小林秀雄先生は、酒がたいへん好きだった。それも、日本酒である。
召し上がるときは、必ず燗(かん)にされた。日本酒は燗にして飲むようにできている、燗にしてこそ味が映えるのだと言われ、冷や酒や冷用酒に手を伸ばすことは絶対になかった。そして、必ず手酌であった。酒の暖かさと重みを感じながら徳利を傾け、盃を口に運ぶ、その手ざわりと間合いも大切なのだと言われ、誰が同席していようと酌はしない、酌をしようとする者がいるとそっけなく拒否された。
酒豪と言うなら酒豪であった。が、ただ酔いたいというだけの酒飲みではなかった。家にいて、客のない日は、夕方六時からが晩酌である。一日二合と決めていて、その二合を李朝の刷目(はけめ)徳利や日本の桃山時代の備前徳利、李朝の井戸盃や桃山時代の黄瀬戸盃など、何百年にもわたって使いこまれてきた古い器でゆっくりと飲む。こういう日の先生は、酒豪というより酒仙であった。酒を好み、楽しむこと、まさに富岡鉄斎の絵で見る仙人のような風情であった。
その「楽しむ」は、まずはものを書くという仕事のあとの「酔い心地」だった。先生は、「宮本武蔵」や「新平家物語」などで知られる作家、吉川英治さんとも親しかったが、先生が六十歳の年に吉川さんが七十歳で亡くなり、先生は夫人に頼んで形見に紅志野のぐい呑みをもらった。その経緯を綴った「硯と盃」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第25集所収)で、こう言っている、――一日中、机の前で、頭をこんがらかせる、晩酌で、ゆっくり、こいつをほごす。後は寝るだけ。もう長い事、何の変哲もない月日が続いている。これから先きも、異変でも突発しない限り、続くだろう……。
そして、当然のことに「味」だった。繊細・微妙な日本酒の味を味わい分ける、これが先生の最大の楽しみだった。それは、絵や音楽を味わうのとまったく同じだった。絵も音楽も、先生の日常生活の一部としていつもあり、応接間には鉄斎の扇面、ルオーの版画などが掛けられ、オーディオのテレフンケンには毎日レコードが載ったが、酒もそういう絵や音楽と同じだった、酒も「作品」だった。
絵や音楽は、これぞという絵が見せてもらえたり、コンサートに招かれたりする機会に恵まれると、何日も前から体調に気を配った。どんなにいい絵を見せられても、いい音楽を聴かされても、こちらが風邪をひいたり頭痛を抱えたりしていては万事休すだ、だから万全の体調が必要なのだと言っていた。
晩酌も、それと同じであった。夕方の酒をうまく飲むために、午後になると水分を控えた、水もお茶も口にしなかった。私が仕事で先生を訪ねるのは午後三時、ないしは四時が多かったが、私にはお茶が出る、しかし先生には、いつも何も運ばれてこなかった。したがって、酒席に着いて、とりあえずビールなどということは断じてなかった。
晩酌の酒は、ふだんは灘の「菊正宗」だったが、これも、「菊正宗」であればよいというものではなかった。今では造り酒屋の蔵から町の酒屋の売場まで、輸送や保管にあたっての品質管理もすこしはマメに行なわれるようになったらしいが、先生がお元気だった昭和四十年代、五十年代はその方面の意識そのものが低かった。同じ銘柄の酒でも、造り酒屋を出たときのうまさがまずまず保たれている酒屋と、まったくそうでない酒屋とがあり、そうでない酒屋のほうが圧倒的に多かった。日本酒は繊細である。ちょっとした光のかげんでも味が変る。だから先生は、家で飲む「菊正宗」は、そのあたりのことをよく知っている酒屋から買っていた。
人に勧められたり、旅先で出会ったりして気に入った酒は、その酒を知ったことがうれしくてたまらないという口調で話題にした。私が聞かされたなかでは、作家の安岡章太郎さんに教えられた富山の「立山」、大分の由布院への道で知った「的山」などが代表格だったが、京都伏見の「玉乃光」もそういう酒だった。
当時、「玉乃光」は、先生が住んでいた鎌倉の南方、葉山にあった蕎麦の「如雪庵一色」で飲めた。「一色」は、晩年、葉山の町長さんに連れられて行って気に入り、蕎麦が食べたくなるとひとりでバスに乗って行っていた。先生が亡くなって三十年、「一色」は平成二十五年に惜しまれながら店を閉めたが、先生には、「一色」の蕎麦で、「玉乃光」の純米吟醸を燗にして飲むというのも大きな楽しみだったのである。
しかし当時、日本酒がおかれていた状況は、全体としては決して好ましいものではなかった。昭和四十年(一九六五)八月、先生は京都で数学者の岡潔さんと対談し、その対談「人間の建設」(同第25集所収)のなかで、日本酒に対する憤懣をぶちまけている。だがこの先生の憤懣を聞くことで、逆に先生がどんなに日本酒が好きだったか、どういうふうに好きだったか、そこを「感じ」でわかってもらえると思うから、まずは該当のくだりをほぼそっくり引いてみる。
――小林 岡さんはお酒がお好きですか。
岡 自分から飲まないのですけれども、お相伴に飲むことはあります。今日はいただきますよ。
小林 ぼくは酒のみでして、若いころはずいぶん飲んだのですよ。もう、そう飲めませんが、晩酌は必ずやります。関西へ来ると、酒がうまいなと思います。
岡 酒は悪くなりましたか。
小林 全体から言えば、ひどく悪くなりました。ぼくは学生時代から飲んでいますが、いまの若い人たちは、日本酒というものを知らないですね。
岡 そうですか。
小林 いまの酒を日本酒といっておりますけれども。
岡 あんなのは日本酒でありませんか。
小林 日本そばと言うようなものなんです。昔の酒は、みな個性がありました。「菊正」なら「菊正」、「白鷹」なら「白鷹」、いろいろな銘柄がたくさんございましょう。
岡 個性がございましたか。なるほどな。
小林 店へいきますと、樽がずっと並んでいるのです。みな違うのですから、きょうはどれにしようか、そういう楽しみがあった。
岡 小林さんは酒の個性がわかりますか。
小林 それはわかります。
岡 結構ですな。それは楽しみでしょうな。
小林 文明国は、どこの国も自分の自慢の酒を持っているのですが、その自慢の酒をこれほど粗末にしている文明国は、日本以外にありませんよ。中共だって、もういい紹興酒が飲めるようになっていると思いますよ。
岡 日本は個性を重んずることを忘れてしまった。
小林 いい酒がつくれなくなった。
岡 個性を重んずるということはどういうことか、知らないのですね。
小林 その土地その土地で自然にそういうものができてくるのですから、飲み助はそれをいろいろ飲み分けて楽しんでいるわけでしょう。……
酒に個性がなくなった、これが小林先生の第一の憤懣である。そこには、そうなるほかない大変動が日本酒を襲っていた。
――小林 灘(なだ)に「白鷹」の本舗があります。そこに鉄斎さんの絵がたくさんあるので、私は見にいったことがあります。鉄斎さんの絵も見たかったけれども、本舗でいい酒も飲みたい。そこで御馳走になりましたが、うまくないのですよ。本舗の御主人は老人でしたが、私は、ちょっと甘いなと言っちゃったのです。そうしたらおじいさんが、だめですよ、あんた、そんな悪口をおっしゃるけれども、このごろ甘くなったのは、酒だけじゃござんせんでしょう、と言う。その通りですよ。昔みたいなうまい酒はできなくなった。本舗がそう言うのですから確かです。ぼくらが若いころにガブガブ飲んでいた酒とは、まるっきり違うのですよ。樽がなくなったでしょう。みんな瓶になりましたね。樽の香というものがありました。あれを復活しても、このごろの人は樽の香を知らない。なんだ、この酒は変な匂いがするといって、売れないのです。それくらいの変動です。日本酒は世界の名酒の一つだが、世界中の名酒が今もって健全なのに、日本酒だけが大変動を受けたのです。
岡 香をいやがるのですか。
小林 杉の匂いがしますから、だめなんです。そんなふうに口が変った。ソヴェットに行ったって、ウォトカはコンミュニスムの味はしやしない。日本は、その代り、ウイスキーとか葡萄酒がよくなってきた。日本酒の進歩が止まって、洋酒のイミテーションが進んでいる。……
先生の慨嘆は、そのとおりだった。しかしあれから半世紀、日本酒は今、まだ一部の蔵に限られるとはいえ立ち直ってきている。日本酒づくりに昔ながらの気構えを取戻して励んでいる酒造家が何人も現れている。この日本酒の立ち直りには、あるいは先生が、岡さんとの対談でここまで強く言われたことも与って力があったと言えるかも知れないが、いずれにしても先生が対談で言われている負の側面を今なおそうだと思い、日本酒から遠ざかる人の数がふえるのでは先生にとっても不幸だろう。
そういう次第で、次回は、先生が「いまの若い人たちは、日本酒というものを知らないですね」と言った日本酒とはそもそもどういう酒なのか、その日本酒が、なぜ小林先生をあれほど嘆かせるまでになっていたのか、そこを追ってみようと思う。そうすることで、生涯日本酒を愛しぬいた先生の心持ちに、いっそう近く寄っていこうと思う。
(第二十九回 了)
-
池田雅延
いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。
この記事をシェアする
ランキング
MAIL MAGAZINE
とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
ランキング
ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号第6091713号)です。ABJマークを掲示しているサービスの一覧はこちら