8月7日(金)
1938年生まれの私が、もっとも熱心に映画館にかよっていたのが1950年代から60年代にかけて――。
そしてこれは、つい最近、ちくま文庫で刊行された濵田研吾の『俳優と戦争と活字と』という本を読んで気がついたのだが、あの当時、私が見ていた最盛期の日本映画の俳優たちは、その多くが私よりも15歳から30歳ほど上の、つまりは大戦争のただなかで青年や中年期をすごしたバリバリの「戦中派」だったのですね。
そんなこと当時は当たり前すぎて、わざわざ意識したこともなかった。その当たり前の事実を、私よりもはるかに若い濵田さんの新著によって、おくればせながら認識しなおすことができた。うれしい。おかげで、もはや忘れたも同然の過去を遠くから眺めるわが目の解像度が、ちょっとだけ増したような気がします。
濵田さんは1974年生まれ。私が退社したのちに晶文社からでた『徳川夢声と出会った』の著者で、ちくま文庫からも、ほかに『脇役本』という本がでている。コツコツ収集した膨大な量の印刷物にあたって、いまはない昭和文化のあとを克明にあとづける。そういうタイプのノンフィクション作家です。
したがってこの本には、目次だけでも60人にちかい映画人や演劇人が登場してくる。全体では、おそらくその2倍か3倍にもなるだろう俳優たちの戦争体験の記録なので、こちらの関心に応じて、さまざまな読み方ができる。たとえば黒澤明監督の『七人の侍』の場合――この本でしらべたら、7人のサムライ役のうち、最年長(敗戦時40歳)の志村喬をのぞくと、ほかの6人すべてが、それぞれのしかたであの戦争に深くかかわって生きていたことがわかった。
以下、そこに本書以外の資料も加えてしるしておくと、
○志村喬(島田勘兵衛)1905年生。年齢が年齢なので召集はまぬがれたが、以前、新劇人だったため特高警察に連行されたことがある。
○三船敏郎(菊千代)1920年生。陸軍航空隊の反抗的な古参上等兵として6年、熊本の特攻基地で敗戦をむかえた。
○木村功(岡本勝四郎)1923年生。戦争末期に文化学院を繰り上げ卒業後、召集されて1年間を海軍でおくる。広島在住の両親は原爆で死亡。
○稲葉義男(片山五郎兵衛)1920年生。日大芸術科をでて芸術小劇場在籍中に応召する。
○加東大介(七郎次)1911年生。陸軍衛生伍長。中堅歌舞伎役者だった経験を生かし、ニューギニアでもっぱら慰問劇団づくりにはげんだ。
○千秋実(林田平八)1917年生。新築地劇団の若手俳優だったが、陸軍に召集され、終戦寸前まで樺太国境警備隊に勤務する。
○宮口精二(久蔵)1913年生。文学座「移動演劇隊」の一員として戦時下の日本各地をまわりながら終戦をむかえた。
こう並べてみて、あらためておどろいた。ときは戦国時代末期。あの、主家を失って放浪する7人のおんぼろ侍に扮した俳優たちのほぼ全員が、敗戦後、解体された軍隊から瓦礫と化した街に戻ってきた復員兵だったというのですから。
そして、いざそのように考えると、敗戦の9年後、1954年に封切られた『七人の侍』が、その数年まえに製作された2本の傑作――『酔いどれ天使』(48年)と『野良犬』(49年)をじかにひきつぐ戦後映画の時代劇版だったように思えてくる。なかんずくその最終シーン――丘の上に築かれた4つの土饅頭を見上げて、辛うじて生き残った勘兵衛が、いくつもの戦さをともに経験してきた七郎次に向かってつぶやく、
「今度もまた、負け戦だったな」
というひとことが、いっそう切実なひびきをもって聞こえてくるのです。
濵田さんの本には、1937年に上海近郊の呉淞クリークで戦死した俳優・友田恭助(37歳)にはじまり、翌38年に開封市の野戦病院で戦病死した映画監督・山中貞雄(28歳)をへて、45年に移動演劇隊「桜隊」の一員として広島で原爆死した俳優・丸山定夫(44歳)にいたる、戦争によって未来をうばわれた映画人や演劇人の話がくりかえしでてくる。
いきおい読む者は、もし山中が生きて戦後を迎えていたらなどと、思わず知らず考えることになる。そう、かならずやかれは1歳下の黒澤明に匹敵する大監督になっていたにちがいない、というようにね。同様に、友田恭助や丸山定夫がもし生きのびて「七人の侍」の一員を演じていたとしても、なんのふしぎもない。あの丘の上の土饅頭にしても、7人の俳優たちの眼には、戦場で無念死した先輩たちの墳墓のように映っていたかもしれないのだ。
私は日本敗戦の年に小学校にはいり、その直後に川崎市元住吉地区で米空軍による空爆の洗礼をうけた。しかしだからといって、じぶんが「戦中派」だなどと思ったことはない。それはそうでしょう。中学生ならともかく、まだ満7歳になりたてのチビッコだったのですからね。「あと数年すればオレはきっと戦場で死ぬことになるだろう」――そんな苛酷な運命を強要されて生きるしかなかった人びとの苦しみなど、想像のしようもなかったのです。
そのような私が『七人の侍』をはじめて見たのが高校生のころ。おそらく比較的年齢の近い勝四郎(木村功)に感情移入して見たんじゃないかな。そして、あのヤワな若侍(ことによると実際の戦場体験はなかったかもしれない)が菊千代や久蔵に向けるのと同様の、いくらかの「おびえ」がまじった「あこがれ」のまなざしで、スクリーン上の志村喬や三船敏郎や宮口精二のすがたに見入っていたような気がする。
いや、かれらだけでないぞ。ほかの人びと――三國連太郎や森雅之や伊藤雄之助をはじめとする「真正戦中派」ともいうべき世代の俳優たちには、共通して、皮膚の下に黒いものをドロリと溜めこんだような強烈な存在感があった。
――と私は思うがね。ちょっとこわいほどにさ。
――うん。その点は女優の山田五十鈴や原節子や高峰秀子たちもおなじだな。
いうまでもなく、この種の存在感は、米国わたりの民主主義教育でそだった私の世代(つまり戦後派)になると、あとかたもなく消えてしまった。そしてその後も、この国の映画や演劇の世界に、かれらに匹敵する強烈な存在感をもつ俳優たちが群れをなして出現してくる、というような事態はついに生じなかった。
もちろん力のある俳優はそれぞれの時代にいたし、いまもいるのです。そのことは私も否定しない。でも総じていうと、俳優たちの演技が薄っぺらなテレビ画面に均され、たとえかれらの演技がどれほどうまかろうと、ありふれた達者さの印象しかうけない。なぜだろう。この75年間、私たちの国に戦争と徴兵制がなかったせいなのかね。まさか。
8月18日(火)
年をとっていつも感じるのが「本は重い」ということ。
筋力がおとろえた老人には、たいていの本が重く感じられてしまう。でかけるときも、持ち歩く本を1冊にするか2冊にするか、そんなわびしいレベルで、くよくよ悩んでいる。もう笑うしかないよ。往年の、肩にかけたザックに分厚い本を何冊も詰め込んで軽々と移動していた私は、いったいどこに消えてしまったのだろう。
そんな事情なので、書店でも図書館でも、本をえらぶさいは、それがどれほど重いかを、いつも気にかけている。おまけに80歳をすぎると、長時間、椅子にきちんと坐って読むのがしんどくなるからね。いつのまにか、本をおもに読む場が書斎から寝室に移行し、それにつれて、ハードカバーの重い本とは、ますますつきあいがむずかしくなっていく。
なにも「かたい本」だけではない。「やわらかい本」だっておなじ。
話がやや古くなるけれども、2018年4月、宮部みゆきの『あやかし草紙』という怪談小説が刊行された。「三島屋変調百物語」シリーズの第五巻で、第一巻の『おそろし』が2008年に刊行されて以来、ずっと愛読してきたので、ある日、近くの書店の平台に積んであるの見つけて反射的に手がのびた。
ところが困ったことに、これがハードカバーで四六変型判、576ページもある大冊なのです。とうぜん重たい。もし10年まえなら、しかたない、文庫になるまで待つとするかと、のばした手をしぶしぶひっこめるところ。ただ、このシリーズの場合、前例から見て、文庫化までには3年か4年かかる。もし仮にこんども同様だとすると、いまの私に、それまで確実に元気でいられる自信があるだろうか。4年後といえば私は84歳。「もちろんある」とはとても断言できない。とすると、
――やっぱり、いま買うしかないか。でもなァ……。
と、のばしかけた手が途中でとまり、それでもがまんできず、何日かのち、おなじ書店で買ってしまった。ところがですよ、それから2年ちょっとで文庫版刊行。おいおい、こっちはまだなんとか死なずにいるんだぜ。ちょっと早すぎるんじゃないの。
買うのをためらったという点では、昨2019年に日本語版がでた劉慈欣の『三体』もおなじ。中国系SFは、ケン・リュウの『紙の動物園』にはじまる一連の短篇集に感心させられていたので、こちらもぜひ読みたい。そうは思ったものの、書店で手にとると、これまたハードカバーで448ページもある大作なのです。買うか買わないか、またしても迷い、でも以前の体験があるので、こんどはその場で購入した。
その後、さいわいなことに、文庫版はまだでていない。ただ、全3部で完結というシリーズの第2部『三体II 黒暗森林』の翻訳が、早くも今年6月に刊行された。これまた上下2巻で692ページの巨大煉瓦本。これがたいへんな作品であることは私にもわかる。もし私に往年の腕力が残っていたら、よろこんで読んだにちがいない。でもね、いまの私が寝床で読むには重すぎるし、あきれるほど綿密に組み立てられた構造を楽々と読みほぐす自信もない。せっかく買っても途中で投げだしてしまいそう。そのことはへとへとになって読みおえた第1部からも推測がつく。そんなしだいで、2か月たったいまも、まだ買わずにいる。この先も、たぶん買わないんじゃないかな。
先日、ひさしぶりにでかけたなじみの店で、好きな銘柄の酒を冷やで飲み、同行した家族をあとに残して、ひとりで店をでたはいいが、あいにくの熱帯夜、頭がクラクラして夜道でぶっ倒れそうになった。
飲んだといったところで、たった1合半よ。むかしは楽に1升以上あけていた私がね。酒がそうなら読書もそう。年をとって読むのがむずかしくなる本もあれば、意外にも、とつぜん読めるようになる本もある。そんな変化にすなおに身をゆだねるのも老年読書の楽しみのうち。
――ちょっとしんどいけど、なにがなんでも、がんばって読んでしまおう。
そんな気力が、いまの私にあろうわけがないのですよ。
ただ、それはいいのだが、最近は寝床で本を読んでいると、すぐ眠ってしまう。それが困る。いや困るだけでなく、それなりにいい面もないわけではない。そういえば私にかぎらず、むかし都築道夫さんもおなじようなことを書いていたな。たしか『都築道夫の読ホリデイ』という本だったはず。――そこで部屋中さがしてみたが、いまや私の書斎の乱雑ぶりは極限にたっしていて、なかなか見つからない。でもそうなると、かえって確かめたくなるのが人のつね。さて、どうしたものか……。
8月20日(水)
1956年6月、早川書房から『エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン』日本語版が創刊された。その初代編集長だった都筑道夫(当時26歳)が、30数年のち、1989年から2002年にかけて、同誌の後身にあたる『ミステリマガジン』に延々と連載した書評エッセイ――それが『都築道夫の読ホリデイ』です。
この連載がはじまったころ、すでに晶文社から『死体を無事に消すまで』(73年)、『黄色い部屋はいかに改装されたか』(75年)という都筑さんの推理小説論が2冊でていた。そこで「どこかの段階で、この連載もぜひ当社で本にさせてほしい」と早川書房に申し入れたが、「こちらもまだどうするか決めていないので」とことわられ、そのままになってしまった。
いや、その後も担当編集者の島崎勉が、時折、都筑さんを訪ねていたから、まだ話はつづいていたのかもしれない。
そんなある日、といっても、すでに80年代も終わりにちかくなっていたと思うが、いくつかの段ボール箱が晶文社に送られてきた。送り手は都筑さん。あけると『エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン』をはじめ、58年創刊の『マンハント』(中田雅久編、当時36歳)、59年創刊の『ヒッチコックマガジン』(中原弓彦=小林信彦編集。同じ26歳)、おなじく『S-Fマガジン』(福島正実編集、同30歳)など、1950年代後半に創刊され、その当時(80年代)にはすでに伝説と化しつつあった諸雑誌のバックナンバーが、かなりの量でてきた。
このとき、都筑さんは60歳前後。島崎さんの話では、病気やその他の事情もあって、じぶんの暮らしを思いきって簡素化しようとしていたらしい。おそらくはそのための蔵書処分の一環だったのだろう。その後、住まいを娘さん一家が暮らすハワイに移し、『都筑道夫の読ホリデイ』の連載(連載時のタイトルは「読ホリデイ」)を終えた後、2003年11月にワイキキの病院で動脈硬化による心臓麻痺で亡くなった。行年74――。
そしてその6年後、『都筑道夫の読ホリデイ』が小森収の編集で、「ハヤカワ・ポケット・ミステリ」とそっくりの、上下2巻のポケットブック版(平野甲賀装丁)として、フリースタイル社から刊行される。私の部屋にあったのは、いうまでもなく、その2巻本だったのだが、先にものべたとおり、いまさがすと、どこにも見あたらない。
でもまァ、老人にとって「あるはずのものがなぜかない」のは、ごくありふれたできごとだからね。知らんぷりして、そのままほうっておけば、たいていは1週間もすれば、どこからかヒョイと飛びだしてくる。
ただし、今回はいちおう締め切りがあるので、いつものように、のんびり待っているわけにはいかない。そこで、やむなく図書館に向かうと、運よく、開架の書棚に2巻そろって並んでいた。その場で立ったままチェックすると、上巻の、しかもその冒頭に、たちまちこんな記述が見つかった。題して「就眠読書」――。
このごろ、よく本を読む。映画を見なくなって、ヴィディオも見なくなって、そのぶんよけいに本を読む。推理小説とは、かぎらない。なんでも読む。仕事をしていないときは、本を読んでいる。
本を読む場所は、寝床のなかが多い。仕事をしていないときは、横になって、からだを休めている。寝床のなかが、休憩時間で、休憩時間には、かならず本を読む。仕事が一段落して、一日ひまがあるときには、一日じゅう寝床に入っている。うとうとしては、本を読み、本を読んでは、うとうとする。本を読むのが休日で、すなわち読ホリデイ。
やっぱりね。どうやらこの一節が私のボロ頭のどこかにひっかかっていたらしいや。でも、ほかにもおなじような記述があるかもしれない。といって、コロナ自粛下の図書館では長々と腰を据えて調べるわけにもいかない。小型本とはいえ、2巻あわせて936ページ。もちろん重いけどね、しかたない、借りてきましたよ。
で、いそいで自室に戻って走り読みすると、案の定、よく似た記述があちこちに見つかった。とくに下巻では、70歳をこえた都筑さんが大小の病気につぎつぎにみまわれ、小説を書く力を急速に失っていくさまが、たんたんとしるされている。いや小説だけではない。ついには「読ホリデイ」連載のため、毎月、新刊の翻訳ミステリーを読んで、その感想をしるすことすら、おっくうになってしまった。
このところ、からだの調子の悪いときが多くて、くる年くる年、半分ねむったような状態で、日を送っている。第一、ものに感激することが、なくなったようで、最近よんで感銘をうけた本もなく、感激した映画もない。
今年になって、一本も映画をみていないのでは、ないだろうか。
と都筑さんが書いたのが2002年の5月号。そして1回とんで翌々月、7月号の原稿がこのように書きはじめられることになる。
妻が死んだ。
出さきで倒れて、救急車で運ばれて、私のところへ知らせがあったときには、もう息がなかった。(略)
病室に通されてみると、ひと目で、遅かったことがわかった。妻の顔には、白布がかけてあったからだ。
からだが小さく、ちぢんだように見えた。小ぶとりの医者が、ぼそぼそ説明をしてくれたが、なにをいっているのか、私にはわからなかった。(「くもの巣」)
かくして夫人が不意にいなくなったのち、ひとり残された都筑さんは、しばらくのあいだ本が1冊も読めなかった。でも私とちがって都筑さんは年季を積んだプロのもの書きなので、そんな状態にあっても、なんとか次号の原稿を書くことだけはできたらしい。
体調が悪くて、頭のはたらきまでが、思うようにならない。急に夏が近づいたような感じで、頭がぼうっとしている。家内にさきだたれた男は、まいりやすいものだ、というから、私の健康状態も、おかしくなっているのかも知れない。(「ニューヨークの夜」)
しかし、いかに粘りづよい都筑さんでも、やはりこのあたりが限界だったのである。SF・ホラー作家、ダン・シモンズの『諜報指揮官ヘミングウェイ』という新刊本を中心に、9月号のための、あまりパッとしない原稿を書き終えたところで、13年つづいた連載を打ち切り、先述のとおり、娘さんがいるハワイに居を移し、その1年半後に没する――。
編集者としての私についていうと、たとえば小林信彦さんとくらべると、都筑さんとのつきあいは浅かったと思う。でも、永六輔、野坂昭如、福島正実、筒井康隆、小松左京といった方々とくらべれば、いくぶんかは深かった。ときおり浅草の蕎麦屋や新宿のバーで顔を合わせ、「おひさしぶり」と声をかけあうていどにはね。
では、なぜここで、この人たちの名をまとめて書いたのだろうか。
ざっといってしまえば、60年代から70年代にかけて、若い私は、かれらの影響下で、ミステリーやSFや映画やジャズなどの、アメリカの新しい大衆文化の魅力にめざめた。その恩義をいまもまだ忘れられずにいるようなのです。私や私の世代だけでなく、私たちより10歳ほど若い団塊世代、さらにそのつぎの連中あたりまでは、たぶん、おなじように感じてきたのではなかろうか。
この方々は私が小学校にはいった敗戦の年、すでに中学生だったか、なろうとしていた(福島さんは高校生だったかもしれん)。だから野坂昭如のいう「焼跡闇市派」――じっさいに戦場に狩りだされることはなかったけれども、敗戦直後の、天地がひっくりかえったようなアナーキーな空気を、いやというほど体験させられた世代に属する。それだけに、すこし上の「真正戦中派」の人びとよりも、アメリカ文化に対する反感はすくなかった。あったとしても、たいていは、ほどなく消えた。
そんなかれらが20代後半にはじめて社会にとびだす舞台となったのが、ほかならぬ、むかし都筑さんが晶文社に送ってくれた『エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン』『マンハント』『ヒッチコックマガジン』『S-Fマガジン』などの、アメリカ直輸入的な新雑誌群だったのです。
その都筑さんによる日録ふうの書評が『読ホリデイ』(説明がおくれたが、ジョン・フォード監督『荒野の決闘』でヴィクター・マチュアが演じた西部のガンマン、ドク・ホリデイのもじり)で、そこでの「半分ねむったような」日々の記述を、いまやまぎれもない老人となった私は身につまされて読んだ。
でも考えてみれば、この時期の都筑さんは、いまの私より10歳以上も若い、ようやく老いのトバ口にさしかかったばかりだったのだ。おなじく心身のおとろえといっても味わう「つらさ」の質がちがう。「いやいや、あなたのような真正老人に、そうあっさり身につまされてもらっても困りますよ」と、どこかで私より若い都筑さんが苦笑しているかもしれない。
9月6日(日)
夏のはじめ、岩波新書から川端康雄の『ジョージ・オーウェル――「人間らしさ」への讃歌』という本がでた。
1978年から87年にかけての10年間、私は高橋悠治、八巻美恵、鎌田慧、平野甲賀、柳生弦一郎、柳生まち子、藤本和子、田川律といった人たちと、『水牛通信』という月刊のミニコミ誌をだしていた。
その最初期に若いメンバーとして加わってきたのが川端さんで、当時はまだ明治大学英文科の大学院生。そして、それから40余年がたち、いまは日本女子大教授となった川端さんが、思いがけず私の暮らす浦和をたずねてくれ、近所のうなぎ屋に向かう途中で私が石段から転落、せっかくの「まずは一献」をおじゃんにしてしまった。その哀れな顛末については、すでに連載の21回「往年の目力」で書いたので、おぼえていてくださる方がいるかもしれない。
学生時代の川端さんはウィリアム・モリス研究の小野二郎のもとで育ち、1982年に小野が52歳で没したのちは、師の専門領域をひきついで、モリス/オーウェル研究を着々と深めてきた。一方で小野はすぐれた編集者でもあり、また創業まもない晶文社に私を引きずりこんだ人物でもあったので、その縁もあって川端さんは『水牛通信』にかかわるようになったのです。
で、モリスはさておき、ここではオーウェルについてだけ触れると、私はかれのエッセイが好きで、これまでも、くりかえし読んできた。にもかかわらず、読んで、とことん腑に落ちたとはいいがたい。翻訳で読むせいかな。読むたびに、いくばくかの隔靴掻痒感があとにのこってしまうのだ。
オーウェルは1903年の生まれ。本名をエリック・ブレアといい、大英帝国の強固な階級制度のもとで育った。インド植民地の官吏だった父の息子で、パブリック・スクールの名門、イートン校に国王奨学生として入学。しかし卒業後はオクスフォードやケンブリッジへの進学というエリート・コースをえらばず、父親のあとをつぐかのように、第一次世界大戦終結後、反英感情の高まった時期のビルマに植民地警察官として赴任した。
いまもいったように、私は古くからのファンなので、オーウェルの生涯のおおよそは、80年代はじめにでたバーナード・クリックの『ジョージ・オーウェル ひとつの生き方』(岩波書店)や、ジョージ・ウドコックの『オーウェルの全体像 水晶の精神』(晶文社)などの本で知っていた。
ただしクリックは英国人で、ウドコックは英国系のカナダ人。そんな著者がおなじ英語圏の読者に向けて書いた本だから、イギリスの階級制度についても、いちいち噛んで含めるように説明することはしない。だけど私は、かれらとは別の文化圏に生まれ育った人間なので、どうしても、わかったようでわからないもどかしさが、あとに残ってしまう。そのもどかしさが、うれしいことに、川端さんの簡潔なオーウェル評伝で、かなりのていど和らげられたような気がする。
たとえば55歳で定年退職して帰国した父親の年金が438ポンドで、熟練労働者の年収の4倍以上、「上層中流階級の生活様式(と体面)を維持するにはかつかつの額」だったというような階級制度にかかわる微妙な細部は、こんど川端さんの本を読むまでは、よく知らずにいた。かれの受けた「特待生待遇は〔父親にとって〕ブレア家の一人息子を『見苦しくない』キャリアに導くのに(略)願ってもないものだった」とかね。
私など、植民地警察官ときくと、つい「都落ち」というコトバを思い浮かべてしまう。
でも、ちがうのですな。いまものべたように、当時のイギリスでは、上層中流階級の体面を、かつかつに、つまりは最低限のところで保つことができると考えられていたらしい。そしてその道をオーウェルはみずからすすんでえらんだ。実家の経済状態を考慮してという理由もあったろうが、イートン校時代、『ジャングル・ブック』の国民作家、ラドヤード・キプリングの「愛国詩」に大いに鼓舞されていたせいも、すくなからずあったらしい。
だが植民地警察官としての体験をかさねるうちに、じぶんが体現するキプリング的な「帝国主義」への疑いが生じ、それがしだいにつのっていく。この時期のことを、のちにオーウェルは「象を撃つ」や「絞首刑」などのエッセイでしるしている。この上なく感動的だが、そこでのオーウェル青年の屈折したこころの動きを理解するのは、けっこうむずかしい。そんな厄介な作品のこまやかな分析も、こんどの本の読みどころのひとつといっていいだろう。
オーウェルを読むことのもどかしさは、ほかにもいろいろある。一例をあげれば、かれがさかんに口にする「愛国心(パトリオティズム)」という語もそう。
――やっぱりわかりにくいよ。じぶんでいう「反帝国主義」的な「社会民主主義者」のくせして、なぜ「愛国心」などというきわどい語を好んで口にしていたのかね。
川端さんも指摘するように、オーウェルは、この「愛国心(パトリオティズム)」という語を、「権力と結びついた攻撃的な概念」としての「ナショナリズム」と区別し、「特定の場所と特定の生活様式」=「つねに変化しながらも、なんとなくおなじものだと感じられているものへの献身」を意味する「防御的」な語としてつかっていた。そのことは、もちろん私にもわかるのです。オーウェルのいう「パトリオティズム」は、日本語でいう「郷土愛」ということばのほうに近いと、かつて鶴見俊輔もいっていたしね。
でもだからといって、「ナショナリズム=攻撃的愛国心」対「パトリオティズム=防御的郷土愛」と、すぱっと割り切ってしまえば、それですむとも思えない。じっさい、ビルマ植民地体験によってキプリングの「愛国詩」への愛着が完全に消えたかというと、なかなかそうはいかなかったようなのだから。
私自身について言えば、一三歳の時にキプリングを崇拝し、一七歳のときに大嫌いになり、二〇歳で愛読し、二五歳で軽蔑し、いま〔一九三六年〕はまたかなり称賛するようになっている。とにかくその作品を読んだことがある人なら、彼を忘れるということだけは絶対に不可能である。
忘れるのが至難なのはキプリングだけではない。それよりもはるかに「通俗的」とされる少年向け週刊誌やマンガや大衆小説や映画の「イデオロギー」もまた、おさない読者の「精神形成に基層部分で作用」する。
したがって、この時期に植えつけられた「スノビズム、物欲、暴力性、保守主義、人種観、階級観、あるいは愛国主義といったイデオロギー」は、おとなになったのちも簡単には消えてくれない。そして、その結果として出現したサンチョ・パンサ型の「太っちょ」こそが、「あなたの非公式の自己であり、精神に異議申し立てをするお腹の声」(「ドナルド・マッギルの芸術」)の主なのだ、とオーウェルはいう。しかも、この、ともすれば「体制への順応、刹那的案安楽」に走りがちな「太っちょ」の「お腹の声」が、じつはその一方で「根源的な自由の感覚をとどめることによって、全体主義イデオロギーを脱臼させる力を秘めている」というのである。
そこからはじめて、オーウェルは1940年のエッセイ「少年週刊誌」で、「文化」をエリートの専有物ではなく万人の「生のありようの総体」としてとらえる運動を、ひとりで開始することになった。そう川端さんはいう。
――これらの一連の(民衆)文化論には「ふつうの人びと」(その主体は下層中流階級および労働者階級からなる)の伝統的な生活文化に見られる品位への希望があり、それが彼の批評エッセイに生気を与えている。
どんなたぐいの全体主義(オーウェルの時代でいえばナチズムやスターリニズム)のもとにあっても、サンチョ・パンサの単純ならざる「お腹の声」に耳をかたむけ、「コモン・ディーセンシー(人間らしさ)を備えて道徳律を捨てないふつうの人びとへの希望」を捨てない。それを支える基盤としてオーウェルは伝統的な民衆文化や生活文化につよい光をあてる。そこにいたる道筋を小さな新書というかたちで平明に語ってみたい。それが、このたびの川端さんの新著のめざすところだったのだと思う。
と、ここまで書いてきて、唐突なようだが、ブレイディみかこさんのことを思いだした。半世紀まえにロンドンに一週間いたことがあるだけの私が、多少なりとも、イギリスの「ふつうの人びと」のイメージをいきいきと想像できるのは、この数年、彼女が書きつづけてきた文章を読んだおかげなのである。
そして、もうひとつ、『紅茶を受皿で』というオーウェル論をあとにのこして去った小野二郎が、いま生きていたら91歳。その小野翁に、ぜひともブレイディさんの近作『ワイルドサイドをほっつき歩け』を読ませたかった。近所のパブにつどう中年のおっさん=太っちょ連中の切なくもタフな交際のさま、その生活文化――小野さんが読んだら、「おい、これだよこれ」と大いによろこんだにちがいないのだから。
濵田研吾『俳優と戦争と活字と』ちくま文庫、2020年
宮部みゆき『あやかし草紙』「三島屋変調百物語伍之続」、角川書店、2018年
劉慈欣『三体』大森望ほか訳、早川書房、2019年
都築道夫『都築道夫の読ホリデイ』上下巻、小森収編集、フリースタイル、2009年
川端康雄『ジョージ・オーウェル――「人間らしさ」への讃歌』岩波新書、2020年
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津野海太郎
つのかいたろう 1938年福岡生まれ。評論家。早稲田大学卒業後、劇団「黒テント」演出、晶文社取締役、『季刊・本とコンピュータ』総合編集長、和光大学教授・図書館長などを歴任。著書に『滑稽な巨人 坪内逍遙の夢』(新田次郎文学賞)、『ジェローム・ロビンスが死んだ』(芸術選奨文部科学大臣賞)、『花森安治伝』、『百歳までの読書術』、『読書と日本人』ほか。
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はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 津野海太郎
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つのかいたろう 1938年福岡生まれ。評論家。早稲田大学卒業後、劇団「黒テント」演出、晶文社取締役、『季刊・本とコンピュータ』総合編集長、和光大学教授・図書館長などを歴任。著書に『滑稽な巨人 坪内逍遙の夢』(新田次郎文学賞)、『ジェローム・ロビンスが死んだ』(芸術選奨文部科学大臣賞)、『花森安治伝』、『百歳までの読書術』、『読書と日本人』ほか。
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