シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
知の楽しみにあふれたWebマガジン。
 
 

やりなおし世界文学

2020年4月24日 やりなおし世界文学

(特別編)「ペスト」が洗い出す凡庸な人間の非凡な強さ――カミュ『ペスト』

著者: 津村記久子 , 100%ORANGE

ある朝、医師は鼠の死体をいくつか発見する。
ついで原因不明の熱病者が続出し――

というあらすじで知られるカミュ『ペスト』が最近話題です。

津村記久子さんからのご厚意で、「波」2017年8月号に掲載された「やりなおし世界文学」の『ペスト』の回を、改めて掲載させていただくことになりました。

以下、津村さんからのコメントです――

今は普通の人の力が必要で、『ペスト』の恋愛小説を書いている役人の姿は、それを具現化したものなのではないでしょうか。

〈われわれは人を死なせる恐れなしにはこの世で身振りの一つもなしえないのだ〉

作中のタルーという登場人物が、ある小柄で貧弱な男への死刑宣告を目撃したことから導き出すこの一文は、ウイルスが蔓延する今の世界の人々の現状を言い当てるものでありながら、ひいてはグローバル化した世界の収奪の側への警告でもあるようにも思えます。そういった構造の負の側面が、今回のウイルスの蔓延とそれに伴う医療物資の欠乏へとつながり、医療の現場で働く人々への過酷な負担を招き、立ち返って善男善女が善男善女を感染させるという状況を招いたのだとすると、やっぱり私はタルーの言っていたことを誰かに知ってほしいと思います。

 「ペスト」のことを考えずにはいられない。読んでいる間はそんな気分だった。食事をするのも面倒だった。「ペスト」のこと以外考えたくないとさえ思っていた。一方で、もう「ペスト」のことは一切考えたくないと思う時間もあって、登場人物たちが、オランという市が、そしてペストがどうなってゆくのかばかり考えている期間の谷間に、これ以上は読みたくないという瞬間がやってきてやっと読むのをやめるという、とても不思議な読書だった。なんだろう。これは病禍にも似てはいないだろうか。ペストのことは知らないけれど、病気になって、いつ治ってくれるのか、自分はどうなるのかということばかり考えながら、もうこんなことを考えるのはうんざりするとでもいうような。
 一九四*年四月十六日、アルジェリアの港街オランで三十代の医師リウーが、診察室から出て階段口の真ん中で死んだネズミにつまずいたことに端を発するペストの流行は、やがて街全体が世界から隔離されるという状況に発展してゆく。おびただしい死者が積み上がっていくことに決定的な救済など与えられない中、街の人々は孤立状態の街に閉じこめられ、死と隣り合わせの日々を送る。あらすじによると、ペストはナチスの寓意であるというようにも読めるとのことだけれど、そのまま病気としてのペストとして読むにしても、疫病が猛威を振るう閉鎖された街というものがどういう状態かについての思考実験としてもとても考え抜かれている。船舶が入ってこず、街を出ることを禁じられた自動車は堂々巡りを始め、食糧補給は制限され、ガソリンも割り当て制になるという不活発な状況の中、商店や事務所の休業で暇になった人たちがカフェに集まり、映画館が大もうけするという奇妙な様子を、カミュはただそこにあるモラトリアムとして淡々と描く。状況が状況なので、楽しいというと語弊があるのだが、非日常を日常として暮らすことになった人たちがどのように振る舞うかという観察は、それだけでも充分興味深い。
 そのような、ペストという不条理を過ごすことになった街を描く冷静な手付きは、登場人物たちの中庸な姿にも表れている。医師のリウーは、ひたすらに患者の間を渡り歩き、目の前の仕事をこなすことに尽力する。リウーの貧乏な患者である役人のグランは、役所の仕事をしながらリウーに協力する。悠々と暮らす旅行者のタルーもまた、オランに暮らす人々のニッチな観察に興じながらも、ペストの猛威の中でリウーに手を貸すことになる。記者のランベールは、恋人に会いたいがために何度か脱出を試みるのだが、結局は街に留まり人々を助けようと決める。彼らは、常に疲れ果てたような状態ながら、ペストの脅威に諦めることなく抵抗する。さまざまな出自を持ち、人生に悔いや屈託を抱えながらも、騒ぎ立てず静かにペストと戦う登場人物たちのことが、まるで知っている人のことのように心配になってきて、食事で読書を中断するのも惜しいぐらいだった。彼らはペストの渦中でどうなっていくのか。端的に、生き残れるのだろうか? こんなに普通の人たちが?
 ペストに抗う登場人物たちには、小説的な意味での色気のようなものがほとんど付与されない、植物的とも言ってもいいぐらい抑揚のない人々なのだが、だからこそ、自分は彼らが心配になったのかもしれない。リウーはペストをくい止められるほどの名医というわけではなく、目の前の死にゆく患者に対峙し手当てをすることしかできないのだが、そのことからは決して逃げない。神を信じていないというリウーは、タルーに、ならばなぜそんなに献身的にやるのかと問われ、「自分が全能の神というものを信じていたら、人々を治療することはやめて、そんな心配はそうなれば神に任せてしまうだろう」と答える。ペストを「際限なく続く敗北」と言い、街の人々の多数の死に立ち会いながらもそれに慣れることのないリウーからは、強い意志を持ちながらも生身である人間の像が見受けられる。
 どこか余裕を感じさせる旅行者タルーは、かなり先の段階まで出自のわからない謎の人物である。ペストが蔓延する街で保健隊を組織することをリウーに提案し、それまでの有閑な様子から一転してペストの前線に赴くことを選ぶ。父親が次席検事だったというタルーは、論告の見学に呼ばれ、そこで父親が死刑宣告をする様子を目撃し、求刑される男もまた生きているのだと理解した瞬間から人生が一変してしまう。「われわれは人を死なせる恐れなしにはこの世で身振り一つもなしえないのだ」ということを知ったタルーは、人を死なせたり死なせることを正当化したりする一切のものを拒否すると決心する。
 確信をもって行動するタルーとは対照的に、貧乏な五十代の役人のグランは、特に動機らしい動機はないまま、ひたすらペストに関係する人々の統計を取り続ける。なすべきことをなすまでという態度の彼は、ペストの中にありながら、家出した元妻のことを考え、ペストが終息したら一週間休みを取って、仕事の合間に書いている小説を書きたいと考えている。なんだったらグランは、ペストのことなんかより小説のことを考えたいのだとも読める。世の中が大変だから自分もできることをしようというだけに見えるグランは、さまざまな登場人物の中でも最も凡庸な人間であるにもかかわらず、おそらくはいちばん強烈な印象を残す。
 ペストとは、人間がかこつ理不尽な運命の寓意であり、本書はそれに対する抵抗の本質を描いている。ペストがなければただの人だったかもしれない普通の人々は、これだけの強さを隠し持っていて、それを特別なことと誇りもせず、疲労して奪い取られながらも目の前のことに立ち向かう。神にも愛にも依らない、この強さは何なのだろう。登場人物たちがペストのことを考えられずにはいられないように、読者であるわたしは、リウーたちのことを考えずにはいられなかった。これを切り抜けて欲しい、とほとんど友人に対するように願っていた。
 ペストの中にいる人々の行く末は、誰もが現実的な姿であるからこそ、まったくどうなるかわからない。それは、現実のなりゆきがよくわからないことにとても似ている。ペストの先で、彼らは何をつかむのか。ある人物のある喪失の直中で記述される「ただ、ペストを知ったこと、そしてそれを思い出すということ、友情を知ったこと、そしてそれを思い出すということ、愛情を知り、そしていつの日かそれを思い出すことになるということ」という一文には、人間が生きる意味が凝縮されている。世界や人生から奪われ続ける不条理の中で「思い出すこと」の価値が刻みつけられる。感動的な小説だと思う。そうとしか言いようがない。

(「波」2017年8月号より)

ペスト

カミュ/ 宮崎 嶺雄  

1969/10/30

この記事をシェアする

MAIL MAGAZINE

「考える人」から生まれた本

もっとみる

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 仕事
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき

考える人とはとは

何かについて考え、それが「わかる」とはどういうことでしょうか。

「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

津村記久子
津村記久子

1978(昭和53)年大阪市生まれ。2005(平成17)年「マンイーター」(のちに『君は永遠にそいつらより若い』に改題)で太宰治賞を受賞してデビュー。2008年『ミュージック・ブレス・ユー!!』で野間文芸新人賞、2009年「ポトスライムの舟」で芥川賞、2011年『ワーカーズ・ダイジェスト』で織田作之助賞、2013年「給水塔と亀」で川端康成文学賞、2016年『この世にたやすい仕事はない』で芸術選奨新人賞、2017年『浮遊霊ブラジル』で紫式部文学賞を受賞。他の作品に『アレグリアとは仕事はできない』『カソウスキの行方』『八番筋カウンシル』『まともな家の子供はいない』『エヴリシング・フロウズ』『ディス・イズ・ザ・デイ』など。

連載一覧

対談・インタビュー一覧

100%ORANGE

イラストレーター。及川賢治と竹内繭子の2人組。東京都在住。イラストレーション、絵本、漫画、アニメーションなどを制作している。イラストレーションに「新潮文庫 Yonda?」「よりみちパン!セ」、絵本に『ぶぅさんのブー』『思いつき大百科辞典』『ひとりごと絵本』、漫画に『SUNAO SUNAO』などがある。『よしおくんが ぎゅうにゅうを こぼしてしまった おはなし』で第13回日本絵本賞大賞を受賞。

連載一覧

  • 津野海太郎「最後の読書」読売文学賞受賞


ランキング


  • ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号第6091713号)です。ABJマークを掲示しているサービスの一覧はこちら