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封印された分断 ブラジル勝ち負け抗争――小説『灼熱』刊行記念

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第八章 終戦と戦勝デマ

 前出の『吉川精神』に書かれていた「大東亜への帰還」は、多くの日本移民にとっての悲願ですから、共感する人も多く、『臣道聯盟』は順調に会員数を伸ばし勢力を拡大してゆきます。

 この時期、日本人の結社は、取り締まりの対象だったのですが、『臣道聯盟』は日本人の代表としてブラジル当局からも認められる公認団体となることを目指しました。

 ところが、結成の翌月、日本は敗戦してしまいます。

 日本では1945年8月15日正午に流れた玉音放送は、ブラジルでもほぼ同じ時間、時差のためちょうど日付が変わる真夜中に、ラジオ・トウキョウで放送されました。その後も、ブラジル時間で15日の午前7時から何度か、日本の敗戦を伝える放送がありました。

 しかし文語調でわかりにくく音もあまりよくなかったこの放送について、「あれは日本の勝利を伝えるものだった」という戦勝デマが流れ始めます。当日、15日のうちから日本勝利のフェイクニュースを放送する草の根ラジオも登場しています。

 すでに述べてきたとおり、日本移民の多くはブラジルの報道に触れず大本営発表を信じていました。日本は不敗の神国であるという愛国教育による刷り込みもあります。その上、ブラジル政府からは弾圧をされていました。日本が負けて敗戦国民となったらどんな目に遭うのかという恐怖もあったことでしょう。

 1945年の時点では半信半疑に近い立場の者も含めて日本移民の9割ほどが、戦勝デマを信じる戦勝派だったと言われています。『臣道聯盟』を初めとする愛国団体は当然のごとくこの戦勝派の立場を取りました。

 他方、敗戦を認識した敗戦派の人々は1割程度しかおらず圧倒的少数派となってしまいます。

 なお、現在は戦勝派を「勝ち組」、敗戦派を「負け組」と表記することが多いのですが、この言葉は当時は使われていませんでした。のちにこのブラジルでの混乱が日本で報道されたときに、日本のマスコミによって使われたことで、ブラジルにも逆輸入されたと考えられます。意味的な違いはありませんが、本稿では「戦勝派」「敗戦派」を使います。

 閑話休題。終戦直後から敗戦派になったのは、ポルトガル語がわかる都市部のインテリ層や、ブラジル人と日常的に接していた人々です。たとえば、第五章で紹介した『海興』の支社長だった宮腰千葉太をはじめ乗れる交換船に乗らず国交断絶後のブラジルに残った3人の元外交官たちや、日本人権益部が置かれたスウェーデン総領事館に勤務していた者、戦前に商売で成功を収めた者、戦時中ブラジル人を幹部に迎えて存続した産業組合に従事する者たち、などです。こういった人々は、戦前の邦人社会の指導者層、エスタブリッシュメントと言ってよいでしょう。

 ブラジルの報道に触れていた彼らは、日本が劣勢に立たされていたことも広島・長崎への原爆投下も把握していました。

 ブラジルの新聞は、まだ日本が正式にポツダム宣言を受諾する前、8月10日の夕刊の時点で「無条件降伏の意志あり」との速報を打っており、それを知っている者からすれば玉音放送は日本の敗戦を決定的に裏付けるものでした。

 しかしポルトガル語の情報から遮断され(あるいは自ら遮断し)大日本帝国イデオロギーを強く内面化していた日本移民にしてみれば、指導者層であるはずの者たちが早々に敗戦を認めたことは裏切りにも思えました。おそらくは従来からあったエスタブリッシュメントへの反感も手伝い、過激な戦勝派は敗戦派への非難を強めてゆきます。

 やがて戦勝派が信じたデマには様々な尾ひれがついてゆきました。

・皇軍の攻撃で米第一、二、三艦隊800隻を撃沈、残りは降服

・満洲に侵攻してきたソ連軍を返り討ちにした関東軍はわずか8時間でウラジオストックを陥落

・皇軍は新兵器「高周波爆弾」を使用

 などなど。

 これらは一例ですが、ソ連の満洲侵攻自体は実際にあったことですし、「高周波爆弾」というのもアメリカの新型爆弾・原子爆弾よりもすごい新兵器が日本にあったという発想から生まれたデマでしょう。敗戦派から漏れ聞こえてくる敗戦の情報を打ち消すかのように、デマが生まれていることが見てとれます。

 『臣道聯盟』は会報にこれら戦勝デマを載せそれを売り、資金と会員を集めました。『臣道聯盟』の幹部だった三原清二郎という男は、雑音ばかりで何も聞き取れないラジオを聞き、日本勝利のニュース記事を書き、周囲には「信念を持って聞けば聞こえる」と吹聴していたという逸話が残っています。

 三原が意図的にデマをつくっていたのか、本当に「聞こえて」しまっていたのかはともかく、こうしたデマの発信・拡散は『臣道聯盟』だけがやっていたことではありません。『臣道聯盟』と関係のない戦勝派の人々の間でも様々なデマが自然発生的に生まれ広まるような状況でした。

 この頃、ブラジルの新聞はアメリカの戦後処理の様子を写真入りで伝えていたのですが、戦勝派はこれらの写真に事実と逆の説明書きを入れてばらまきました。

 下の写真は実際に出回ったものですが「負けたアメリカの将軍が、勝った日本の使節を案内している」「握手を求められ、敗軍の将はためらっている」などと誤解されるような説明をしています。

ブラジル日本移民史料館資料/宮尾進『臣道聯盟』より

 ミズーリ号甲板上で行われた日本の降伏文書調印式の写真などは、艦が掲げる星条旗を旭日旗にコラージュするという手の込んだ偽造がなされたようです。

 また戦前から殖民地での人気の娯楽として「シネマ屋」と呼ばれる映画の巡回上映があったのですが、戦勝派のシネマ屋は日本の敗戦を伝えるニュース映画のフィルムを入手し、活動弁士が日本が勝ったという解説をつけて上映するなどしていました。

 様々な形でデマ、今の言葉で言うならフェイクニュースが拡散しました。中でも影響が大きかったのが終戦の翌月、9月に流れた「大日本帝国の戦勝使節団が、サンパウロの外港サントスにやってくる」というものです。奥地の殖民地からこれを信じた人々が、使節団をひと目見ようとぞくぞくとサンパウロにやってきたのです。サンパウロやサントスのホテルは、日本人で溢れたといいます。

 ちなみにこのとき『臣道聯盟』は自分たち愛国団体の活動をアピールしつつ敗戦派を非難する内容の嘆願書を準備し使節団に渡そうとしていました。つまり『臣道聯盟』からしてこのデマを真に受けて信じていたのです。

 もちろん実際には日本からの使節団など来るわけがないのですが、最初9月10日に来るという噂だったのが、15日、24日と何度も変更され、それでも来ないとなると、サントスではなく首都のリオデジャネイロにやってくることになったと場所が変わり、最後はうやむやになりました。

 多くの戦勝派は「予定が変わった」「時間がかかっている」と使節団が来ない理由を合理化し、日本勝利のデマを信じ続けます。

 人がいかに信じたいものを信じるかが窺える出来事ですが、このことはブラジル社会に小さくない波紋を起こしました。

 それ以前から、ブラジルのマスコミは、日本移民が敗戦を認めていないことを報道していましたが、普段は奥地の殖民地に引っ込んでいる日本移民が大勢、都会のサンパウロにやってきたことで、ブラジル人からしたら「異常」としか言いようのない事態が、可視化されたのです。

 公安組織DOPSは話の通じる敗戦派に対して、日本人のことは日本人で解決せよと圧をかけました。

 都市部に住んでいたり、日常的にブラジル人と多く関わったりする敗戦派の人々は、そのぶん、ブラジル当局からの弾圧を直に受ける立場でもありました。

 第五章で述べたように、宮腰千葉太などはただ日本移民の有力者というだけで収監されました。都市部で商業を営む人たちは、軒並み資産を凍結されています。産業組合もブラジル人を理事にすることで辛うじて存続を許されています。彼らは、独裁制を敷くこの国で当局に逆らっては生きて行けないということを肌で感じています。

 そういった状況も手伝い、敗戦派の人々は戦勝派の人々に敗戦を認識させようと積極的に動き出すことになったのです。

第九章 時局認識運動

 1945年9月29日、サンパウロの旧常盤ホテル広間にて、移民会社『海興』の元支社長、宮腰千葉太をはじめ敗戦派の代表者たちが戦勝派を招いて日本の敗戦を説く説明集会が開かれます。

 
 ここで敗戦派の立場で登壇した一人に、日本人が設立した産業組合としては最大規模を誇っていた『コチア産業組合』の代表である下元健吉という人物がいます。

下元健吉

 この下元は、『コチア産業組合』においてリーダーシップを発揮し、戦前から戦後を通じてブラジルの邦人社会の発展にも寄与したとされる人物です。傑物と称されることさえあります。しかし反面、相当に言動の荒々しい人でもあったようです。

 この下元の『コチア産業組合』は、戦中に薄荷の生産を支援していたのですが、第六章で解説した敵性産業撲滅運動では薄荷生産者が被害に遭っています。下元は敵性産業撲滅運動に対して激怒しており、運動を展開した『興道社』の後継団体である『臣道聯盟』、延いては戦勝派の人々へ強い反感を抱いていたとも言われます。

 下元はこの集会の場で「(日本が勝っていたら)腹を切る」「俺の首をかける」と戦勝派を挑発しました。その場には戦前、邦字新聞を発行していた日高六郎という人物がいたのですが、彼は下元が「弾圧的言辞」を発したとも書き残しています。記録には残っていませんが、伝聞によると「ブラジル警察を動かして戦勝派を取り締まる」という趣旨のことを言ったようです。

 これに戦勝派の人々は反発し、集会は彼らを説得するどころか激怒させる結果に終わりました。

 その直後10月3日、宮腰千葉太の元に日本から重大な文書が届きます。それは天皇陛下が直接、在外邦人に終戦を伝える詔勅に、外務大臣、東郷茂徳のメッセージが添えられたものでした。

 ただし、まだ日伯の国交が正常化していなかったために、この文書は大変複雑な経路を経て届けられました。

 まず日本の外務省からスイスにある赤十字社へ打電され、そこからアルゼンチンの赤十字社支部に伝えられ、アルゼンチンからブラジルへ転送されました。ブラジルにやってきてからも首都のリオデジャネイロには日本人の窓口がなかったのですんなりとは届かず、イエズス会を通じサンパウロで日本移民子弟の教育に取り組んでいた『サンフランシスコ学院』の院長、デル・トーロ神父に預けられ、デル・トーロ神父が宮腰に届けたのです。

 この詔勅とメッセージは外国を経由してきた都合から、日本語ではなく英語で書かれフランス語の説明書きが添えられていました。

 宮腰はこれを日本語に翻訳し、たしかな文書であると保証するため邦人社会の重鎮の署名を加え、印刷物としてまとめます。これは『終戦事情伝達趣意書』と呼ばれました。

 これに署名した重鎮は、宮腰千葉太や、彼とともに交換船に乗らずブラジルに残った元官僚の古谷重綱ら6名。のちに退役軍人で元大佐の脇山甚作も加わり7名になりました。この名前、覚えていますか。『興道社』が『臣道聯盟』になったとき参加しなかった脇山甚作です。

 脇山は終戦直後は当然のごとく戦勝派の立場を取りました。しかし敗戦派の人々の説得を受け敗戦を認め、この『終戦事情伝達趣意書』に署名をしたのです。現代の感覚ではいわゆる「聞く耳」を持つ立派な態度に思えますが、元将校としては敗戦の受け入れの心労は重く、もともとよくなかった体調をますます悪くしたそうです。

 敗戦派はこの『終戦事情伝達趣意書』を使い戦勝派を啓蒙する「時局認識運動」を展開することにしました。

 手始めに10月10日、「伝達式」と称し、各地から人を集め『終戦事情伝達趣意書』を配布しました。その後、宮腰千葉太はじめ敗戦派の代表者たちが、地方を行脚し敗戦を認識させるための説明会を開いたのです。

 しかしこの試みは上手く行きませんでした。おそらくは下元健吉が戦勝派を激怒させた9月29日の集会の時点からすでにボタンの掛け違いは起きていました。続く10月10日の伝達式も戦勝派の人々にとっては、強引に敗戦を押しつけられるように感じられるものでした。敗戦派としては切り札だった『終戦事情伝達趣意書』も、天皇陛下の詔勅が英語で届くわけがないと偽物扱いされてしまいます。畏れ多くも陛下の言葉を捏造したと、より怒らせることにさえなりました。

 そのような状況ですから、宮腰らの地方行脚はまったく歓迎されませんでした。過激な抗議を受け、身の危険さえも感じ、地方行脚は途中で中止に追い込まれます。

 こうした出来事を経て、戦勝派と敗戦派の対立は深刻になってゆきます。

 敗戦派は先の下元健吉のように高圧的に「敗戦という事実」を押しつけようとしたきらいがあり、対する戦勝派は「臣民としての正義」を盲信しこれに反発します。

 またこの対立には、従来から邦人社会内にあった格差や、出自を巡る差別意識も混ざり、現代の感覚では許されないような、誹謗中傷や差別的な言説や、真偽不明の噂が双方の陣営から飛び交いました。

 戦勝派の方が過激な行動にでる傾向が強く、敗戦派と目された人の家には脅迫状が送りつけられるというようなことが各地で起きるようにもなりました。

 この頃はまだ戦勝派の方が圧倒的多数ですから、脅迫までする者が出たことを恐ろしく感じつつも、悪いのは敗戦派だと、戦勝派に共感するという人がかなりいました。

 内心では戦勝を疑う人も徐々に増えてきていたのですが、多数派から外れ「国賊」「非国民」と非難されることを恐れ戦勝派の立場を変えなかったり、勝ち負けをはっきり言わない「レロレロ」と呼ばれる中間的な立場をとることが多く、敗戦派が少数派という状況がずっと続きます。

 この対立は呼称にも及びます。

 敗戦派は「認識派」と自称するようになり、過激な戦勝派を「狂信派(ファナチコ)」などと呼ぶようになります。対して戦勝派は「信念派」と自称し、敗戦派を「敗希派」や「ハイセン」と呼びます。それぞれ、自分たちを持ち上げ相手を蔑むニュアンスの呼称です。

 そのさなか、1945年11月、『臣道聯盟』の理事長、吉川順治が釈放されました。

 『臣道聯盟』のトップで活動の根本となった『吉川精神』を書いたとされる吉川順治は戦勝派最大のイデオローグであり、のちに起きる殺人事件の下地をつくったと評価されることがままあります。

 しかし比較的近年になって掘り起こされた、当時戦勝派だった人々や、吉川の家族など、直接関わった人々の証言によると、吉川自身は『臣道聯盟』の活動を通じ、戦勝派と敗戦派の対立を平和裏に解決したいと考えていたようでした。

 また吉川は、終戦の直前、8月上旬、獄中で脳卒中を患いその後遺症で半身不随になってしまっていました。出獄後もどうにか会話はできるものの、一人でトイレにも行けないような状態でした。気弱になった吉川は理事長を辞めたがるのですが、渡真利成一に説得され、理事長を続けることになります。

 渡真利ら『臣道聯盟』の幹部たちにとっては、日本移民の尊敬を集める吉川が団体の看板でいてくれた方が都合がよかったのです。

 実際、渡真利らは、吉川の日露戦争の英雄としてのイメージを最大限利用します。そもそも渡真利が自分で書いたと思しき『吉川精神』を吉川の名前で世に出したのも、そのためでしょう。吉川が立派な軍服に身を包んだ写真を焼き増し、ブロマイドのようにして配布するなどということもしていました。

 実際の吉川は半身不随で、釈放後もほとんど『臣道聯盟』の実務に関われなくなっていたのですが、勧誘される人々は直接、会うわけではありません。日露戦争時の武勇伝も手伝い、雄々しい軍服姿の吉川の写真は愛国的な日本移民にとって救世主のように見えたはずです。会員になる人の中には、この吉川が理事長の『臣道聯盟』に入れば、優先的に大東亜共栄圏(日本)に帰れると思っていた人も少なくありませんでした。

 おそらく、吉川順治の戦勝派のイデオローグとしてのイメージは、渡真利ら周りの人間によってつくり出されたものです。

 このように書くと、吉川が渡真利らにいいように利用されていたように思えるかもしれません。実際そういう側面は大いにあったとは思うのですが、吉川本人は渡真利を厚く信頼していたようです。

 こうして勢力を拡大してゆく『臣道聯盟』は戦勝派の中でもひときわ大きな存在感を放つようになります。ブラジルの官憲も日本移民の混乱がなかなか収まらないことから、戦勝派への警戒感を強めてゆきます。

 そうした空気の中、年が明けた1946年の正月、パウリスタ延長線沿線の町ツッパンにある「クイン殖民地」で行われた新年会にブラジルの軍人が踏み込んでくる事件が起きました。軍人たちは参加者を暴行し警察署まで連行するのですが、このとき飾ってあった日の丸で軍靴に付いた土を拭ったのです。

 当時の日本移民、特に戦勝派の人々にとってこれは許しがたいことでした。噂を聞いた数名が警察署に抗議に行くのですが、彼らも逮捕されてしまいました。

 この事件は『日の丸事件』と呼ばれ、戦勝派の人々の怒りを誘いました。ただしその怒りの矛先はブラジル当局よりもむしろ、従来から対立している敗戦派へと向かったのです。

 そういった空気も手伝ってか、この『日の丸事件』の直後、一人の戦勝派青年がサンパウロの『臣道聯盟』本部を訪ねます。彼は敗戦派の要人暗殺を企てており、その協力を『臣道聯盟』に要請しました。しかし理事長の吉川は平和裏に同胞を融和させたいと考えていましたから、当然そんな協力は断ります。

 この青年は結局、事件を起こすことはないのですが、ほどなくして、別の戦勝派の男が敗戦派を暗殺する事件が発生してしまいます。

 対立は本格的な「抗争」へと発展してゆき、吉川の思いとは裏腹に、『臣道聯盟』はその渦中に巻き込まれてゆくことになるのです。

十章 抗争の幕開け

 1946年3月7日、バストスという町で産業組合の専務理事を務めていた溝部幾太という男が、夜、自宅の外にある便所から出て来たところを何者かに銃撃され、命を落としました。これが〝ブラジル勝ち負け抗争〟における最初の殺人事件です。

 第六章で触れましたが、このバストスの産業組合の理事長は『終戦事情伝達趣意書』に署名をした元大佐の脇山甚作です。このとき脇山は療養のためサンパウロに移り住んでおり、溝部がバストスでの認識運動の旗を振っていました。言わば現地の敗戦派の代表です。

 一方、このバストスは宮腰千葉太らが認識運動の地方行脚で訪れたとき、あまりに反発が強く説明会の開催さえ出来なかった町でした。それほど戦勝派の勢いが強かったのです。

 溝部は殺害される前から脅迫状を送られるなどしており、その送り主も殺害した犯人も『臣道聯盟』の者に違いないと噂されました。しかし、翌年になって山本悟という男が自ら名乗り出て逮捕されるのですが、彼は戦勝派ではあるものの『臣道聯盟』とは関係がありませんでした。なお1970年代、NHKがこの山本を取材しており、そのときは「日本人を覚醒させるため犯行に及んだ」という趣旨のことを発言しています。

 このように『臣道聯盟』は、最初の事件から強く関与を疑われました。それほど『臣道聯盟』は戦勝派の中で存在感があり過激なイメージを持たれていたのです。前章の最後で触れたように、要人暗殺を企てた青年が『臣道聯盟』に協力を要請したのもそのためでしょう。

 しかし理事長の吉川は平和的な活動を望んでいましたし、第八章で述べたように、そもそも『臣道聯盟』は、ブラジル当局から公認されることを目指していました。吉川以外の幹部たちにとっても過激な団体と思われることは本意ではなかったはずです。一方で戦勝派の最大組織としては強い主張をしなければ、支持を得られません。

 この硬軟のバランスを取るために腐心していたことは『臣道聯盟』が発行していた会報からも窺えます。景気のいい戦勝デマを載せながらも、日本が戦争に勝ったと断言はせず「真偽は各人が考えて欲しい」という趣旨のエクスキューズを入れていたりもするのです。

 こういった本部の思惑とは裏腹に、末端の会員は敗戦派の店で暴れたりだとか、奥地の支部で軍事訓練(!)を行うなど、過激な活動に精を出す者がかなりいました。

 『臣道聯盟』は、たくさんの会員を集めてそれらしい組織をつくってみたものの、おそらくガバナンスはほとんど機能しておらず、末端の活動を把握、コントロールできていませんでした。

 会員の総数でさえ、2万人説、3万人説、12万人説などなど、幹部によって言うことが違います。一応「本会員2万人、家族含めて12万人」というのが有力視されていますが、これさえも水増しされた数字だとする意見があります。

 理事長の吉川順治は半身不随ですし、実際に組織を牛耳っていた渡真利成一や根来良太郎は、あの手この手で組織を大きくすることは得意でも、それを管理維持するのに向いた人材ではなかったようです。

 ちょうどバストスでの事件が起きた直後、『臣道聯盟』の脆弱さがよくわかる出来事が起きていました。

 巷にはバストスの事件は『臣道聯盟』がやったのではないかという噂が流れ、一部の敗戦派は危機感からブラジル当局に接触し、取り締まりの要請を始めていたのですが、そんな状況下でなんと『臣道聯盟』は詐欺師に入り込まれていました。冗談みたいな本当の話です。

 1946年3月20日、渡真利成一は〝戦勝国となった日本からやってきた特務機関の南郷大尉〟を自称する人物と出会います。この時期、日本の軍人がブラジルに来れるわけはないし、そもそも日本は戦勝国ではありません。この南郷大尉の正体は川崎三造という詐欺師でした。戦時中から方々で詐欺を働いていたようなのですが、大胆不敵というか『臣道聯盟』を騙しにかかったのです。そして渡真利以下、『臣道聯盟』の幹部はまんまとこの川崎に騙されました。

 川崎は、自分の経歴や日本の様子についてデタラメを話したのですが…、これが本当にデタラメで「ブラジルにいたXという霊が日本にいた自分に会いに来て日本の事情をいろいろと聞いていった」と、まあ、そういう趣旨のオカルトがかった話をしたのです。

 現代の感覚ではにわかに信じ難い、当時としても相当だったと思うのですが、『臣道聯盟』はこの奇矯な話を真に受け、夢野生なる架空の著者による『夢物語』という冊子にまとめ、配布しました。

 事実は小説よりも奇なりを地でゆく、わけのわからない出来事ですが、『臣道聯盟』の幹部たち、特に渡真利成一というのは、こういう話を信じてしまう人だったのです。

 さて、このようにして『臣道聯盟』が詐欺師に籠絡された矢先、またも戦勝派の襲撃によって敗戦派が殺される事件が発生します。

 1946年4月1日早朝、サンパウロ市内で、5人ずつ2組に分かれた10人のグループが、『終戦事情伝達趣意書』にも署名した元官僚の古谷重綱と、戦前、邦字新聞の編集長だった野村忠三郎を銃撃したのです。古谷は一命を取り留めますが、野村は命を落としました。

 襲撃犯たちはまず敗戦派のリーダーと目されていた宮腰千葉太のことを狙ったのですが、宮腰の自宅近くで警察の姿を見かけ中止し、二手に分かれ、古谷と野村を襲撃したのです。10人の犯人のうち5人がすぐに逮捕され、5人が逃亡しました。

 この襲撃事件はバストスで起きたそれとは違い、明らかに組織化されたものでした。従来から『臣道聯盟』を恐れていた敗戦派は『臣道聯盟』の仕業に違いないと考えます。ブラジル当局に『臣道聯盟』への取り締まりを進言した者もいました。

 ここまで日本移民の混乱は日本移民で解決せよとの立場だった治安組織のDOPSも本格的な取り締まりを開始します。DOPSは軍警察を動員し『臣道聯盟』及び、過激な戦勝派の一斉検挙に出たのです。

 『臣道聯盟』理事長の吉川や、幹部だった渡真利や根来はもちろん、各支部の幹部や、『臣道聯盟』とは無関係ながら過激な言動をしている戦勝派の団体や個人まで、1000人以上が検挙され、そのうち400人以上が勾留されました。

 逮捕を免れた会員もいたものの『臣道聯盟』は事実上の活動休止に追い込まれます。詐欺師の面目躍如と言うべきか『臣道聯盟』に入り込んでいた川崎三造は、逮捕を免れました。この詐欺師の名前はこのあともたびたび出て来ますので覚えておいてください。

 ブラジルのマスコミも4月1日の事件は、日本移民の過激派組織『シンドウレンメイ』の暗殺部隊である『トッコウタイ』が起こしたものだったと、大々的に報じました。

 犯人と関係者の一部がこれを裏付ける供述をしました。ほか様々な情況証拠もあり、『臣道聯盟』が組織的に殺人テロを起こしたという「定説」ができあがり、のちに編纂される移民史にも記載されることになります。

 現在ではこの定説に疑義が生じているのですが、その解説はのちに譲るとして、このDOPSの一斉検挙は、結果として火に油を注ぎました。戦勝派による敗戦派への襲撃は、収まるどころか、サンパウロ州の広範囲で連続して発生するようになるのです。

第5回はこちらから

 

葉真中顕『灼熱

2021/9/24

公式HPはこちら

「日本は戦争に勝った!」無二の親友を引き裂いた「もう一つの戦い」の真実。デマゴギーの流布と分断が進む現代に問う、渾身の巨篇。

沖縄生まれの勇と、日系二世のトキオ。一九三四年、日本から最も遠いブラジルで出会った二人は、かけがえのない友となるが…。第二次世界大戦後、異郷の地で日本移民を二分し、多数の死者を出した「勝ち負け抗争」。共に助け合ってきた人々を駆り立てた熱の正体とは。分断が加速する現代に問う、圧倒的巨篇。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

葉真中顕

はまなか・あき 1976年東京都生まれ。2013年『ロスト・ケア』で日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞し、作家デビュー。2019年『凍てつく太陽』で大藪春彦賞および日本推理作家協会賞を受賞、2022年、『灼熱』で渡辺淳一文学賞を受賞。他の著書に『絶叫』『コクーン』『Blue』『そして、海の泡になる』『ロング・アフタヌーン』などがある。


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