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分け入っても分け入っても日本語

ダサい

 かつて若い世代の男性から絶大な支持を得た週刊誌、『平凡パンチ』。その1974年4月28日号に、興味深い記事が出ています。題して「ダサイもシブイもベシャってる…“女子高生チャン”に浸透する流行語―分析」。70年代半ばの若者ことばを特集した2ページの読み物です。
 このタイトルには、当時新しいと見なされた語が織り込んであります。「ダサい」(=やぼったい)、「シブい」(=あか抜けている)は、その頃の流行語でした。
「ベシャる」は、耳慣れない人もいるかもしれません。「しゃべる」の倒語(前後の音を入れ替えたことば)で、戦前からあります。記者は、これも70年代の流行語という扱いで書いているのか、それは分かりません。
 記事の冒頭にはこんなリードがついています。
〈ダサイ野郎、ダサイ教師‥‥“ダサイ”なる言葉を生活にとけこませてしまった女高生世代。/今、一体どんな言葉を使い、どんな話し方をしているか〔下略〕〉
 ここに現れているように、記事は、「ダサい」が70年代半ばに流行しはじめたことを物語る資料となっています。本文中には次のような解説もあります。
〈昨今の三大流行語である“ダサイ”“シブイ”“ツッパル”は文字どおりツッパル者以外のマジメ派女高生内部にも、深く浸透し、こんなコがと思う女高生でも、電車内で、/「あのコ、ダサイわネ」/とやっている〉
 この記事などを基に、「当初『ダサイ』は若い女性を中心に使われた語」とする文献もあります。でも、先ほどの記事をよく読むと、はたしてそうかという疑問が湧きます。
 その疑問を検討する前に、「ダサい」の語源について考えておきましょう。
 インターネット上の複数のサイトで紹介されているのは、「田舎」を「ダシャ」と読み、「ダシャい」が「ダサい」になまったのだ、という説です。早くは、『現代用語の基礎知識』90年版にこの説が紹介されています。
 ただ、これは疑わしいですね。「田舎」を「ダシャ」と読むのは普通ではなく、むしろ「ダサい」の音に合わせて、後から無理にこじつけた可能性が濃厚です。「ダシャい」の実例も見出すことができず、信頼できる説ではありません。
 多くの人が信じていると思われるのは、「だって埼玉」が「だ埼玉」になり、さらに略されて「ダサい」になった、という説です。これも信じるに足りません。
「ダサイタマ」というのは、タモリさんが80年代にバラエティー番組で埼玉県をからかって使ったことばです。その後、埼玉県はイメージアップに懸命になり、「さいの国」という愛称が生まれるきっかけになりました。先後関係から言えば、「ダサい」ということばが先にあり、「埼玉」は後から結びつけられたのです。
 ことばの作り方としても、名詞「埼玉」の一部「サイ」が、そのまま形容詞の語尾に使われるのは異例です。名詞が形容詞化される場合は、「サイタマい」「タマい」などとなるのが普通です。埼玉の「サイ」は、この際、関係がありません。
 意表を突く説もあります。逢河あいかわ信彦『雑学・懐しのマンガおもしろ意外史』は、漫画家の谷岡ヤスジが作ったと述べています。〈酔っぱらって人としゃべっていたとき、「野菜」といおうとして、舌がまわらず、「ダサい」といってしまった〉のが発端ということですが、いつどこで、ということも含め、裏付けの取れない記述です。
 このほかにも説がありますが、省略します。結局、「ダサい」という語形がどのようにして成立したかは、不明としか言えません。
 語形に関してはそうなのですが、どこから出たことばか、ということについてはヒントが得られます。
 先の『平凡パンチ』には、〈ツッパル者以外のマジメ派女高生内部にも、深く浸透し〉とあります。これは、「ダサい」を初めに使ったのが女子高校生ではないことを示しています。当初は〈ツッパル者〉と言われる連中が使い、それが一般の女子高校生に広まった、と読み取るべきです。
『現代用語の基礎知識』に最初に「ダサい」が現れるのは、『平凡パンチ』に遅れること4年の78年版です。そこでは、まず流行語の〈ツッパル〉について、〈はじめこれをさかんに使ったのは暴走族だった〉と説明します。さらに、〈ダサイ〉について、〈これも暴走族を震源地とする言葉である。何らかの意味で互いにツッパッテいる同士の間で、そのツッパリのキマリ具合を評価する時に使う〉と説明します。〈ツッパル者〉は、ここでは暴走族を指しています。
 日本語および辞書について非常に詳しい専門家、ペンネームskidさんは、『平凡パンチ』よりもさらに古い「ダサい」の例をネット上で報告しています。73年および74年の資料で、非行高校生について〈ダサイ(格好わるい)奴〉、スケバンについて〈ダサイ女〉と使った例があるとのことです(一部の例は私も確認しました)。
 現時点で知りうる情報をまとめると、こういうことでしょう。「ダサイ」は、70年代の初めに、暴走族ないし非行高校生といった不良グループの間で、何が語源かはともかく使われだした。70年代半ばになると、一般の女子高校生たちも普通に使うようになった。さらに、80年代に入ると、「ダサイタマ」のような揶揄やゆの用法も含めてテレビの電波に乗り、誰もが使うようになった。
 現在では、年配の上品な女性が「この服、ちょっとダサいわね」などとごく自然に使いますが、元をたどれば不良のことばだったのです。

トッポい

 高校の頃、友人が「トッポいヤクザ」と表現したのを聞いて、どんな意味か質問したことがあります。私は「トッポい」を知りませんでした。友人がどう説明してくれたのかは忘れました。はっきりした説明ではなかったと思います。
 小学生の頃に読んだ手塚治虫「ブラック・ジャック」を読み返していたら、不良少女が「トッポい」を使っていました。カツアゲしたコインロッカーの鍵を持って、仲間がロッカーを開けに行こうとするので、少女は言います。
〈トッポイねエ それこそノコノコ出かけてったら ポリに待ちぶせされるじゃんか〉(「赤ちゃんのバラード」)
 こちらの意味は分かります。「間抜けだねエ」ということですね。とすると、「トッポいヤクザ」は間抜けなヤクザでしょうか。いや、高校の友人は、そういう文脈で言ったのではないような気がしますが…。
「トッポい」とは結局どういう意味だ、と疑問を持ったのは、『三省堂国語辞典』(三国)第6版の編纂へんさんをしていた2007年頃のことでした。
『三国』の古い版で「とっぽい」を引いてみると、〈①なまいきだ。②ぬけめがない。③きざだが感じがいい。④〔方〕抜けている〉とありました。4つも意味が書いてあるけれど、「抜けている」の意味が方言扱いされていたりして、違和感があります。
 もともとの意味は何なのか。戦前の隠語辞典の記述をみると、「生意気だ」「抜け目がなくてずるい」に類する意味が書かれています。このあたりが原義のようです。一方、「太い」の意味もあり、ここから「フトイ→トフイ→トッポイ」となったのだ、という説もあります(『集国語辞典』など)。真偽のほどは分からず、判断は保留しておきます。
 ともあれ、『三国』第6版では「トッポい」の記述を修正することにしました。ネットのブログなどから「トッポい」の使用例を40件集めて用法を観察し、それを基に語釈を書きました。用例が多く観察された順に、①~③の意味を記述しました。
〈①不良っぽくて かっこいい。「―にいちゃん」②〈とぼけて/ぬけて〉いるようすだ。「―女の子」③ぬけめがない〉(書式は第7版による)
 高校の頃に友人が言った「トッポいヤクザ」は、「ワルぶってかっこいいヤクザ」の意味だったと考えられます。現実の暴力団ではなく、ドラマの中の話でしょう。
 今また、ツイッターでフォロワーにアンケートを取ってみると、「とぼけている・抜けている」および「不良っぽい」がともに4割強、「計算高い・抜け目がない」が2割弱でした(投票数3866票)。辞書の意味の順は、現在のとおりで問題なさそうです。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
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「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

飯間浩明
飯間浩明

国語辞典編纂者。1967(昭和42)年、香川県生れ。早稲田大学第一文学部卒。同大学院博士課程単位取得。『三省堂国語辞典』編集委員。新聞・雑誌・書籍・インターネット・街の中など、あらゆる所から現代語の用例を採集する日々を送る。著書に『辞書を編む』『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか? ワードハンティングの現場から』『不採用語辞典』『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』『三省堂国語辞典のひみつ―辞書を編む現場から―』など。

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