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随筆 小林秀雄

 昭和五十年代の半ば、大学入試問題の見直しについて議論が起ったとき、丸谷才一氏が小林秀雄は入試に出すな、小林の文章は悪文だと書いた、これを伝え聞いた小林先生は、丸谷氏に悪文と言われたことには別段腹を立てたりはせず、丸谷が入試問題に小林を出すなと言うのは正しい、僕は詩を書いているのだ、それを散文扱いして小林の言いたいことはどれかなどと訊くのが見当違いなのだと言った、ということを前回書いた。では、小林先生の言う「詩」とは何かである。
 一般に、「詩」とは何かと問われると、一行一行が短く、そういう短い行をいくつか並べた文芸作品というイメージが最初に浮かぶ。いっぽう「散文」とはと問われると、小説、随筆、論文など、行を変えずに書かれた文章というイメージが浮かぶ。この分類からいえば小林先生の書いたものは散文であるが、それを先生は散文ではない、詩だと言う。だとすればこれは「散文詩」と言われるものかともなるが、先生が言いたかったのはその種の外見ではない、先生が「詩」を言うとき、その「詩」は「象徴詩」だった。

 一九世紀の後半、フランスの詩壇に、象徴派と呼ばれる新しい思潮が興った。小林先生によれば、一八世紀の末から一九世紀の初めにかけて、誰も彼もが自分を外部に向って解放し、自分自身を洗いざらい告白することに夢中になって浪漫主義が殷賑をきわめたが、一九世紀の後半にはその告白の嵐のなかで迷路に入りこんだ浪漫主義の向こうを張って自然主義が台頭し、人間を客観的、合理的に観察してありのままに描写しようとした。が、この浪漫主義、自然主義は、いずれも人間を知ろうとして散文表現に走り、制約というものが一切ない散文の使い勝手に酔い痴れて、結局は人間の本性を捕まえるどころか収拾がつかないまでに拡散させてしまった。象徴派の詩人たちは、これに抗して、自分を外に向って解放したり外から観察したりするのではなく、自らの内的な現実を、どこまでも詩という表現法によって守ろうとした。
 そこで彼らは、自分の内的な情感や情緒、あるいは思考を詩に表すに際し、そういう情感、情緒、思考といったものは、個々の言葉が負っている意味内容によっては表現できないとして、個々の言葉の伝統的、習慣的意味内容は捨て、言葉と言葉の組合せによってまったく新たなイメージを喚び起し、その暗示的イメージで読者の想像力に訴えた。ボードレールに始り、マラルメ、ヴェルレーヌ、ランボー、ヴァレリーなどがその代表的存在であったが、そういう彼らによって書かれた詩が象徴詩と呼ばれるものであった。

 大正十年(一九二一)四月、小林秀雄は十九歳で第一高等学校に入学し、ボードレールと出会った。詩は好きだった。自ら書くことはしなかったが、読むのは好きだった。「ランボオⅢ」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第15集所収)に書いている。
 ―当時、ボオドレエルの「悪の華」が、僕の心を一杯にしていた。と言うよりも、この比類なく精巧に仕上げられた球体のなかに、僕は虫のように閉じ込められていた、と言った方がいい。その頃、詩を発表し始めていた富永太郎から、カルマンレヴィイ版のテキストを貰ったのであるが、それをぼろぼろにする事が、当時の僕の読書の一切であった。
 次いでは、ランボーだった。同じく「ランボオⅢ」の冒頭に書いている。
 ―僕が、はじめてランボオに、出くわしたのは、二十三歳の春であった。その時、僕は、神田をぶらぶら歩いていた、と書いてもよい。向うからやって来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである。僕には、何んの準備もなかった。ある本屋の店頭で、偶然見付けたメルキュウル版の「地獄の季節」の見すぼらしい豆本に、どんなに烈しい爆薬が仕掛けられていたか、僕は夢にも考えてはいなかった。而も、この爆弾の発火装置は、僕の覚束ない語学の力なぞ殆ど問題ではないくらい敏感に出来ていた。豆本は見事に炸裂し、僕は、数年の間、ランボオという事件の渦中にあった。

 小林秀雄にとって、「象徴詩」とはそれほどのものであった。この「ランボオⅢ」は昭和二十二年三月、四十四歳の春に書かれたが、昭和二十五年四月、四十八歳の春には「詩について」(同第18集所収)と「表現について」(同)を立て続けに書き、この二つの文章で「象徴詩」の「象徴」とはどういうことかを言っている。
 今日、「象徴」という言葉は、天皇は日本国民の象徴であると言われているような、あるいは鳩は平和の象徴であるとされるような、そういう意味合で専ら使われているが、「象徴詩」の「象徴」は、そうした意味合ではない。何から何までそうではないとは言えないが、日本で言う「象徴」は、明治時代、中江兆民が用いた訳語に発したもので、そこからボードレールらの詩を「象徴詩」と言われてもどういうものかはもうひとつ思い描きにくいだろう。
 兆民の訳語「象徴」のもとになったフランス語は「symbole」である。その「symbole」の語源は古代ギリシャ語の「symbolon」であり、「symbolon」はコインなどを割って作る割符(わりふ)である。当事者たちがその一片ずつを持ち、他日これを合せることで正当な当事者同士であることの証とした。今日でも契約書などに押す割印は割符の一種と見ていいだろうが、ともかくフランス語の「symbole」には古代ギリシャの「symbolon」の語感が生きている。そこを小林先生は、「詩について」でこう言っている。
 ―symboleという言葉の古い意味は、文学というものを信ずる限り変りはしまい。文学者は、創り出した文学形式という割符に、詩魂という、日常自らも知らない自我という割符を合わせるものである。
 同じく「表現について」ではこう言っている。
 ―詩人は自ら創り出した詩という動かす事の出来ぬ割符に、日常自らもはっきりとは自覚しない詩魂という深くかくれた自己の姿の割符がぴったり合うのを見て驚く、そういう事が詩人にはやりたいのである。
 詩を作ろうとして詩人は言葉をまさぐる。そうこうするうち言葉が言葉を呼んで詩が形をなす。その形は、詩人の眼には自分自身の姿と映る。それまでは、詩人自身にもまったく見えていなかった自分である。
 ここから進んで、先生はこうも言っていた。情感であれ情緒であれ思考であれ、これらを一語で言い表すことはできない。二語、三語、四語五語と、これぞと思う言葉を取り集め、これらをどう配列するか、どう組合せるかをあれこれ試み、目の前にできてくる言葉の彫刻という割符に、自分の中にある情感、情緒、思考の割符がぴたりと合うまで呻吟する、それがものを書くということだ…。
 したがって、こうして書かれた先生の文章は、外見はどうあれ散文ではない。散文とは、人に訴えたい、あるいは人を説得したい主張がまずあり、その主張を相手に呑み込ませるために用語の指し示す概念はすべて世間一般が認めている範囲に限り、それらを三段論法なら三段論法の手順を手堅く踏んで積み重ねていく、そういう文章である。丸谷氏は、小林先生の文章を難じて、「彼の文章は飛躍が多く、『語』の指し示す概念は曖昧で、論理の進行はしばしば乱れがちである」と言っていたが、それはそうである、先生は詩を書いて、己れを知ろうとしているのである、だから最初から論理の糸は手繰らない、飛躍は恐れない、それどころか言葉と言葉の激突によって思わぬ自分が飛び出してくるかも知れない、ゆえにあえて飛躍する、一語一語の指し示す概念は、端(はな)から捨てている、というより端から壊しに行っている…。丸谷氏の勘違いはひとまずおいて、小林秀雄の文章は大学入試の出典としては適さない、これは丸谷氏の言うとおりなのである。

 では、そういう小林秀雄の文章を、どう読むかである。先生は、「表現について」でこう言っている。
 ―詩人は、ワグネル(ワグナー)が音楽を音の行為Tatと感じた様に、言葉を感覚的実体と感じ、その整調された運動が即ち詩というものだと感じている。従って詩では、言葉が意味として読者の頭脳に訴えるとともに、感覚として読者の生理に働きかける。つまり詩という現実の運動は、読者の全体を動かす、私達は私達の知性や感情や肉体が協力した詩的感動を以って、直接に詩に応ぜざるを得ない。これが詩の働きのレアリスムでありナチュラリスムである。
 「象徴詩」に具わっているsymboleという性格には、詩人が彫った言葉の彫刻という割符と詩人の詩魂という割符のほかに、読者の詩的感動という割符があると言うのである。つまり、「象徴詩」は、詩人の情感・情緒・思考を個々の言葉の意味によってではなく、言葉と言葉の組合せによって喚起する暗示的イメージで読者に訴える、それなら読者は、自らの知性、感情、肉体、それらを総動員した自らの詩的感動という割符を詩人の割符に合せるという協力が必要になる。読者のよき協力を得て詩人の割符と読者の割符が合ったとき、そのとき初めて詩人の詩は完成するのである。
 だから、筆者の言いたいことは次のうちのどれかと訊いて、正解はこれだとたったひとつの正答なるものを受験生に押しつけた大学入試は道理にあわない。小林秀雄は難解だと言われる理由はここにある。小林秀雄が難解なのではない、読者が入試問題を読まされたときと同じように、「筆者の言いたいことは何か」、そればかりを頭において、解釈できないものを頭で解釈しようとするから難解になるのである。
 誰にも指図されずに読みたいように読んで、一人ひとりがそこに何かを感じてくれればいいのだ、読者の詩的感動という割符はすべて正解なのだと先生は言っていた。難解、難解と言われながら、今日なお若い、新しい読者が続々生まれているのは、先生の文章が詩であるからだろう。先生が暗示する人生の光や風を、読者が各自、各自の知性、感情、肉体を総動員して感じて奮い立つからだろう。
 僕の文章は、君たちの想像力があってこそ書き上がるのだ…先生には終始、象徴派の詩人たちと同じ希いがあった。

(第二十八回 了)

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

池田雅延

いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。

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