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封印された分断 ブラジル勝ち負け抗争――小説『灼熱』刊行記念

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第十一章 襲撃の連鎖

 話を続ける前に、少し終戦後のブラジルの政治状況を説明します。終戦後、ブラジルでは独裁制を敷くヴァルガス大統領への批判が高まっていました。第二次世界大戦で自由主義を掲げる連合国陣営に加わっていたのに、いつまでも独裁を続けるのはおかしいと、国民の間で民主化を望む声が強くなっていたのです。

 こういった世論の声を受けてヴァルガス大統領は一旦退陣し、1946年の1月、ヴァルガス政権で陸軍大臣を務めていたドゥトラ将軍が大統領の座につきました。このドゥトラ新大統領は民主化への意欲を見せていましたが、当面は独裁制が維持されました。

 つまり戦勝派の一斉検挙を行ったDOPSは、独裁国家の公安組織です。正真正銘「ブラジルの特高」なのです。DOPS の捜査は公正でも民主的でもありませんでした。1000人検挙、400人勾留という規模からいっても、戦勝派の一斉検挙が冤罪を厭わぬ不穏分子の取り締まりだったことが窺えます。取り調べも大変に暴力的で、殴る蹴るは当たり前、拷問されて「日本は負けた」と無理矢理言わされた者もいれば、踏み絵のように天皇陛下の写真、いわゆる御真影を踏まされたという者もいました。

 そして、少なくない戦勝派が、このようなやり方はDOPSだけでは思いつかない、敗戦派の差し金に違いないと考えました。コチア産業組合の下元健吉などは「ブラジル警察を動かして戦勝派を取り締まる」という趣旨のことを公言していましたし、バストスで最初の殺人事件が起きたあとは、実際に敗戦派はDOPSに取り締まりを要請していました。通訳として取り調べに同席するケースもあったのです。

 戦勝派の怒りの矛先は、取り締まりを行ったDOPSよりも、彼らからすれば裏切り者である敗戦派へと向いました。

 一斉検挙の直後、サンパウロ市内でDOPSと縁が深いとされた敗戦派の藤平正義という人が銃撃されました。弾が逸れ藤平は無傷でしたが、その後も、パウリスタ延長線のマリリア、ソロカバナ線のプレジデンテ・プルデンテといった町で、戦勝派により敗戦派が銃撃される事件が相次ぎます。最初の殺人事件があったバストスでは、敗戦派の家に爆弾小包が届けられました。なおこれらは、それぞれ数百キロも離れた町で別々に起きた事件です。

 そして1946年6月2日には、一斉検挙のきっかけとなった4月1日の事件で逮捕されず逃亡した者たちが再びサンパウロ市内で事件を起こします。今度襲撃されたのは元大佐の脇山甚作でした。『臣道聯盟』の前身である『興道社』に参加していながら、戦勝派から敗戦派へと立場を変え『終戦事情伝達趣意書』にも署名したあの脇山です。

 襲撃犯たちは脇山の自宅に押し入り「邦人社会を混乱させた責任を取れ」と自害を迫りました。脇山はこれに応じず、しかし抵抗することもなく、その場で射殺されます。襲撃犯たちはその後すぐに自首して逮捕されました。

 この事件と前後して、日本で就任したばかりの吉田茂総理兼外相が、ブラジルの日本移民宛に日本が敗戦した旨を伝える電報を打電、6月6日にはこれがブラジルで告示されましたが、ほとんど効果はなく、各地で襲撃が続きました。その多くで犯人は逮捕され、DOPSも数千人規模の一斉検挙を何度も行いましたが、襲撃はおさまりませんでした。敗戦派やDOPSが襲撃の主犯と考えていた『臣道聯盟』が機能停止したにも拘わらず、襲撃犯は雨後の竹の子のように現われたのです。

『臣道聯盟』は戦勝派の最大団体ですから、襲撃犯の中には地方の支部の会員だった者もいましたが、縁もゆかりもない者もいました。

 まだまだ戦勝派が圧倒的多数だったこの時期、多くの殖民地で逮捕された襲撃犯は英雄のように称えられました。襲撃犯に憧れ釈放を待ち結婚した女性さえいたほどです。襲撃犯の中には「自分もやらなければならないと思った」という趣旨の証言を残している者もいます。

 当時の邦人社会、特に戦勝派の勢いが強い地方の殖民地では襲撃を肯定する「空気」が醸成され、これに感化された者が襲撃を起こしていたことが窺えます。中には、どさくさに紛れて個人的に気に入らない相手を狙ったのではないかと疑われるケースも散見されるのです。

 〝ブラジル勝ち負け抗争〟で連発した戦勝派による敗戦派への襲撃の大半は、組織的に指揮されたものではなく、空気の支配によってばらばらに発生したと考えられます。

 もっとも襲撃の背景はどうであれ、大量の日本移民を抱えるサンパウロ州政府からしてみれば、州内で次々にテロが起きているわけですから相当に頭の痛い状況でした。州政府も自ら事態の収拾に乗り出すようになり、1946年7月19日、ソアーレス州執政官(≒州知事)は、各地から戦勝派の代表を500人以上も官邸に集め、直々に敗戦を認識するよう説得する会合を開きました。言わば州当局による認識運動です。

 しかし戦勝派は同胞の声にも耳を貸さないのですから、ブラジル人に言われたところで認めるわけはありません。500人以上も人数を集めたのも仇になったようです。執政官はこの会合の最後、参加者に議事録への署名を求めますが、戦勝派の人々は足を踏み鳴らし怒号を飛ばし、その議事録から「無条件降伏」「敗戦」などの文言を削除することを求めました。このままでは場が収まらないと判断したのか、執政官は削除に応じてしまいます。すると戦勝派の人々は「それみたことか、やはり日本は勝っていたんだ」と、自分たちが正当化されたと受け取りました。この執政官の試みはむしろ戦勝派の信念を強化する結果に終わってしまったのです。

 結果的にこの7月は流血事件が相次ぎ、抗争のピークを迎えました。

 中でも、サンパウロ市の北西、パウリスタ線沿線の奥地の町、オズワルド・クルースではブラジル人も巻き込み大量の死傷者が出る大騒乱が起きてしまいました。

 7月23日、このオズワルド・クルースで敗戦派を狙った放火・爆弾事件が発生しました。この時点ではまだ他の襲撃事件と同じ日本移民だけの争いだったのですが、地元のブラジル人たちはいよいよ我が町でもテロが起きたと警戒しました。こうした空気の中で7月30日、町のバール(飲食店)で日本人のトラック運転手が、地元のブラジル人と道を譲る譲らないの口論から喧嘩になり、持っていたナイフでブラジル人を刺し殺してしまうという事件が起きます。

 刺した男は逮捕されますが、激高した一部のブラジル人が暴徒化し、その夜、「日本人を追い出せ」とばかりに日本移民の住宅や店舗を襲撃しました。

 これに反発した臣道聯盟の現地支部の会員が「間もなく俺たちがおまえらをマンダ(支配・命令)する」という趣旨の暴言を吐き、ただでさえ怒っている町のブラジル人らを逆なでしました。暴徒の数はみるみる増え、ブラジル人の群衆が手当たり次第、日本移民を襲うような事態になってしまいます。ブラジル人にしてみれば、戦勝派も敗戦派もありませんでした。

 この大騒乱は丸4日も続き、最終的には軍が出動したことで収まるのですが、50名もの死傷者が出ました。

オズワルド・クルースでの騒乱を伝える当時のブラジルの新聞記事

第十二章 宴のあと

 こうして日本移民間の混乱が続く中、1946年8月11日、ブラジル政府は大統領令を発令しました。一斉検挙などで逮捕勾留中だった戦勝派のうち、襲撃の実行犯や、吉川順治や渡真利成一など臣道聯盟の幹部など特に危険と判断した者たち80人に国外追放処分を降したのです。これだけ大量の外国人を追放処分とするのは、ブラジルの歴史上でも前代未聞のことでした。

 しかし追放といっても、テロの実行犯や危険人物と見做されている者を受け入れる国などあろうはずもありません。まだ日本との国交も断絶したままですから、母国に送り返すこともできません。そこでブラジル当局はこの80人をサンパウロ州北東の海岸部にある小島、アンシェッタ島の監獄に送り収監しました。言わば「島流し」です。10月と12月にも島流しが行われ、総勢100人以上の戦勝派がこの島の監獄に収監されました。しかし領内の島に送るのと国外追放はまったく違うことです。この処置は法的根拠が曖昧で、彼らは囚人としてではなく未決勾留のかたちで収監されたようです。当局も対応に苦慮していたと思われます。

 このアンシェッタ島の「島流し」には興味深い逸話がいくつもあります。

 監獄内でも天長節(天皇誕生日)のお祝いや、運動会などの催しが許可されており、運動会には「牢破り」なる競技があったというのですが、現代の感覚ではほとんど刑務所ジョークです。

 さらにすごいのが、その運動会で日本人が相撲をとっているのを見たブラジルの囚人の腕自慢が「俺たちと闘え」と挑戦してきて、監獄の所長も「責任を持つから思う存分闘え」と対戦を許可したため、日本の戦勝派3人VSブラジル囚人3人の、時間無制限、眼球と金的への攻撃以外何でもありの監獄デスマッチが行われたという話。

 しかもこの試合、先鋒戦に出場した日本の達人が足払いと同時に後頭部を拳で打つ必殺技をその場で編み出し、ゴリラのような巨体のブラジル人を一瞬でKO。それを見た中堅以降はびびって試合放棄して、日本側が勝利した──という、ロマン溢れすぎる展開だったとか。

 私はその場にいたという元戦勝派の方から直接、話を聞きました。さすがに話が大きくなってるんじゃないかと思わずにいれませんが、監獄内で運動会や格闘大会があったのは事実のようです。

 さてこうして、過激な戦勝派が島流しになる一方、1946年8月27日、ブラジルの国会では「年齢及び出身地の如何を問わず、日本移民の入国を一切禁止する」という憲法の修正案が審議されました。もともとブラジルには優生学の影響や、アジア人差別の土壌はありました。その上、このような騒ぎを起こした日本人に対しては門戸を閉ざそうという気運が高まっていたのです。しかし「特定の民族を差別する規定を憲法に加えてはならない」という反対意見も強く、議会は紛糾します。採決では賛成、反対ともに99票で完全に拮抗しました。こういった場合、議長が投票しその1票で決めるのが当時のブラジル国会のルールでした。議長は反対に投票し、修正案は辛くも廃案になったのです。

 もしもこの評決の結果が違っていれば、のちに戦後移民が再開されることはなく、ブラジル日系社会や、日本国内での日系人の状況も、現在とはまったく違ったものになっていたかもしれません。

 この新憲法は1946年9月に公布されますが、その後もまだ襲撃事件は散発的に発生しました。

 なお、敗戦派もやられるばかりではありませんでした。町によっては敗戦派が自警団を組織し警察と協力し、戦勝派の取り締まりを行うなどしています。ノロエステ線沿線のサン・マルチーニョでは、1946年10月、警察隊と敗戦派の自警団が戦勝派の隠れ家を襲撃し、戦勝派1名が射殺されます(撃ったのはブラジル警察でした)。

 終戦から1年以上が経っても戦勝派と敗戦派の対立は解消されなかったのですが、1946年の後半からは襲撃事件は減り始め、1947年1月、サンパウロ市で鈴木正司という人が殺害された事件を最後に流血沙汰は起きなくなります。なおこの最後の犠牲者、鈴木正司は、敗戦派の重要人物の身内(義兄)で、人違いで殺されたことがわかっています。

 襲撃が止んだ遠因として考えられるのは、1946年10月から日本との手紙などの通信が解禁されたことや、同年12月にはブラジル国内で邦字新聞の発行が解禁されたことです。このときはまだ日伯の国交は絶えてますし、邦字新聞も戦勝派と敗戦派に分かれるのですが、日本語で正しい情報が流通する経路が広がった点は大きかったのだと思われます。表向きは戦勝派が多数という状況は続いていたものの、疑いを持つ人はかなり増えており、また多くの犠牲者が出たことで暴力的なテロが支持されるような状況ではなくなっていったのです。「空気」によって肯定され頻発した襲撃事件ですから、「空気」が変化し否定的になれば沈静化したということなのでしょう。

 こうした中、戦勝派の一部はアンシェッタ島に島流しになった人々の釈放運動を展開するようになります。先述したように、この島流しはそもそも法的根拠が曖昧ですから、この運動には一定の理がありました。DOPSの非民主的な捜査に反対するブラジルの政治家や弁護士も、この点では戦勝派の味方になりました。

 時を同じくして1947年2月、そのアンシェッタ島に収監されていた『臣道聯盟』のツートップである吉川順治と根来良太郎の元を、島流しを免れた幹部の朝川甚三郎という男が訪ねました。朝川はブラジル国民や敗戦派に悪い印象を持たれている『臣道聯盟』はもう解散しようと進言し、吉川と根来はこれを受けて『臣道聯盟』の解散宣言書に署名しました。こうして『臣道聯盟』は解散したのです。

 ここで、やや横道ですが、大変興味深い二人組のエピソードがあるので簡単に紹介します。

『臣道聯盟』の解散がきっかけなのかはよくわからないのですが、リンスという町で活動していた『臣道聯盟』会員の阿部謙三と鳥越猛という二人は、この同じ頃、ブラジルを脱出することを決意しました。飛行機も船もないので徒歩です。阿部と鳥越は密林を踏破し隣国のボリビアに密入国します。ボリビアにも少数ながら日本移民がおり、彼らの中にも戦勝を信じる者はいました。二人は『臣道聯盟』の幹部だと偽り、そんなボリビアの戦勝派から2万ペソもの寄付金を集めます。その後、密入国がばれてボリビア警察に逮捕されるものの、収監された刑務所から脱獄します。

 そして今度はペルーに逃げました。ペルーにもやはり少数ながら日本移民の戦勝派がいたのですが、二人は彼らを扇動して戦勝を主張する過激な宗教団体を立ち上げます。これを危険視したペルー当局に逮捕され、アメリカ経由で日本に強制送還されました。そう、この二人、明らかに行き当たりばったりで、密入国した国で騒ぎを起こして逮捕されるを繰り返しているうちに、なんと日本に帰れてしまったのです。

 そして阿部と鳥越は戦後復興もままならずそこら中焼け野原になっている祖国を目の当りにしました。ショックを受けた二人は敗戦を認め、敗戦派に宗旨変え。東京で新聞記者のインタビューを受けブラジルの戦勝派に向けて〝敗戦は絶対的事実〟〝戦勝などという妄想を捨てるべき〟という趣旨の主張をします。これは通信員を通じてブラジルの敗戦派の邦字新聞にも掲載されたのでした。

 閑話休題。さて『臣道聯盟』を解散させた朝川甚三郎は、『国民運動本部』なる新団体をつくり、まだアンシェッタ島の監獄にいる吉川らを釈放するためとして、戦勝派から募金を集めました。そもそも『臣道聯盟』の解散からして釈放運動の一環でもあったと思えるのですが…、実はこの時期、朝川は、第十章で登場した詐欺師の川崎三造と行動を共にしていたのです。どうも釈放運動のための資金も着服していたようです。

 朝川が川崎に騙されていたのか、わかって一緒にやっていたのかはわかりませんが、川崎三造というのは本当に大した(?)詐欺師で、幹部が軒並み逮捕されたあとも『臣道聯盟』の周りをうろちょろして甘い汁を吸っていたのです。

 他方、釈放運動の甲斐もあり、アンシェッタ島に島流しになった人々は1947年の中頃から順次仮釈放されました。襲撃の実行犯たちはのちに再度逮捕され長期収監されるのですが、吉川ら『臣道聯盟』の幹部をはじめ危険人物ということだけで島流しにされた者たちは、放免となりました。前代未聞の国外追放処分は、こうして最終的にはうやむやになりました。

 吉川順治が釈放されたのは1947年9月。彼は『臣道聯盟』の再建に動こうとしますが、『国民運動本部』を立ち上げた朝川と方針の違いで対立し、袂を分かつことになります。さらに別の元会員たちが別の団体を立ち上げるなどし、『臣道聯盟』は複数の派閥に分裂してしまいます。

 分裂後はそれぞれに活動し機関誌の発行などもしたのですが、だんだんと戦勝派の数が減り、やがてどの派閥も自然消滅してしまいました。

 吉川順治の派閥にいた会員の手記には、朝川甚三郎は吉川と決別した際に、吉川が愛用していた洗面器に大便をして立ち去ったという、何とも酷いエピソードが綴られています。

 戦勝派の最大団体として悪名を轟かせた『臣道聯盟』ですが、詐欺師にさんざん引っかき回された挙句、大便を残して分裂するという、冴えない終焉を迎えたのでした。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

葉真中顕

はまなか・あき 1976年東京都生まれ。2013年『ロスト・ケア』で日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞し、作家デビュー。2019年『凍てつく太陽』で大藪春彦賞および日本推理作家協会賞を受賞、2022年、『灼熱』で渡辺淳一文学賞を受賞。他の著書に『絶叫』『コクーン』『Blue』『そして、海の泡になる』『ロング・アフタヌーン』などがある。


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