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封印された分断 ブラジル勝ち負け抗争――小説『灼熱』刊行記念

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第十三章 サンパウロ事件と『臣道聯盟』

 〝ブラジル勝ち負け抗争〟における襲撃事件は、1946年3月から1947年1月にかけておよそ10ヶ月にわたり続きました。移民史では23人が命を落としたとされていますが、この数字は厳密ではありません。地方で起きた襲撃事件の中には、戦勝派と敗戦派の対立と関係あるのか怪しい事件もありますし、第十一章で触れたオズワルド・クルースの騒乱で出た死者は間接的な犠牲者ということでカウントされていません。

 また、いくつかの書物にはこれら襲撃事件のほとんどが『臣道聯盟』の組織的犯行だったように読めることが書いてあるのですが、すでに述べたように『臣道聯盟』は襲撃がピークを迎える前、1946年4月の時点で幹部が軒並み逮捕され活動停止に追い込まれていました。大半の事件はその土地の事情や「空気」を背景に単発で起きたと考えられます。

 一連の襲撃事件のうち『臣道聯盟』が直接関与したとされるのは、第十章と第十一章で簡単に触れた、1946年4月1日、元外交官の古谷重綱と元邦字新聞の編集長の野村忠三郎が襲撃され野村が殺害された事件と、6月2日、その実行犯の残党が元陸軍大佐の脇山甚作を殺害した事件のみです。

 最新の移民史である『ブラジル日本移民百年史』でも、『臣道聯盟』は他の事件には直接関わっていないという趣旨のことが書かれています。

 ただしこの4月1日と6月2日の事件は、最も重大な襲撃事件と言えるものです。命を落とした野村と脇山は、邦人社会で名の知れた大物で、その影響力という点では、他の事件の被害者とは一線を画します。未遂に終わったものの犯人グループは、敗戦派のリーダーと言える存在の宮腰千葉太のことも狙っていました。サンパウロ市で起きた事件なので本稿ではまとめて「サンパウロ事件」と表記しますが、このサンパウロ事件だけは『臣道聯盟』が組織的に行ったというのが定説となっています。

 しかし近年、当事者の証言が掘り起こされ、ここに疑義が生じています。以下、かなりマニアックになりますが、どういうことか解説します。

 まず事件のあらましから。

 サンパウロ事件の犯行グループは、過激な戦勝派が多くいたパウリスタ延長線沿線のキンターナ、ポンペイア、ツッパン、という三つの町でリクルートされました。声をかけたのは、キンターナの戦勝派の顔役だった新屋敷(すなお)という男です。このうちツッパンは第九章で触れた『日の丸事件』が起きた土地です。実行犯にはあの事件で警察に抗議し逮捕された青年も加わっています。

 この新屋敷が「隊長」として10人をまとめました。彼らは地元の協力者の支援を受けて準備を進めます。パウリスタ延長線沿線には、襲撃を支援する戦勝派の家がいくつもありました。準備段階での情報伝達や、襲撃に使う拳銃の運搬などは警察に怪しまれないように、協力者の家の15歳と12歳の姉妹が担ったといいます。

 やがて新屋敷と10人はサンパウロに向かいます。

 サンパウロにも協力者がいて、彼らを迎え10名が潜伏するアジトを提供しました。このサンパウロの協力者の中心人物が、洗濯屋を営む小笠原亀五郎という男です。彼は資金を提供し襲撃計画の策定にも関わり、犯行グループの参謀的な役割を担いました。

 やがて決行の時を迎えます。

 実行犯らは制服のごとく揃いの雨合羽を支給され、4月1日の決行時(未遂に終わった3月30日の宮腰千葉太襲撃時も)これを着ていました。なお隊長の新屋敷直は決行直前まで実行犯らと行動を共にしながら、直前で姿を消してしまいました。

 それでも実行犯10人は予定どおり二手に分かれて古谷重綱と野村忠三郎を襲撃します。このとき10人中5人が逮捕され、5人が逃亡しました。

 この事件を受けてDOPSの一斉検挙が行われ、関与を疑われた『臣道聯盟』は家宅捜索を受けて幹部は軒並み逮捕されました。

 逃亡した5人はサンパウロ市近郊に身を隠しますが、その手引きをしたのはこの時点ではまだ逮捕されていなかった小笠原を中心にしたサンパウロの協力者たちです。

 この5人のうち4人が6月2日、脇山甚作を襲撃し殺害したあと自首します。その後、小笠原亀五郎をはじめとする協力者たちも逮捕されます。6月2日の事件に参加せず逃亡を続けた最後の実行犯も10月に逮捕。同じ頃、新屋敷直も逮捕され、実行犯と協力者はほぼ全員が逮捕されました。

 この襲撃をオーガナイズしたのは、実行犯10人をリクルートし「隊長」としてふるまった新屋敷直と、サンパウロで参謀役となりアジトの提供や逃亡の手引きをした小笠原亀五郎と思われます。が、この二人は『臣道聯盟』の正式な会員ではありませんでした。また『臣道聯盟』理事長の吉川順治や、ナンバーツーの専務理事だった根来良太郎は、事件のことをまったく知りませんでした。

 なのになぜ定説では『臣道聯盟』の犯行ということになっているのかといえば、小笠原亀五郎と新屋敷直の二人は、実は『臣道聯盟』の幹部、渡真利成一の命令で動いており、集められた10人は事実上、渡真利配下の「挺身隊」だったとされているからです。

 渡真利本人はこれを否定しましたがDOPSの捜査によって渡真利(あるいは『臣道聯盟』)の関与を匂わす証拠が出てきます。

 渡真利は手帳に敗戦派の要人の名前を並べたリストをつくっていました。襲撃の標的となった4人は全員このリストに名前があり、これは暗殺リストとされました。また『臣道聯盟』は事件の前年合羽を買っているのですが、これは犯行グループが着ていたものと同じでした。

 さらに、サンパウロでアジトを提供するなどした協力者の中には『臣道聯盟』の会員がいました。そのうちの一人、駒場孝太郞という男が、「小笠原は『臣道聯盟』の陰のメンバーだった」という証言をしました。『臣道聯盟』を渡真利とともに仕切っていた根来良太郎も「自分や吉川は知らなかったが、渡真利がやった」という趣旨の証言をしました。

 加えて、逮捕された実行犯たちも、最初は『臣道聯盟』とは無関係だと主張していたのが、取り調べが進むうちに「実は自分は臣道聯盟の青年隊(=挺身隊)に属しているが、そのことは命に替えても隠し通せと命令されていた」という趣旨の証言をするようになりました。

 こういった証拠と証言から、「渡真利が独断で、新屋敷と小笠原に命じ、暗殺部隊を組織して犯行に及ばせた」というのが定説となりました。

 ところが、2000年代に入って行われた証言の掘り起こしでは、存命中の実行犯が「そんな証言はしていない」「渡真利も『臣道聯盟』も無関係だった」と、これまでの前提を覆す証言をしました。DOPSの取り調べでは取調官のポルトガル語がよくわからず、言われるまま判を押したというのです。

 実行犯の地元の協力者だった人々からも「あの事件には『臣道聯盟』も渡真利成一も関係なかった」という証言が出てきました。『臣道聯盟』は当時最大の戦勝派団体だったので、実行犯や協力者の中には会員もいたが、襲撃自体を『臣道聯盟』が主導したわけではない。犯行グループは、パウリスタ延長線沿線の戦勝派の間で気運が盛り上がり、『臣道聯盟』とは関係なく組織されたとのことです。

 これらの証言を掘り起こしたジャーナリストは、そもそもDOPS(とDOPSに協力する敗戦派)は『臣道聯盟』を壊滅させる大義名分が欲しかった。だから事件をきっかけに幹部の検挙を行い、それを正当化するため証言の誘導や捏造を行った可能性が高いとしています。

 この仮説には一定の説得力があります。DOPSには治安上の不安要素である『臣道聯盟』を潰す動機が十分あります。

 また第十一章で強調したようにDOPSは独裁国家の公安組織です。日常的に拷問を行っていましたし、サンパウロ事件当時、捜査の中心にいた捜査官は、のちに捜査の名目で日本移民を暴行し金品を奪ったことがばれてDOPSから追われています。全員がそうかはわかりませんが、かなりタチの悪い捜査官が中心にいたのは事実のようです。日本の特高警察の調書が信用できないのと同じように、DOPSの調書も全面的には信用できないのではないでしょうか。

 疑いを持って証言をみると、駒場孝太郞の「小笠原は陰のメンバーだった」とする証言などは、強引に『臣道聯盟』と結びつけているようにも思えます。

 小笠原と並んでサンパウロ事件の重要人物である新屋敷直にいたっては、逮捕されたという記録があるのみで証言は残っていないようです。

 新屋敷と小笠原が、渡真利成一とつながっていたということが、サンパウロ事件を『臣道聯盟』の犯行だとする最大の根拠なのですが…この部分はほとんど立証されていません。

 また証拠とされている暗殺リストについて、渡真利自身は警戒すべき敗戦派のリストだったと釈明しており、『臣道聯盟』が購入したという合羽も、サンパウロ市内にかなり多く出回っていたものでした。どちらも疑わしくはあるものの決定的な証拠とまでは言えません。

 実際、ブラジルの司法は、最終的には渡真利を(延いては『臣道聯盟』を)、サンパウロ事件の首謀者としては裁いていません。

 事件後の一斉検挙では渡真利も逮捕されアンシェッタ島へ島流しにされましたが、これは法的に曖昧な未決勾留です。その後実行犯のみが再逮捕され懲役刑などの刑に服しましたが、渡真利も、吉川ら他の『臣道聯盟』の幹部たちも放免されています。

 こういった経緯からもDOPSは『臣道聯盟』を解散に追い込めたことでよしとし、事件との関わりをはっきりさせる捜査をしなかったことが窺えます。

 ただし、かといって定説を完全に否定できるわけでもありません。証言が掘り起こされた時点で、もう60年以上の時間が経過していました。人間の記憶が時間とともに書き換わることがあるのはよく知られています。当事者の最新の証言だから100%信頼できるというものではないはずです。何も語らず没した当事者も大勢います。

 定説を支持する立場からは、これら掘り起こされた証言がすべて正しかったとしても、渡真利は自分の存在を隠し暗躍していたので矛盾しない。実行犯や協力者にも渡真利や『臣道聯盟』が糸を引いていたことを知らなかった者が多くいたといった趣旨の指摘がされています。

 『臣道聯盟』の成立の経緯や、その前の『興道社』での敵性産業撲滅運動の展開をみるかぎり、渡真利成一というのは何かと暗躍し、こういったことを「やりそう」な人物ではあります。だからこそ、当時から疑われたのでしょう。

 私自身は定説は疑わしく、サンパウロ事件と渡真利は無関係だった可能性が高いと思っています。ただあくまで可能性であって、定説を完全に否定できる根拠があるわけではありません。また私は定説を否定する当事者やジャーナリストから直接話を聞いているので、その点でバイアスがかかっているかもしれません。

 結論としては「わからない」とするしかないのではないかと考えています。

 その一方で仮に直接関与していなかったとしても、渡真利や『臣道聯盟』が、襲撃と完全に無関係の安全な存在とは考えられません。実行犯や協力者の中には会員がいたのは事実ですし、『臣道聯盟』が戦勝デマの拡散に加担し、戦勝派を扇動し、襲撃を容認するような「空気」を醸成したことは間違いないのだろうと思います。

 言わば、犬笛を吹いていました。その点で重い責任があると言えるでしょう。が、『臣道聯盟』はその活動を総括することもなく、分裂し、消滅してしまったのは第十二章で述べたとおりです。

第十四章 奇妙な論理

 1947年1月を最後に襲撃事件は起きなくなったものの、その後も戦勝派と敗戦派の対立自体は長く続きました。

 第十二章で最後の襲撃が起きる直前、1946年12月に邦字新聞が解禁され、戦勝派と敗戦派、それぞれの立場の新聞が発行されるようになったと述べましたが、どっちつかずの主張をし、立場を明確にしない新聞もありました。

 1947年5月、そんな中間派の新聞「サンパウロ新聞」の社長、水本(みつ)()が、日本の旧円を法外な価格で日本移民の男に売ったとして逮捕されました。これは「円売り」と呼ばれる詐欺です。敗戦ですでに紙切れになった日本の旧円を「日本が勝ったから値上がりする」あるいは「帰国したとき必要になる」として売りつける手法です。

 襲撃が起きなくなったあとも対立を利用する詐欺師は跋扈し続けました。円売り詐欺の他にも、「大東亜共栄圏の土地を売ってやる」とありもしない南方の土地の権利を売る「土地売り」、「日本から迎えの船が来る」として偽の乗船券を売る「帰国詐欺」などが横行しました。

 これらは基本的に日本が勝ったと思いたい気持ちにつけ込む手口ですから、騙されるのは戦勝派です。騙す側は日本の敗戦を知ってやっていますから広い意味では敗戦派と言えるでしょう。

 円売りを行った水本光任も、発行している新聞は中間派ですが、これは部数を伸ばすための戦略で、はっきりと敗戦を認識していました。

 なお、この水本光任という人はなかなかの人物(怪人物?)で、「骨董品を売っただけ」と釈明し釈放され、その後、サンパウロ新聞を海外最大の邦字新聞にまで育て上げます。円売りの悪名も吹き飛ばす功績で戦後邦人社会の名士となり、1977年には日本で菊池寛賞を、1991年にはブラジルのリオ・ブランコ国家勲章を与えられました。

 余談ですが、水本は日伯国交正常化直前の1951年、日本から柔道家の木村政彦をブラジルに招くことに成功しています。増田俊也さんの著作『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』ではこのときの水本の奮迅ぶりと、実際にブラジルにやってきた木村が戦勝派に「日本が勝ったんだろ!」と詰め寄られ困惑する様子が描かれています。大変面白い本なので興味のある方は是非ご一読を。

 さて、これらの詐欺が戦勝派を騙すものである以上、敗戦の認識が広まるにつれて鳴りを潜めてゆきます。大きな転機となったのは1952年の日伯国交正常化です。人と情報の行き来が頻繁になったことで、戦勝を信じ続けることが難しくなっていったのです。

 こうして戦勝派が少数派になった頃「偽宮事件」と呼ばれるとんでもない詐欺事件が起きました。

 日伯国交正常化後の1952年の11月頃、〝サンパウロ市の南にあるシッポーという土地に、密かに来伯した皇族の朝香宮殿下と妃殿下が農園を開き入植者を募っている〟という報が流れます。

 朝香宮はこの農園で入植した者たちの日本精神を涵養したのち日本に連れて帰る。入植の資格は日本勝利の信念を持つこと。希望者は土地や手持ちの財産をすべて処分し、入植せよ──と、概ねこのような募集があったのです。

 もちろん、詐欺です。朝香宮は実在した皇族なのですが、1947年に皇籍離脱してますし、ブラジルに来てなどいません。この偽朝香宮の正体は加藤拓治という詐欺師とその妻のキヨでした。

 加藤は、国交正常化前に実施されていた「母国訪問団」にもぐり込み、二度ほど日本へ行っていました。そしてその目で敗戦を確かめると、ヤミ市で二束三文で売られていた旧大日本帝国の勲章やら賞状やらを買いあさりました。最初はそれらをありがたがる戦勝派に売りつけていたのですが、二度目の訪日時に、日本で知り合ったキヨをブラジルに連れ帰り、夫婦揃って朝香宮に成りすますようになったのです。

 加藤は入植者たちに金品を貢がせ、農園でただ働きをさせ、家族や知り合いの娘を愛人として献上させるなどしていました。入植者の財産、労働力、人間関係、すべてを搾取し、自身は贅沢三昧の暮らしをしていたのです。

 おそらく、戦勝派が減ってゆくにつれて不特定多数を騙す詐欺の旨味が減ったことで、こうした少数の熱烈な信奉者から大きく騙し取る方法が生まれたのでしょう。それにしても強烈です。

 しかしこんなことがいつまでも続けられるはずもなく、入植者も疑いを持つようになります。加藤はそうした者を、自身を強く信じる入植者と共にリンチしました。するとリンチされた者が逃亡、日本総領事館に駆け込んだことで、偽皇族の存在が明るみに出ました。1953年8月のことです。

 1954年1月4日には、DOPSが農園を家宅捜索し、加藤とキヨ、リンチに加わった入植者は逮捕されました。このときの逮捕された者の中には「加藤を朝香宮と信じている」「加藤が死ねと言えば喜んで死ぬ」と証言した者もいます。最後まで戦勝派でい続けた者たちの思い込みの強さが窺えます。

 さて、この偽宮事件、実は朝香宮に成りすました加藤とキヨの他、もう一人、首謀者がいました。その人物は、加藤の参謀役としてあの手この手で農園への入植者を募り、また入植者に対しては朝香宮の側近のように振る舞い、加藤とは別に金品を巻き上げるなどしていました。入植者たちはこの第三の首謀者を「川崎先生」と呼んでいました。川崎…そう、『臣道聯盟』をさんざん引っかき回したあの川崎三造だったのです。この男、なんと偽宮事件にも関わっていました。

 川崎もこのとき加藤とともに逮捕されたのですが、どういうわけか二人揃ってすぐに釈放されてしまいます。偽宮事件の経緯を見ると、そもそも初手からして加藤のような詐欺師がどうして「母国訪問団」に潜り込めたのかも疑問が残るところです。

 実は加藤は前述の円売りで逮捕されたのちに名士に成り上がった水本光任と懇意にしていたことがわかっています。水本が直接関わったかはわかりませんが、こう、何というか、公的な移民史には記録されない人脈の中に加藤や川崎を支えるものがあったのかもしれません。

 さてこの偽宮事件が起きた時期は、現実との乖離が大きくなっていくためか、戦勝派の主張も奇妙なものになってゆきます。代表的なものを二つ紹介しましょう。

 一つは谷田才次郎の「新日本説」です。

 この谷田というのはサンパウロ州に隣接するパラナ州の北部に移民した人物で「北パラナの親分」と呼ばれた過激な戦勝派でした。『臣道聯盟』の会員で渡真利成一とも懇意にしており、危険人物としてアンシェッタ島の島流しにもされました。なお、渡真利の日記によれば南郷大尉を名乗る川崎三造を渡真利に紹介したのがこの谷田でした。

 さて谷田才次郎は、日伯国交正常化により次々と日本人が来伯したり、日本へ帰国する者が増えるようになると、概ね以下のような主張を展開しました。

 戦争に勝った日本は共産主義者25万人をブラジルのアマゾナス州に追放した。この追放者たちはアマゾンに「新日本」を建設した。昨今、来伯してくる日本人はみなそこからやってきた元共産主義者で、言わば偽物の日本人だ。彼らが「日本が戦争に負けた」と言うのはデマである。彼らに騙され日本へ帰国しようとするとアマゾンの新日本に送られてしまう。

 かなり奇妙な話ですが、この時期まで戦勝を信じ続けた人にはそれなりに信じられたようです。

 もう一つは「桜組挺身隊事件」です。

 1953年3月パラナ州のロンドリーナという土地で「桜組挺身隊」なる団体が立ち上がりました。この団体の中心人物は、吉谷(よしがい)光夫と天野恒男という戦勝派の男たちで、彼らは「国連義勇軍として朝鮮戦争に参加する」との名目で隊員を募りました。

 1950年から始まった朝鮮戦争は、戦勝派からしてみれば、大東亜共栄圏内で起きている戦争です。日本人としてはこれに駆けつけねばならぬという理屈です。ただし彼らの本当の目的は日本へ無料で帰国することでした。吉谷らは「義勇軍ならば無料で朝鮮まで行けるので、そこから目と鼻の先の日本に簡単に帰れる」などと謳っていました。

 老若男女数百人が隊員となったのですが、当然、義勇軍になどなれません。そうこうするうちに同年7月、朝鮮戦争は休戦してしまいます。するとその後、桜組挺身隊は、さらにアクロバティックな理屈を展開するようになります。

 拠点をサンパウロ近郊の養鶏場に移し、そこで集団生活をしながら、自分たちは共産党員であり「共産義勇軍」として台湾を解放するなどと主張。サンパウロ市の市長に嘆願書を出しました。それが危険視され、幹部たちはDOPSに逮捕されます。

 しかしこれは計画通り(?)だったようです。この時期ブラジル政府は共産党を非合法化していたのですが、共産党を名乗ることで「好ましからぬ人物」として国外追放処分を受けて日本に無料で帰国できると、まあ、こういう何とも荒唐無稽なことを考えていたようです。リーダー格の吉谷光夫は周りから「先生様」と呼ばれる一種のカリスマであり、隊員たちは彼の話を真に受けていました。

 事態を重く見た在サンパウロ日本総領事館は収監中の彼らを説得しますが話にならなかったようです。

 幹部が釈放された後も彼らはサンパウロの中心街でデモや座り込み、ハンストなどを行い、帰国させろと訴えますが、だんだんと活動資金も尽きてきた1955年4月、サンパウロ州当局により強制的に解散させられました。

 この「桜組挺身隊事件」は、戦勝派が起こした最後の大騒動となりました。

第十五章 団結と封印

 前章で紹介した事件は、終戦後長らく続いた対立の最後の花火のようなもので、耳目を引くものではあったものの〝ブラジル勝ち負け抗争〟はちょうどこの頃、1950年代半ばには概ね終息に向かいました。

 その大きな区切りとなったのは、1954年に行われたサンパウロ市創立400年祭です。この頃になると一般の日本移民の多くは敗戦を受け入れていました。そこで、邦人社会の人々は抗争を乗り越え同胞を団結させるため、日本移民全体としてこの400年祭に参加することにしました。

 そのための組織として「聖市400年祭典日本人協力会」という財団法人が発足します。これは、戦前にもなかった、日本移民として初めての統一組織となりました。その会長を務めたのは、三菱財閥がブラジルに開設した東山農場の支配人だった山本喜誉司です。

 これに先立つ1950年、戦中から続いていた日本移民の資産凍結が解除されたのですが、山本はそのためのブラジル政界への働きかけなどを行っていた人物でした。彼を中心に日本移民はまとまり、400年祭への参加を成功させ、同胞融和の道を歩み始めます。

 このとき、本稿で主に用いている「邦人社会」の他にも「日本人社会」「同胞社会」「コロニア」など様々な呼び方があった、ブラジルに暮らす日本移民とその子息のコミュニティの総称を「コロニア」で統一することになりました。この言葉には、戦後、統合されたコミュニティを称する特別な意味が込められています。

 またちょうどこれと前後してブラジルへの戦後移民が始まり、多くの日本移民の意識は戦前の「出稼ぎ」中心から「定住」中心へと変化します。ブラジルで子孫を残しブラジル人として生きてゆくことを決意する人々も増えてゆきます。こうして日本にルーツを持つブラジル在住の人々を指す「日系人」の概念も生まれました。

 こうしてまとまった「コロニア」の人々がやったのは、抗争の記憶を封印することでした。

 ここまで述べてきたように『臣道聯盟』は結局、活動の総括をしませんでしたし、川崎三造や加藤拓治のような詐欺師は自分のやったことの責任を取っていません。地方で起きた襲撃事件に至っては、犯人がわかっていないものもかなりあります。実行犯が逮捕され裁かれた事件でも、被害者の遺族には納得していないという人もいました。

 しかし、こうした一つ一つを蒸し返すことはせっかく融和したコロニアの発展を妨げることになるとして、抗争について語ることをタブー化したのです。

 特に法的な縛りを設けたわけではありませんが、公の場で抗争のことが話されることはなくなり、邦字新聞でも抗争についての記事は書かれなくなりました。やがて、抗争のことを知らない戦後移民や三世以降の世代が増えてゆき、コロニアの中でさえ抗争があったことを知る人は少数となったのです。

 コミュニティを団結させるという点ではこの封印は大成功したといえるでしょう。戦後のコロニアは大いに発展し、一般のブラジル人が日本人や日系人に抱くイメージも実に良好になりました。

 しかし、それは被害も加害もうやむやなまま、水に流したということでもあります。襲撃や詐欺の被害を受けた人の中には無念の涙を飲んだ人も大勢いたはずです。水面下では抗争の余波が残り、町によっては元戦勝派の住民と元敗戦派の住民の折り合いが悪く、日本人会が二つに分裂したというケースもありました。また多くの出来事で当事者が沈黙を守り続けたので、真相がわからないままになってしまったことが実にたくさんあります。

 2000年代になってようやく、サンパウロ事件を始めとする襲撃事件の当事者の証言の掘り起こしが行われましたが、その時点ですでに多くの当事者が鬼籍に入っていました。

 本稿で「おそらく」だとか「思われます」といった推定形の表現が多いのは、断定できないことがきわめて多いからです。最も重大な襲撃事件であるサンパウロ事件でさえです。

〝ブラジル勝ち負け抗争〟の封印は、水に流すことの功罪について多くの事を考えさせられるものと言えるでしょう。

 こうして抗争の記憶が封印されてゆく中で、ごく少数ですが、戦勝派の立場を変えない人や、考え方をより先鋭化させてゆく人もいました。渡真利成一はその一人です。

 かつて『臣道聯盟』を牛耳り、定説ではサンパウロ事件の首謀者ともされている男は、最晩年(私の手持ちの資料でははっきり年を特定できないのですがおそらく1980年前後)、宇宙人とのコンタクトを目指す団体『星の人と語る会』の理事になり、宇宙人が自分を迎えに来ると主張するようになりました。

『臣道聯盟』時代には川崎三造のオカルトじみた与太話を真に受けた渡真利が、最後は宇宙人にのめり込んだというと、笑い話にも思えます。しかし彼の態度は一貫しているとも考えられます。渡真利成一は、いつか戦勝国となった日本から迎えが来るとずっと信じていたのですから。このブラジルから自分の帰るべき「約束の地」へ連れて行ってくれる存在が宇宙人だとしても、本質的には変わらないのかもしれません。

 彼の考えは極端だとしても、その想いは、多くの日本移民が抱いた望郷と通底するのだと思います。


 さて、大変長くなってしまいましたが、最後に〝ブラジル勝ち負け抗争〟について、自分で調べたいと思った人のために、主要参考文献を紹介し、筆を置きたいと思います。

 本稿では省略したエピソードもありますし、細かい事実関係を知りたいという方は是非これらの資料を当たってみてください。

(1)『「日本は降伏していない」―ブラジル日系人社会を揺るがせた十年抗争』 太田恒夫著(文藝春秋)

 抗争の経緯がまとまっています。もし一冊だけ読むならこれをオススメします。ただし『臣道聯盟』に関する記述は、のちに証言が掘り起こされたことで否定されたり、疑義が呈されている部分があります。

(2)『ブラジル日系社会 百年の水流(改訂版)』 外山脩著(続木善夫/トッパン・プレス印刷出版)

 抗争当事者の証言を掘り起こしたジャーナリストの著作です。他の資料には載っていないような貴重な情報が多く書かれている労作です。ただし定説を真っ向から否定する立場で書かれているため、著者の主張は強めです。またかなりの希少本で、入手は困難です。国会図書館にはあります。

(3)『「勝ち組」異聞─ブラジル日系移民の戦後70年』 深沢正雪著、ニッケイ新聞社(無明舎出版)

 長く封殺されていた戦勝派の言い分に焦点を当てた本です。若干ですが(2)と内容が重なる部分もあります。『臣道聯盟』理事長の吉川順治についての記述が充実しています。

(4)『ブラジル勝ち組テロ事件の真相』 醍醐麻沙夫著(サンパウロ新聞社)

 証言の掘り起こしを踏まえた上でも従来の定説を支持する立場から書かれたものです。著者は作家でもあり、まさに作家的な想像力を駆使して渡真利成一がある小説の影響でテロの首謀者となったという主張をしています。真偽の判断は難しいのですが、大変興味深い内容です。

ブラジル移民文庫で公開されています。

(5)『ブラジル日本移民八十年史』 日本移民80年史編纂委員会編(移民80年祭祭典委員会)

 少し前の移民史ですが、〝勝ち負け抗争〟の定説がまとまっています。また、DOPSが戦勝派を取り調べた際の調書が一部抜粋されていたり、抗争の被害者の一覧があったりと、資料価値が高い本です。

これもブラジル移民文庫で公開されています。

(6)『ブラジル日本移民百年史』 ブラジル日本移民百周年記念協会、ブラジル日本移民百年史編纂・刊行委員会編

 現時点で最新の移民史で4分冊・全5巻で刊行されています。〝勝ち負け抗争〟については、一番最後の第五巻に記述があり、これが、最新の定説ということになります。また、通読すれば戦前戦後のブラジル日本移民の歴史がひととおりわかりますが、かなり分厚く大変です。価格も高いので本格的に研究する人以外は図書館などでどうぞ。

(7)『狂信―ブラジル日本移民の騒乱』 高木俊朗著(ファラオ企画)

 おそらく日本で〝勝ち負け抗争〟についてまとめて書かれた最初の本です。内容は1952年、国交正常化後に映画制作のためにブラジルを訪れた著者が経験した、〝勝ち負け抗争〟の余波を描いたルポルタージュです。著者が、かつて襲撃事件を起こした戦勝派の青年の決闘騒ぎに巻き込まれるなど、当時のリアルが感じられ興味深い内容です。

(了)

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

葉真中顕

はまなか・あき 1976年東京都生まれ。2013年『ロスト・ケア』で日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞し、作家デビュー。2019年『凍てつく太陽』で大藪春彦賞および日本推理作家協会賞を受賞、2022年、『灼熱』で渡辺淳一文学賞を受賞。他の著書に『絶叫』『コクーン』『Blue』『そして、海の泡になる』『ロング・アフタヌーン』などがある。


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