「どたん場」は、もと、処刑場のことを言いました。
以前、この語源を調べていて、「へえー」と感心した覚えがあります。でも、普段はそんなことは意識に上りません。というよりも、完全に忘れ去っています。
私が「どたん場」ということばを最初に知ったのは、小学校の頃、テレビのプロ野球中継でだったと思います。スポーツ中継では「どたん場」をよく使いますね。「どたん場での逆転」「どたん場で粘りを見せる」などなど。「どたん場」は、このように、物事がもう決まろうとする最後の場面のことを言います。
これを漢字で「土壇場」と書くことは後に知りました。でも、どんな「場」かは、あまり考えずに使っていました。
江戸時代末期の天保年間に書写された『刑罰大秘録』という本があります。拷問の方法から生首のさらしかたまで、絵入りで細かく記されています。その中に「御様之事」という記述があります。
それによると、首を斬られた罪人の遺体は、そのまま、刀の試し斬りのために「お試し場」という所に運ばれて来ます。お試し場では、土を盛り上げた台、つまり「土壇」を作り、そこに遺体を置いて、役目の者が刀で胴体をばっさり斬ります。
この土壇は、挿し絵によれば、高さは2尺4寸(約70センチメートル)ほどの土の台です。その上に、竹の杭が4つ「::」の形に立ててあります。この杭の間に挟むようにして、遺体をくくりつけます。
この土壇のある所が、すなわち「土壇場」です。
こう言うと、詳しい人は、「あれ、土壇は首斬りの時に使うのでは?」と疑問を持つかもしれません。いえ、首斬りの場では土の台は作らず、むしろ、罪人の目の前に穴を掘るのです。首斬り役人が刀を振り下ろすと、罪人の首がその穴へ転がり落ちます。
NHKの大河ドラマ「新選組!」(2004年)の最終回では、近藤勇が斬首刑に処せられました。近藤の目の前には穴が掘ってありましたが、その場に土壇はありませんでした。時代考証の担当者がきちんと指示したのでしょう。
もっとも、加賀藩では、罪人を生きたまま胴斬りにする「生胴」というすさまじい刑罰があったそうです。これは、土壇に横たえた罪人を、そのまま刀で斬ります。ただし、この刑罰は、藩にとってよほどの大罪人に対してしか行いませんでした。土壇の上で処刑するということは、むしろ例外的でした。
古い文献を見ると、土壇の上で斬首するように読める文章もあります。それは、この生胴などを念頭に置いたものかもしれません。あるいは、世間一般では、斬首の方法が誤解されていたのかもしれません。
まとめますと、「土壇」は「首斬り場」ではなく、その後に使う「お試し場」に作られたものです。でも、広く言えば、「処刑場に築かれた土の壇」でも間違いではありません。さらに広く、「土壇場」を「処刑場」の意味で使うこともできます。
さて、話は現在のことに移ります。本来、「どたん場」には「もう処刑場に連れて来られた最後の場面」という意味合いがありましたが、今では忘れ去られてしまいました。では、現在、多くの人は「どたん場」をどんな感覚で捉えているでしょうか。勝手に推測すれば、おそらく、「切羽詰まり、ドタバタして慌ただしい場面」というほどの感じで使っているのではないでしょうか。
ドタバタした場面だから、どたん場。「土壇場」という漢字は知っていても、つい「ドタン、バタン」というオノマトペ(擬音)が頭に浮かんでしまう。実は、かく言う私自身がまさにそうなのですが、ほかの人はどうでしょうか。
漫画家のサトウサンペイさんの名著に『ドタンバのマナー』というのがあります。食事、海外旅行、さらには広く人付き合いの際に気をつけるべきことを、軽いタッチでつづったイラストエッセイです。マナーをきちんと学んでこなかった人でも、一夜漬けでそれなりのことが身につく。お得な内容ですね。
この書名の「ドタンバ」は、お呼ばれや旅行の前のドタバタした時間に、慌てて勉強するという感じが出ています。これを「土壇場のマナー」と漢字で書くと、「進退窮まった末のマナー」ということになって、意味が通じにくくなります。著者の頭には、きっと、「ドタバタ」という擬音のイメージがあったはずです。
現代語では、「どたん場でキャンセル」を縮めた「ドタキャン」ということばもあります。「土壇」が「ドタ」と略されると、なおさら擬音の感じが強くなります。「ガチャポン」「ドキュン」などということばにも似てきますね。
この「ドタキャン」は、もとは芸能界の俗語でした。それがまず、若者の間に浸透しはじめました。だいたい1980年代のことです。私の部屋にある資料では、88年に出た『現代若者コトバ辞典』に載っているのが古い例です。
その後、「ドタキャン」は一般に広まり、国語辞典にも載りました。新語の掲載に慎重と見られている『広辞苑』は、98年の第5版で、『大辞林』や『大辞泉』にさきがけて「ドタキャン」を収録しました。ところが、「こんな俗語を載せるとは」と、『広辞苑』の利用者には不評だったそうです。
現在は、新聞の見出しに「公開討論で予定者ドタキャン」などと使われることもあります。「ドタキャン」は一般語にきわめて近くなりました。
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飯間浩明
国語辞典編纂者。1967(昭和42)年、香川県生れ。早稲田大学第一文学部卒。同大学院博士課程単位取得。『三省堂国語辞典』編集委員。新聞・雑誌・書籍・インターネット・街の中など、あらゆる所から現代語の用例を採集する日々を送る。著書に『辞書を編む』『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか? ワードハンティングの現場から』『不採用語辞典』『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』『三省堂国語辞典のひみつ―辞書を編む現場から―』など。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 飯間浩明
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国語辞典編纂者。1967(昭和42)年、香川県生れ。早稲田大学第一文学部卒。同大学院博士課程単位取得。『三省堂国語辞典』編集委員。新聞・雑誌・書籍・インターネット・街の中など、あらゆる所から現代語の用例を採集する日々を送る。著書に『辞書を編む』『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか? ワードハンティングの現場から』『不採用語辞典』『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』『三省堂国語辞典のひみつ―辞書を編む現場から―』など。
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