第1回 5分でわかる〝ブラジル勝ち負け抗争〟入門
著者: 葉真中顕
フェイクニュースと、それによる人々の分断――。それは今に始まった問題ではありません。
戦後ブラジルの日本移民の間で起きた、「勝ち負け抗争」もそのひとつ。「日本が戦争に勝った」と信じる人が多数を占め、敗戦を認識した少数との間で抗争が勃発、多くの死傷者が出ました。この抗争をもとに、小説『灼熱』を著した葉真中さんは、調べを進めるうち、事件の様々な側面や要因を知ることに。現代にも繋がる問題として、そして小説の副読本としてもお読みいただける「勝ち負け抗争」について解き明かす短期連載です。
まえがき
こんにちは。作家の葉真中顕です。
みなさんはこんなニュースを目にしたり耳にしたことはないでしょうか。
「2020年のアメリカ大統領選挙で勝ったのはトランプ元大統領だった」
「新型コロナウイルスのワクチンを打つと不妊になる」
これらはいわゆるフェイクニュース。現在ははっきりと嘘(デマ)だとわかっていることです。しかしこれらのフェイクニュースが流れ始めた頃は、少なくない人が信じてしまいました。信じないまでも「もしかしたら」と不安に思った人もたくさんいたことでしょう。そして、今現在もまだ信じている人もいるようです。
もしこれらのフェイクニュースがスポーツ新聞に載るような「エルビス・プレスリーは生きていた!」というようなものなら害は少ないかもしれません。しかし、政治や健康に関わることはときに多くの人の行動を変えてしまいます。
アメリカでトランプ元大統領が勝ったと信じる人々が議会を占拠したのは記憶に新しいところです。我が国にも、ワクチンに関するフェイクニュースを信じて接種を拒否する人はいるようです。
こういったことは今に始まったことではなく、歴史を遡れば、たとえば1923年の関東大震災の際に、朝鮮人による凶悪犯罪や暴動が発生しているという流言、つまりフェイクニュースを信じた人々が朝鮮人を虐殺するという事件がありました。
海外においても似た事例はいくつもあります。
私がこのたび新潮社から刊行した小説『灼熱』の題材になっている〝ブラジル勝ち負け抗争〟も、その一つ。1945年の第二次世界大戦終結時、ブラジルにいた20万人を超える日本移民の大半が「日本は戦争に勝った!」というフェイクニュースを信じてしまったことで起きた悲劇です。
戦勝を信じた人々と敗戦を受け入れた人々が対立したことで、日本人が日本人を襲撃、暗殺する事件が続発し、20人以上が命を落としました。その裏で詐欺師たちも暗躍しました。
この〝ブラジル勝ち負け抗争〟は、深刻な歴史の一ページであるとともに、分断の時代とも言われる現代において多くの示唆を与えてくれる出来事でもあると思います。
ところが、終戦から75年以上の時間が過ぎ、ブラジルの日系人社会においては、この抗争があったこと自体がタブー化され封印されていた時期があったことも手伝い、多くの人は知らないか、知っていてもうっすら概要だけという人がほとんどなのです。
これを読んでいる方でも、今、初めて知ったという方は少なくないと思います。興味を持って調べようとしても全貌を俯瞰できる資料が手に入りづらい状況にあります。
それを踏まえ、『灼熱』は〝ブラジル勝ち負け抗争〟についての知識が何もなくても、エンターテイメントとして楽しめ、かつ、どのような経緯で当時の日本移民たちが分断したのか、わかるように書いたつもりです。
しかし『灼熱』はあくまでフィクション。登場人物の多くは架空であり、実際に起きた抗争を事細かに描いているわけではありません。
そこで本稿では、小説には収まり切らなかった部分も含め、現実の〝ブラジル勝ち負け抗争〟の経緯を解説したいと思っています。『灼熱』のストーリー上のネタバレになるようなことはないので、読む前の予習として読んでいただいても、読んだ後の参考として読んでいただいても、問題ありません。
是非『灼熱』と合わせて読んでくださればと思います。
第一章 5分でわかる〝ブラジル勝ち負け抗争〟入門
〝ブラジル勝ち負け抗争〟は、当時のブラジル日本移民が置かれた様々な状況が絡みあって起きたもので、原因や経緯の解説は、どうしても長く複雑なものになってしまいます。
そこでまず入門編として、この第一章では固有名詞や細かい説明を極力省き、要点のみ押さえたまとめを書きたいと思います。時間のない方は、この章だけでも読んでいただければ、最低限の経緯は理解できるのではないかと思います。
1950年代初めまで優勢だった「日本は戦争に勝った」派
戦前の日本(大日本帝国)は、国策として海外への移民送出を行っていました。太平洋戦争が開戦したとき、ブラジルにも20万人を超える日本移民(ブラジル生まれの二世も含む)が暮らしていたのです。
戦前のブラジル日本移民の多くは、サンパウロ州の奥地で「殖民地」と呼ばれる日本人だけの集団地を形成して暮らしていました。殖民地では日本語で日常生活が送れるので、日本移民の多くがブラジルの公用語であるポルトガル語をさほど覚えぬまま、ブラジルで生活をしていたのです。
ところが太平洋戦争が始まるとブラジルは連合国陣営に加わり、日本とブラジルの国交は断絶してしまいます。それまで外信経由で入ってきていた祖国の情報も途絶え、総領事や大使といった日本の役人たちも逃げるように帰国してしまいます。20万もの一般の日本移民たちは、ブラジルに置き去りにされてしまったのです。
ポルトガル語がわからない日本移民にとって祖国の戦況を知るほぼ唯一の情報源は、海を越えて日本から届く短波ラジオ。日本放送協会(のちのNHK)の海外放送ラジオ・トウキョウでした。この放送ではいわゆる「大本営発表」が日本語で流れます。
現在ではよく知られているように、大本営発表は太平洋戦争の戦況が反転した1942年後半以降も、日本軍を優勢とする偽りの放送を続けます。多くの日本移民はそれを鵜呑みにしました。疑う材料がなかったこともありますが、戦前の愛国教育の影響も小さくありません。この時期の日本移民は「日本は戦争をすれば必ず勝つ不敗の神国である」というリアリティを強く持っていたのです。
一方で、少数ですが、日本移民の中にもポルトガル語に通じブラジル人と日常的に関わっている人々もいました。大きな産業組合の幹部だった人や、都市部で農業以外の仕事に従事するインテリ層です。彼らはブラジルでの報道に触れたり、ブラジル人との交流の中で、日本が劣勢に立たされているという情報を仕入れていました。戦時中から、日本移民の間で大きな情報格差が存在していたのです。
格差があったのは情報だけではありません。ブラジルで成功した人とそうでなかった人の間には大きな経済格差がありました。出身地や出自を巡る差別もありました。
それに加えて、日本移民はブラジル政府から弾圧を受けていました。もともとブラジル政府は移民に対して厳しい同化政策を取っており、加えて太平洋戦争勃発後は、枢軸国からの移民は「敵性国人」として取り締まりの対象になってしまったのです。都市部では多くの日本移民が資産を凍結され、日本人街には立ち退き命令が出され、家財道具一式を官憲に奪われるというようなことも頻繁に起きるようになります。
日本の勝利を信じる人々の多くは「今は弾圧を受けていても、いずれ戦勝国民として大東亜共栄圏(日本)に凱旋できる」という希望を抱きます。それは信仰に近いものだったのかもしれません。
言葉の壁、戦前の愛国教育、情報格差、経済格差、差別、そしてブラジル当局からの弾圧。終戦の前からこれらが複雑に絡み合い、分断の素地はできあがっていました。実際、戦時中から日本人が日本人を襲撃する事件も発生していました。「薄荷と生糸はアメリカで軍事物資になるので敵性産業だ」との理屈で薄荷畑が荒らされたり、生糸をつくる養蚕小屋が焼き討ちされるという事件が起きていたのです。
このような状況下で、1945年8月15日を迎えます。
日本時間の正午、ブラジルは日付が変わった真夜中でしたが、ラジオ・トウキョウがほぼリアルタイムで玉音放送を流します。その後もラジオ・トウキョウはブラジル時間で15日の午前中に敗戦の報を流しました。
しかしそれまで日本の勝利を信じ切っていた大半の日本移民は、これをそのまま受け止めることは出来ませんでした。文語調でわかりにくく、音もよくなかった玉音放送を「勝利宣言だ!」と真逆に解釈する者が続出したのです。
1945年時点では、日本移民のおよそ9割が日本の敗戦を認識せず、その多くが勝ったと思い込む戦勝派となりました。彼らの間では「日本が新型兵器で米艦隊を殲滅した」「戦勝使節団が迎えに来てくれる」など、様々な虚偽の情報があたかも真実のように飛び交いました。情報の拡散を担ったのは当局の目を盗んで放送される草の根ラジオと手製のビラ、そして口コミです。現代でもYouTube やSNSでフェイクニュースが拡散することが社会問題になっていますが、メディアが変わっただけで、信じたい人が信じたい情報を広めてしまうという構造はまったく同じと言えるでしょう。
一方でポルトガル語を理解し現地の報道に触れていた人々の一部は、日本の敗戦を認識した敗戦派となりました。彼らは事実と正反対の勝利を信じ大騒ぎしている戦勝派を危険視します。そこで敗戦派は戦勝派に敗戦を認識させる運動を開始しますが、これに戦勝派は反発しました。
1945年の後半になると、天皇陛下が直々に発した終戦の詔書をはじめ、日本の敗戦を示す証拠がブラジルにも入って来ます。しかし戦勝派の多くはこれを「敗戦デマだ」「アメリカの陰謀だ」として信じようとしませんでした。
愛国教育により大日本帝国イデオロギーを内面化している日本移民にとって、太平洋戦争は「負けるはずのない正義の聖戦」です。自身のアイデンティティとも強く結びついているので、簡単には敗北を受け入れられず、自分に都合のよい情報だけを信じます。そんな戦勝派の人々は、同じ日本人でありながら祖国の敗北を吹聴する敗戦派は許しがたい国賊であると、敵対心を募らせてゆきます。
一方で敗戦派の中にも、事実だから認めろとばかりに敗戦を強引に押しつけたり、頑なな戦勝派を馬鹿にしたり挑発したりする者がいました。
こうして対立が激化してゆき、過激な戦勝派が敗戦派を襲撃するまでになってしまいました。
終戦の翌年、1946年3月、バストスという土地で最初の殺人事件が起き、これを皮切りにほぼ10ヶ月の間、1947年1月まで、サンパウロ州内の各地で襲撃が起きました。定説としては23人が暗殺により命を落としたとされています。この数字はしっかり検証されているとは言い難いのですが、犠牲者の大半が敗戦派です。ただし戦勝派にも敗戦派の自警団に殺害された人や、騒乱の中で重傷を負った人がいます。
また敗戦派はブラジル官憲の戦勝派の取り締まりに協力しました。このときかなり強引な捜査や拷問も行われており、相当な加害性がありました。敗戦派の活動が火に油を注ぎ対立を激化させたという側面もあるのです。
1947年1月以降、人が殺されるような事件は起きなくなります。度重なる取り締まりの効果もあったのでしょうが、46年の後半から日本との手紙のやりとりや邦字新聞の発行が解禁され、正しい情報が流通する経路が広くなったことは小さくないでしょう。ただし解禁された邦字新聞の中には戦勝派の立場のものもあり、この時点ではまだまだ日本の勝利を信じる人は多くいました。
この点は、情報の新陳代謝が早くフェイクニュースが広まってもすぐ検証され信じ続ける人は少数になる現代とはかなり違います。きわめて長い間、戦勝というフェイクが敗戦という真実を圧倒していました。
襲撃こそなくなったものの、戦勝派と敗戦派の対立は1950年代の半ば頃まで続きます。
こういった混乱の時期、詐欺師が暗躍するのも世の常です。対立を利用した詐欺事件も多く発生しました。騙されたのは主に戦勝派で、「日本が勝ったから円の価値が上がる」とすでに紙クズになっていた旧円を売りつける「円売り詐欺」や、同じように「大東亜共栄圏の土地を売ってやる」と土地を売る詐欺、戦勝国となった日本に凱旋したいという気持ちにつけ込んだ帰国詐欺などが横行しました。お忍びでやってきた皇族に成りすました男女が信奉者に貢がせる「偽宮事件」など奇妙な事件も起こります。
こうしてさまざまな混乱に見舞われたブラジルの日本移民社会ですが、1952年に日本とブラジルの国交が正常化し人と情報の行き来が活発になるとさすがに敗戦の事実は明らかとなり戦勝派も少数派となります。
そして1954年の「サンパウロ市創立400年祭」を機に日本移民は初の統一組織となる財団法人を設立し、団結へと踏み出します。このとき、日本移民とその子孫を含めた在伯邦人の社会を「コロニア」と称することになりました。
そしてコロニアの人々は団結を疎外しかねない抗争のことをタブー化します。邦字新聞も、抗争にまつわる記事を載せなくなりました。記憶の封印が行われたのです。そのうちに世代交代が進み、抗争を知らない戦後の日本移民も多くブラジルにやってきて、抗争の記憶はコロニアでも薄らいでいったのです。
以上が私なりに「入門」としてまとめた〝ブラジル勝ち負け抗争〟の経緯です。
なお、ここでは省きましたが、既存の資料の多くには「『臣道聯盟』という愛国団体が組織的に殺人テロを起こした」という趣旨のことが書かれ定説化しています。
『臣道聯盟』は戦勝派の最大団体でテロとも無関係ではないのですが、近年、抗争の当事者の証言が掘り起こされたことによって、この定説の一部に疑いの余地が生まれています。
次章からはより詳しく抗争の経緯を解説しつつ、定説のどこに疑いがあるのかも述べてみたいと思います。
また、この〝ブラジル勝ち負け抗争〟は後半になると、珍事件と言っていいような出来事が頻発するようになり、最後の最後には、ほんのちょっとですが宇宙人の話になります。マジです。
かなり長くなりますが、エキサイティングかつ興味深い内容と思いますので、よかったらこの先もお付き合いください。
(第2回はこちら)
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葉真中顕
はまなか・あき 1976年東京都生まれ。2013年『ロスト・ケア』で日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞し、作家デビュー。2019年『凍てつく太陽』で大藪春彦賞および日本推理作家協会賞を受賞、2022年、『灼熱』で渡辺淳一文学賞を受賞。他の著書に『絶叫』『コクーン』『Blue』『そして、海の泡になる』『ロング・アフタヌーン』などがある。
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はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
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手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 葉真中顕
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はまなか・あき 1976年東京都生まれ。2013年『ロスト・ケア』で日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞し、作家デビュー。2019年『凍てつく太陽』で大藪春彦賞および日本推理作家協会賞を受賞、2022年、『灼熱』で渡辺淳一文学賞を受賞。他の著書に『絶叫』『コクーン』『Blue』『そして、海の泡になる』『ロング・アフタヌーン』などがある。
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