おかげでこの小文も、連載を始めてから満一年を迎えることとなった。小林秀雄先生の晩年、私は先生の本を造る係として先生の身近にいさせてもらったが、その間腐心したことのひとつは、先生の本をどうにかして若い人たちに読んでもらいたい、読んで得た感銘を、さらにまた次の世代に語り継いでもらいたい、そのために私に何ができるか、私のなすべきことは何か、であった。この小文は、そういう腐心の延長で思い立ったのだが、先生が亡くなった後に先生の存在を知り、ほとんど古典を読むのと変らない距離感で先生の本を読み始めたという読者にも、生前の会話や桜、鮎といった自然への愛着ぶりから先生の体温が感じられる、親しみがわくと言ってもらえてよろこんでいる。
そこでさて、今回はその「先生」である。この小文を続けながら、一度は書いておかなければなるまいと思っていたことだが、私が言っている「先生」は、出版界やその周辺で符牒のように飛び交っている「先生」ではない。ましてや国会議員たちがそう呼ばれ、議員たち同士もそう呼びあっているような「先生」ではない。
いまはどうだか知らないが、少なくとも十年ほど前まで、私が編集者の現役でいた頃は、芥川賞、直木賞をとればむろんのこと、どこかの雑誌の新人賞をとったというだけでも作家は先生と呼ばれる風潮があった。だから当然、小説家、評論家、随筆家……と、地歩を固めて一家をなした人たちは、みな先生と呼ばれていた。
そんな時代の昭和四十五年(一九七〇)、秋には三島由紀夫の事件があった年の春、私は新潮社に入り、書籍の編集に携わる出版部に配属された。出版部長は新田敞さんといい、三島由紀夫や山本周五郎といった大作家の何人もから絶大の信頼を寄せられていると入社したその日に先輩から聞かされたが、数日後、新人研修の講師となった新田さんは、私たちに編集者の心得を熱心に説き、最後にこう言った。
「君たちねえ、これからいろんな作家のところへ行ってもらうがね、作家に向かって先生なんて言うんじゃないよ。編集者は作家の弟子でも書生でもないんだからね、作家と対等の職業人なんだからね、みんな誰々さんでいいんだ、その人を本気で先生と呼びたくなったら呼んでもいいがね、めったやたらと先生なんて言うんじゃないよ」
編集者は、作家と対等の職業人――。私はこの言葉に奮い立った。作家と対等の編集者とは、どういう職業人か、それを、これからの実地経験でとことんきわめようと思った。その心がけが、とりもなおさず私の人生に実りをもたらしてくれるにちがいないと思った。
だから、私が小林秀雄先生を「先生」と呼んでいるのは、当時も今も巷にあふれている「先生」とはまるで違った気持ちからなのだが、それをはっきり意識して「小林先生」と呼ぶようになったのは、入社の翌年、先生の本の係を命じられたときからである。
それまでは、どちらかといえば「小林秀雄」と敬称をつけずに呼んでいた。これは別段、呼び捨てにしていたということではない、読者の立場では敬称略がふつうだったということだ。今日でも、たとえば「村上春樹はいい」と言ったりする、それと同じである。そういう慣習・慣例の線上で私も「小林秀雄」と呼んでいたのだ。
ところが、小林先生の係を命じられて、きわめて自然に「先生」と呼ぶようになった。それは、高校時代から読んできて、文学史上どれほどの地位に位置づけられているかもよく知っている「小林秀雄氏」本人に向って、「小林さん」とは呼べるわけがなかったということもあるが、それ以上にはっきり意識したのは、あの日、新田さんが最後にいった一言だった、その人を、本気で先生と呼びたくなったら呼んでもいいがね……まさに、小林秀雄先生は、私が本気で「先生」と呼びたい人だった。
ほぼ一年前にもここで書いたが、六十年にわたった小林先生の文筆生活の一貫したテーマは、「人生、いかに生きるべきか」だった。この問いが、どれほどの高みまで、どれほどの深みまで問い続けられたかに小林先生の本領があるのだが、しかしそれらは、常に哲学とか思想とかの理論や議論から始められるのではなかった。先生にとっても私たち読者にとっても、日常生活のすぐそばに、すぐ身の回りに起きていることをすばやく見てとり、そのごくささいな事柄が、私たちの人生をどれほど支えているか、豊かにしているか、そこを驚くばかりの高み深みまで連れていって見せてくれる、それが小林先生なのである。ということは、小林先生の言う「人生、いかに生きるべきか」は、出発点も帰着点も、「この人生、私たちはどういうふうに生活すればよいか」なのである。難解、難解と言われる小林秀雄だが、そういう目で読んでいけば、「人生、いかに生きるべきか」は、いくつもいくつもわかりやすい言葉で書かれているのである。
そういう「小林秀雄の言葉」を、この小文にも機会あるごとに引いてきた。
――確かなものは覚え込んだものにはない、強いられたものにある。強いられたものが、覚えこんだ希望に君がどれ程堪えられるかを教えてくれるのだ。……(「新人Xへ」、新潮社刊「小林秀雄全作品」第6集所収)
――模倣は独創の母である。唯一人のほんとうの母親である。模倣してみないで、どうして模倣出来ぬものに出会えようか。……(「モオツァルト」、同第15集所収)
――私が物を考える基本的な形では、「私」と「物」とが「あひむかふ」という意になろう。「むかふ」の「む」は「身」であり、「かふ」は「交ふ」であると解していいなら、考えるとは、物に対する単に知的な働きではなく、物と親身に交わる事だ。物を外から知るのではなく、物を身に感じて生きる、そういう経験をいう。……(「考えるという事」、同第24集所収)
私が、小林先生の係を命じられて、きわめて自然に「先生」と呼ぶようになったのは、こういう言葉がいくつも私の身体に沁みていたからだ。なかでも、高校時代、大学時代と、何度も背骨をどやされたのは、「僕の大学時代」(同第9集所収)の次の言葉だった。
――僕はただもう非常に辛く不安であった。だがその不安からは得をしたと思っている。学生時代の生活が今日の生活にどんなに深く影響しているかは、今日になってはじめて思い当る処である。現代の学生は不安に苦しんでいるとよく言われるが、僕は自分が極めて不安だったせいか、現代の学生諸君を別にどうという風にも考えない。不安なら不安で、不安から得をする算段をしたらいいではないか。学生時代から安心を得ようなどと虫がよすぎるのである。……
不安なら不安で、不安から得をする算段をしたらいいではないか。七十歳になった今も、この言葉は再三胸に噴き上がる。
こうして私は、小林先生の肉声を聞き、立居振舞を直接目にする僥倖に恵まれたのだが、この僥倖が重なるうち、年々目に沁みたのは、先生の「姿」だった。先生は、批評家として文章を発表する一方で、創元社という出版社に請われて編集顧問を務め、柳田国男の本をいちはやく世に送るなどの業績も残したが、その経験から「読書週間」(同第21集所収)で、近ごろは出る本が多すぎるとまず言い、続いてこう言った。
――一定の目的も、さし迫った必要もあるわけではないが、ただ漫然と何を読んだらいいか、という愚問を、いかに多数の人々が口にしているか。これは、本が多過ぎるという単なる事実から、殆ど機械的に生ずる人々の精神の朦朧状態を明らかに示している様に思われます。一般教養を得る為にどんな書物を読んだらよいか、という本が出版されている。類書はずい分多く皆よく売れております。開けてみると、一生かかって読み切れないほどの本の数があげられている。実に無意味な事だ。一体、一般教養などという空漠たるものを目指して、どうして教養というものが得られましょうか。
そして、言う。
――教養とは、生活秩序に関する精錬された生きた智慧を言うのでしょう。これは、生活体験に基いて得られるもので、書物もこの場合多少は参考になる、という次第のものだと思う。教養とは、身について、その人の口のきき方だとか挙動だとかに、自ら現れる言い難い性質が、その特徴であって、教養のあるところを見せようという様な筋のものではあるまい。教養学部などという言葉がある。こんな言葉が現れるのは、もう教養という言葉の濫用という様な生まやさしい事態ではない事を示しております。……
先生の「教養」は、まさしく「身について、口のきき方だとか挙動だとかに自ら現れ」ているものだった。すなわち、先生の「姿」そのものだった。私が小林先生を「先生」と呼ぶ気持ちの大半は、ここに発している。そういう先生の「姿」を、これからもこの小文に写し取っていこうと思う。半世紀ちかくに及んだ編集者生活において、私が本気で「先生」と呼んだ著者は、小林秀雄先生だけである。
(第二十四回 了)
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池田雅延
いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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