は週刊誌で文学をやっているんだ、人生の断面をパノラマにしているんだ…。
 そして、その齋藤さんは、毎朝必ず一時間から二時間、鎌倉の自宅でパイプをくゆらせながら、日本には三台しか輸入されなかったうちの一台という英国デッカ社製の「デコラ」でレコードを聴いていた。気に入ったレコードは一枚ずつカードに書きとめ、それらを何度も何度も繰り返し聴いた。齋藤さんが亡くなった後、残されたカードの束を夫人から見せてもらったが、ざっと一〇〇枚というところだっただろうか。むろんその何十倍、何百倍ものレコードから選りすぐった一〇〇枚である。外で気の向かない面談などを打診されると、「僕は忙しいんだ、毎日音楽を聴かなくちゃならないんだ」と嘯(うそぶ)いて家路に就いた。

 だが、あの日、小林先生の言われた「微妙という事」は、耳には鮮やかに残ったが、いまひとつすとんとは飲みこめないままで何年かが過ぎた。先生は、一度聞かされた話の中身を確かめようと、後日になって私たちが問いを向けてもほとんど応じられないということが多かった。先生の頭の中は、もう他の考え事でいっぱいだったのだろう。したがって、「微妙という事」についても、あの日以上のことは聞けずじまいとなったのだが、先生が亡くなって二十年余り経った頃、小林秀雄研究を志しているという青年の訪問を受けた。その青年が、今年、『考える人』に「小林秀雄の時」を連載している杉本圭司さんだった。親しくなってしばらくして、「微妙という事」の話をした。初対面の席で、音楽が好きで子供の頃から聴いていますとも言っていた杉本さんは、しばらく視線をテーブルに落していたが、おもむろに顔をあげて言った。
 「『年齢』という文章で、耳順について書かれていますね…」
 「年齢」(同第18集所収)は、小林先生四十八歳の随想である。「論語」に孔子が「四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順(みみしたご)う…」と言ったとある。ここから四十歳を不惑と言い、五十歳を知命と言うようになったのだが、「不惑」も「知命」もいちおうはわかったような気になれる。ところが「耳順」はそうはいかない。そこで古来、様々に解釈が試みられてきたのだが、小林先生は、これは孔子が思想家であると同時に、音楽家であったことと関係があるだろうと前置きして、こう言っている。
 ―自分(孔子)は長年の間、思索の上で苦労してきたが、それと同時に感覚の修練にも努めてきた、六十になってやっと両者が全く応和するのを覚えた、自分のように耳の鍛錬を重ねてきた者には、人間は、その音声によって判断できる、またそれが一番確かだ、誰もが同じ意味の言葉を喋るが、喋る声の調子の差違は如何ともし難く、そこだけがその人の人格に関係して、本当の意味を現す…。
 杉本さんが言おうとしたのは、この一節である。ここで言われている「音声」は、親からもらった生まれつきの声だけではないだろう。人の世の陽に焼かれ、波風に打たれ、微妙な響きを追々帯びるに至った声であろう。その声に人柄が出る、人格が出る。たとえば、「ありがとう」と同じ言葉を口にしても、人それぞれに響きがちがう。
 私たちは、とても孔子のようなわけにはいかないが、それでも無意識のうちに相手の声を聞き分け、人品を判断しながら生きている。声にかぎらない、表情も、仕草もだ。こうしてこの世のあらゆる側面、局面で、言うに言えない「微妙な何か」が、人間を、さらには人間と人間、人間と自然の間を醸しているようなのである。小林先生が、「齋藤はわかっているよ」と言われた「微妙」は、そういう「微妙」なのである。
 小林先生六十年の批評活動は、事あるごとにその「微妙」に気づき、「微妙な何か」のありようを、深く感じて考えるというところに眼目があった。あの日、小林先生は、―僕らがよりよく生きるために大事なことは、この世の微妙を知るということだ、その微妙は、五感で感じるしかないのだが、微妙を感じて知るための五感は文学だけでは鍛錬できない、音楽を聴いて耳を鍛えたまえ、絵を見て目を養いたまえ、そうしていればおのずと感じられるようになる…、そう言われていたのである。

(第四回 了)

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

池田雅延

いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。

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