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随筆 小林秀雄

 新潮社に入り、小林秀雄先生の係を命じられてから二年あまりが過ぎた昭和四十八年(一九七三)の秋であった、PR雑誌の『波』に、先生の新春談話をもらうことになった。
 『波』は月々の新刊案内を目的とした小冊子で、今ももちろん出ているが、私が入社した頃はまだ創刊直後と言ってよく、岩波書店の『図書』などと並んで、年々評価が高まっていた。というのも、『波』では新潮社の新刊案内自体が第一線の作家、学者といった人たちの筆でエッセイ風になされており、それらに加えてそうした筆者の瀟洒な随筆、連載小説も載っていて、ひとくちで言えば肩のこらない教養雑誌、そういう編集センスが読書人によろこばれていた。
 入社以来、私が属していた出版部の部長、新田敞さんは、この『波』にも力を入れ、あの手この手の企画を自ら打ち出して部員を鼓舞していたが、早くから小林先生の原稿を欲しがっていた。だが当時、先生は『新潮』の「本居宣長」に専心されていて、時折り短い推薦文や追悼文を書かれるほかはいっさい原稿というものは断られていた。
 そこはわかってるがね、新年号にくらいは何か書いてもらってくれよ…。新田さんにそう言われて、先生に電話をし、お宅を訪ねて頼んだ。案の定、先生は言下に、僕はいま宣長さんで手いっぱいだ、勘弁してくれ、と言われた。私は、用意していた代替案を口にした。今日ではなく、日を改めて私が先生にお話を伺い、それをまとめて先生に目を通していただくというわけにはいかないでしょうか…。つまりは、談話筆記である。先生は、君が来るのかい? それならいいよ、で、いつだ? 私は候補日を二、三挙げ、そのうちの一日を約束してもらって先生の山の上の家を辞した。
 それまで、先生の係として講演を頼み、名古屋、大阪へ随行したりはしていたが、原稿を書いてもらうということはまだ一度もなかった。私の談話筆記とはいえ、先生の原稿がもらえるのである。有頂天と言ってよかった。だが一方、談話筆記だからこその緊張と恐怖はそれまで経験したことのないものだった。他の人ではない、小林先生の談話である、一語たりとも聞き落してはならない、聞き損じてはならない、ましてや趣旨を取り違えるなどは決してあってはならない…。私の唯一の味方はテープレコーダーだった。
 テープレコーダーなるものは、私が小学校五、六年生の頃に現れた。学校で見たり触ったりしたのはオープンリールの大型で、とても一人で持ち運びできるようなものではなかったが、そのテープレコーダーも急速に進歩を遂げ、私が新潮社に入った頃は誰でも買えて、肩から下げて持ち歩けるまでになり、新聞記者や編集者の仕事場にテープレコーダーが持ち込まれることはもう普通のことになっていた。
 幸い私も、新しいのを一台買っていた。先生のお宅へうかがう前日、私はそのテープレコーダーを入念に点検した。電池は新品に入れ替え、スペアも用意し、新品のカセットテープを空回しし、「本日は晴天なり」を何度も入れてテストし、当日、先生のお宅へ着く直前にも異常なしを確認した。とにもかくにも、先生の言葉は一言たりとも聞き逃したり聞き損じたりはできないのである。

 応接室へ通され、挨拶を終えて、控えめにテープレコーダーを取り出し、先生の話を録音させてもらう旨の許しを求めた。先生は、いいよともだめだとも言われなかった。私は許されたと解して、そのころ先生の周辺で話題になっていた菊池寛賞のことから質問を始めた。
 先生は、いつもと変らぬ口調で答えられた。―小林秀雄君か、彼はこんど菊池寛賞をもらったが、僕と同姓同名でね、僕がいた創元社に入ってきたのだが創元社の社長も小林なんだ、これではややこしいということで、彼は林秀雄と呼ぶことにしてもらった…。
 そういう話のやりとりが、五分も続いたかどうかの頃だった、先生が突然、「君、それ、切れよ」とテープレコーダーを指さして言われ、そのまま何も言われなくなった。やがて夫人を呼ばれ、酒の支度を言いつけられた。あら、もう、ですか、珍しいですね、こんな時間から、と夫人は笑いながら言って下がられた。先生は、その後もずっと、硝子戸越しに庭を見つめたままだった。何か失礼なことを訊いたのか、私の態度に何かあったのか…。私は気が気でなかった。先生のこういう沈黙は初めてのことだった。

 お支度ができましたよ、と夫人が言ってこられ、先生は「行こう」とだけ言って腰を上げ、茶の間へ移られた。私は卓をはさんで先生の向いに坐った。先生はすぐに手酌で飲み始められた。手酌はいつものことだった。どんな酒席ででも人に酌をするということはなく、人から酌をされることも極端に嫌がられた。だがしかし、いつもであれば、酒が一滴入ると素面のときの無口から一転、一気に舌が滑らかになる先生であった、なのにその日は、依然として口を閉じられたままだった。私はもはや、気が気でないどころではなかった。
 そのうち、ようやく「君ね」、と先生が言われた。「君は今日、僕の話が聞きたいと言ったね、だから僕は、君と話そうと思って待っていた、なのになんだい、君は僕の話を機械に聞かせているじゃないか。僕は、君に聞いてほしい言葉は持っているが、機械に聞かせる言葉など持っていないからね」。そこから先生の叱声が高くなった。
 「ちかごろはみな、録音機のマイクを平気で人につきつける。そうすることでもう人間同士の会話は成り立たなくなっていることに誰も気づいていない。会話とは、当事者同士で創作する言葉の劇だ。そこに機械が入りこむともうだめだ。話す側は、聴く側が耳を機械に預けて虚ろになっていることをすぐさま感知するから、聴く側の表情や目の色に触発されて考えるということがなくなる、頭のなかに出来上っている意味内容を吐き出すだけになる。聞くほうも聞くほうだ、あとで録音を聞けばよいと思っているから身を入れて聞かない。そこに劇は起らない、そこからは何も生れない…」

 前回、隆慶一郎さんが先生に叱られ、怖いといったらなかったと言ったその怖さが、私にもわかったと言ったのはこの経験があったからである。隆さんが叱られたとき、先生は四十七、八歳だった。私が叱られたときは七十一歳だった。隆さんに落ちた雷と、私に落ちた雷との間には、先生の年齢差があっただろう。だから隆さんは、私以上に震え上がったと思われるのだが、ここで一言、差しはさんでおきたいことがある。隆さんだけでなく、小林先生の怒りは烈しい、厳しい、恐ろしいと、何人かの人が書いている。先日、それらを目にしたらしい現代の評論家が、これはパワハラだと言っていた。小林先生のあの怒り、あのしごきは、パワハラなどという現代語の出る幕ではない。
 先生の怒りは、感情の暴発ではなかった、「批評」であった。隆さんにしても私にしても、先生に叱られたということは、先生に批評されたということだった。先生は、人生いかに生きるべきか、この人生とどう向きあうかについて、私たちの心得違い、勘違いを手厳しく暴き、私たちがどれほど世の通念に押し流され、人間というものを置き去りにして生きているか、そこを徹底的に衝いたのである。三十年にもわたってドストエフスキーを批評してきた小林先生が、本腰入れて池田雅延を「批評」するのである。そんじょそこらの部長や課長が、八つ当たりしたり無理難題を言ったりするのとはわけがちがうのである。

 先生の叱声は続いた。私のテープレコーダーは、私の心得違い、勘違いの象徴だった。
 ―ソクラテスは、ひたすら知を愛したが、彼の真知を得る最善の道は、できるだけ率直に、心を開いて人々と語る、これだった。この相手こそ心を割って語りあえると見た人との対話とは、相手の魂のうちに、言葉を知識とともに植えつけることだ、この言葉は、自分自身も、植えてくれた人も助けるだけの力を持っている。空しく枯れてしまうことなく、その種子からはまた別の言葉が別の心のうちに生れ、不滅の命を持ちつづける。
 あの日、先生が私を叱って言われたことの肝心要はここだった、対話の魂ということだった。これを後に、先生は、「本居宣長補記Ⅱ」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集所収)に書かれた。
 ―ソクラテスにとって、言葉とは、自分の外部にあって外部からどうにでも操れる記号ではなかった。それは己れの魂に植えつけられて生きているものだ。対話劇の進行とは、人と人との間に対話の喜びを生み出し、これを生かしているもの、言わば対話の魂と呼ぶべきものにめぐり会い、これを信じ、その自然な動きに随うことだ。
 にもかかわらず、君のテープレコーダーは、僕の言葉を君の外におき、僕が君の魂に植えつけようとした言葉を、かさかさに乾いた空気にさらしたのだ、先生はそう言われたのである。

 どれぐらいの時間が経っていたかはわからなかった、先生の語調が変った、急に穏やかになった。
「心配しなくていい、書いてあげるよ、何枚だい?」
「二十枚です」
「締切はいつだ?」
 それからほぼ二週間後、私に手渡された原稿は「新年雑談」と題され、『波』の昭和四十九年新年号に載った。いまは「小林秀雄全作品」の第26集に入っている。
 それにしても、先生のあれほど長い沈黙は、私が先生の許に通った十一年半の間であの日の一日だけだった。まだ日の高い午後の三時頃から、先生が酒と言われたのもあの日の一日だけだった。

(第二十六回 了)

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

池田雅延

いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。

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