隆慶一郎(りゅう・けいいちろう)さんも、小林秀雄先生を「先生」と呼んでいた。私が妬(や)けるほどの思いをこめて「先生」と呼んでいた。隆さんは、昭和五十九年(一九八四)九月、「吉原御免状」をひっさげていきなり『週刊新潮』に登場、平成元年(一九八九)十一月四日、六十六歳で亡くなるまでのわずか五年間に、「影武者徳川家康」(『静岡新聞』連載)「死ぬことと見つけたり」(『小説新潮』連載)「花と火の帝」(『日本経済新聞』連載)など、大長篇を続々書いて一世を風靡した時代小説作家である。今日の若い人たちには、劇画「花の慶次」の原作「一夢庵風流記」(『週刊読売』連載)の作者と言ったほうがわかってもらいやすいだろうか。
その隆さんが、『週刊新潮』に登場した年の前年、五十八年三月一日に小林秀雄先生が亡くなり、六十年の三月、私は出版部から月刊雑誌『小説新潮』に移った。『小説新潮』には、隆さんの連作「鬼麿斬人剣」が始まっていた、私はすぐにその担当になった。
小躍りしたい気分だった。というのは、小説家としてデビューするまでの隆さんの経歴、すなわち六〇年代、七〇年代を代表する売れっ子シナリオライターとしての活躍ぶりを私は知っており、五〇年代、石原裕次郎の「陽のあたる坂道」の頃からシナリオで鍛えた隆さんの「物語力」が、小説に向けられたことをよろこんでいたからだ。
隆さんは、本名を池田一朗といった。たまたま私も池田だったということもあったのだろう、初めて挨拶したときからまるで親戚の若いのがやって来たというような表情で接してくれた。が、それ以上に隆さんにとっては、私が小林先生の係をしていたことが大きかったようだ。挨拶の後の雑談のなかで、私が小林先生の名を出したときだった、「小林先生?」と隆さんが訊き返してきた。隆さんは、シナリオライターになる前、小林先生が深く関わっていた出版社、創元社の編集者だった。そのことも、先生のお宅で隆さんのテレビドラマが話題になったとき、夫人から聞かされていた。
「隆さんも、先生の部下だったと伺っています」、私はさっそく水を向けた。隆さんは、破顔一笑して、「小林先生と言えばねえ、一番に思い出すことがあるんだ」と言い、「戦争が終ったばかりの頃だがね……」と続けた。
隆さんは、東大仏文科の出身である。ということは、小林先生の後輩である。学徒出陣で戦地に送られ、九死に一生を得て終戦を迎え、昭和二十三年三月、東大を卒業した。その卒業の年は、恩師、辰野隆(ゆたか)先生の定年退官の年だった。東京大空襲を辛くも逃れ、焼け残った教室で辰野先生の最終講義が行われた。
小林先生も隆さんも、当然のことだが「辰野先生」と言っていたから、私も「辰野先生」と呼ばせていただくが、辰野先生は、日本のフランス文学研究の基礎を築いた人である。明治になって日本でも始ったフランス文学の研究と教育は、長年、本場のフランスから招いた外国人教師に頼っていた。そこへようやく、辰野先生が日本人で初めて、正規に講座を担当できる地位に就いたのだ。大正十年(一九二一)、助教授となり、同十二年、教授となった。
小林先生は、そういう時期の教え子だった。東大に入ったのは大正十四年四月、着の身着の儘(まま)の貧しい学生だった。その小林青年を、辰野先生の太っ腹が救った。辰野先生は、フランス文学者としての学識、見識、指導力、いずれも特段の人だったが、度量の大きさでも並ぶ者がないほどだった。小林青年は本という本、片っ端から辰野先生の研究室から借りて読んだ。
隆さんは、話を続けた。辰野先生の最終講義の日、先生の講義の後には教え子を代表し、小林先生が謝辞を述べることになっていた。司会者に促されて壇に立った小林先生は、こう話し始めた。
――真の良師とは、弟子に何物かを教える者ではない、弟子をして弟子自身に巡り会わせる者である、とは、周知のようにソクラテスの言葉であるが、その意味で辰野先生は、まことに真の良師であった。僕たちが乱脈な青春を通じて、先生のお蔭でどうやって自分自身に巡り会うことができたかは、僕たち銘々が身に徹して知っていることである。……
だが、そこまでだった。小林先生は、口をへの字に結んで天井を斜めに見上げ、何も言わなくなった。かなり長い間(ま)だった。やがて言った。
――今日のためにいろいろ考えてきたのですが、急に胸がいっぱいになって話すことができなくなりました。これで勘弁して下さい。……
言い終ると、席に戻り、ちょこんと坐った。またしばらく間があり、次いで教室も割れんばかりの拍手が起った……。
そこまで話して、隆さんは口を噤んだ。隆さんの口が再びひらくのを待って、私は言った、そのお話、書いて下さい、私の雑誌に書いて下さい……。隆さんは、書けるかなあ、と、若干の苦笑を口許に浮かべながら引き受けてくれた。そのときのエッセイが、現在は講談社文庫の『時代小説の愉しみ』に入っている「失われた名演説」である。いまここで読んでもらった話も、言葉づかいなど結果的には隆さんのエッセイによったのだが、隆さんにはもう一篇、「編集者の頃」と題したエッセイがある。
辰野先生の最終講義のあの日、小林先生が壇を降り、教室は謝恩パーティの場となった。パーティと言ってもまだ終戦直後、酒も料理も乏しかったが、それでも当時としてはご馳走だった。小林先生は、静かに飲んでいた。先生のスピーチに感極まったまま、隆さんは初対面の先生の前に立った。先生が創元社の重鎮であることは知っていた。先生のところで働きたいんです……。返事は簡単だった、いいよ、明日からおいで……。こうして私は創元社の編集者になった、が、創元社は妙な会社だった、一個の塾だったと隆さんは書いている。
こういう出会いを経て、隆さんと私はとりわけ息の合った著者と編集者になった。まったくの他人なのに叔父甥のような感覚に誘われたり、小林秀雄門の兄弟子・弟弟子という気分に胸が高鳴ったりすることも再々あった。隆さんは、中央大学でフランス語を教えていた時期もある。フランス文学の話もめっぽう面白かった。フランス文学と時代小説……やや懸隔がありすぎる気もして、ある日、訊いた、どうしてフランス文学から時代小説へ、だったのですか……。隆さんは、意外なことを訊く、とでも言いたげな顔つきで答えた、――バルザックの「人間喜劇」ね、あれ、時代小説なんだよ、僕はバルザックを目ざしている……。
小林先生に死なれて、悲痛から抜け出せないでいた私は、先生自ら言っていた先生の愚連隊時代もかくやと思わされるほど奔放不羈の隆さんと会って、この隆さんに会わさんがために天は私を『小説新潮』へ引っ張ったのだと思えることすらあった。
次々連載される隆さんの小説は、どれもこれもが評判を呼んだ。そういう隆旋風のさなか、なぜ隆慶一郎はもっと早くに小説を書き始めなかったのだという声もあちこちから聞えるようになった。隆さんがシナリオライターから小説家に転じたのは六十歳の年だった。その、なぜという思いは私のなかでも強かった。私はそれも隆さんに訊いた。隆さんは、はにかむように答えた、先生に読まれるのが怖かったからだよ……。そして、創元社時代のことを話してくれた。
編集者の仕事にも慣れ、いやがうえにも意欲が高まった頃、隆さんはある新人に書かせた単行本の原稿を小林先生の部屋に持参し、これを出したいのですがと許可を求めた。先生は、応接のソファに移り、さっそく読み始めた。しかし、遅い。四〇〇字詰原稿用紙の最初の一枚から二枚目までに十五分から二十分かかった。二枚目、三枚目も同じだった。四枚目の途中で二枚目にもどり、いきなりその一カ所に人差し指を当てて言った、「この点は、どうして打ってるんだ」、隆さんは答えた、「読みやすくするためでしょう」、すると先生は、四枚目の一カ所を同じようにさして言った、「ではこの点は、どうしてここに打ってるんだ」、隆さんは、「そこも同じだと思います」、先生の語調が変った、「なんだと? もういっぺん言ってみな」、「読みやすくするためだと思います」、その刹那、雷が耳をつんざいた、「馬っ鹿野郎、てめえなんざ今すぐやめちまえ!」。
わけがわからず呆然とする隆さんに、先生は畳みかけた、――こいつは頭が悪い、それがわからないか。頭のいい悪いはものを考える持続力だ、こいつの思考は持続してない、ぷつぷつぷつぷつ切れている。ここにこの点を打つなら、この点はここでないといけない。それが見ぬけないお前はこいつより頭が悪い、お前に本は出せない! それからざっと二時間、隆さんはいかに頭が悪いかを言われ続け、完膚なきまで叱られ続けた。
いやあ、怖かったといったらなかったよ、と隆さんは最後には笑ったが、その怖さは私にもわかった、一度だけだが約一時間、私も先生に叱られ続けたことがあったからだ。小林先生は、こういうふうに文章を読むんだよ、こんな読み方を目の前でされてごらんよ、おいそれとは書けなくなる、小説を書きたいとは早くから思っていた、だけど先生に読まれると思うと書けなかった、先生が生きていた間は書けなかった、と隆さんは一息に言った。
創元社では週一回、小林先生の下で編集会議が開かれた。その席で先生は、編集者たちの企画をばっさばっさと斬っていく。会議が終ると近くの蕎麦屋の二階に移り、酒になる。食べ物はいつも天ぷら蕎麦一杯だが、酒はいくらでも出た。酒が進むにつれて毎回先生の道場になる。蕎麦屋の二階で一人ずつ、先生は編集者たちを名指しで批評する、返答次第では当人が泣くまでしごきあげる。隆さんが、創元社は一個の塾だったと言った所以である。叩きのめされたのは隆さんだけではなかった。
隆さんは、こうして小林秀雄という師によって、隆さん自身に巡り会わされた。隆さんの小説は、隆さんが巡り会った隆さん自身の肖像画であった。
(第二十五回 了)
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池田雅延
いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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