コンビニ
新井素子さんのSFファンタジー「扉を開けて」(1985年)の中で、ヒロインが20世紀当時の東京について語る場面があります。
〈何だかんだ言ってもね、やっぱり、上下水道完備で、電話あって、車うじゃうじゃ走ってて、地下鉄と私鉄と国鉄があっちゃこっちゃ走ってて、デパートあって、セブンイレブンあって、喫茶店なきゃ生きてゆけないよ〉
懐かしさの感じられるせりふです。現在ならば、「国鉄」は「JR」、「喫茶店」はたぶん「カフェ」とか「スタバ」とかになるのでしょう。でも、当時これを読んだ私は、
――その、「セブンイレブン」とやらは、何ですかな。
と、ヒロインのむしろ「新しすぎる」せりふに戸惑いました。
私は香川県の高校3年生で、コンビニエンスストアというものを知りませんでした。店舗の実物をこの目で見たのは、作品が書かれたその翌年、86年に、大学受験のために上京した時でした。「ごく小規模のスーパーで、おでんなんかも売っている店」というのが第一印象でした。
日本でコンビニエンスストアが本格的に展開しはじめたのは70年代前半のことです。国立国会図書館のウェブサイトで検索すると、タイトルにこれを含む一番古い本は、阿部幸男『発展するコンビニエンスストア』(71年)です。辞書編纂者の見坊豪紀は、もっと早く、70年の夕刊紙の記事から例を採集しています。辞典類では、『コンサイス外来語辞典』が76年の第2版で「コンビニエンスストア」を収録しました。
省略形の「コンビニ」も、これまた相当早くから現れています。見坊は80年の新聞の見出しから「コンビニ」の例を拾い、また、それに先立つ74年には「コンビニ店」という例も拾っています。これらの資料を基に、彼は『三省堂国語辞典』第3版(82年)で「コンビニ(エンスストア)」の見出しを立てています。
香川県の高校生のまったく知らないところで、「コンビニエンスストア」および「コンビニ」は広まっていたわけです。
また、これも当時の私は知らなかったことですが、手塚治虫の漫画「ブラック・ジャック」の中の「過ぎさりし一瞬」(82年)という作品に、こんな会話があります。
〈ピノコ「セブンイエブンないの」ブラック・ジャック「ない」タクシー運転手「オー コンビニエンス!」〉
当時、セブン‐イレブンのこんなコマーシャルがあって、話題になったのでしょう。都市部だけの放映だったのでしょうか。ちなみに、同じ年に連載が始まった手塚作品「プライム・ローズ」の冒頭近くにも、ヒロインが異世界のコンビニで〈オー コンビニエンス!〉と叫ぶところがあります。
「コンビニエンスストア」も「コンビニ」も、今日のように誰もが使うことばになるには、なおも年月を要しました。
山田洋次監督の映画「男はつらいよ・寅次郎かもめ歌」(80年)では、さくら(倍賞千恵子)が電話口で〈セブンイレブンっていうスーパーです。はい〉と言っています。87年の新聞にも〈深夜スーパー「セブン・イレブン」〉と書かれています。80年代には「スーパー」と説明するほうがよく分かったんですね。
一般にも、いろいろな呼び方がありました。「深夜スーパー」「ミニスーパー」と言うこともあれば、人によっては「コンビ」と略したり、「コンスト」と略したりしていました。もっとも、「コンスト」は東海林さだおさんのエッセイ集『タコの丸かじり』(88年)に出てくる言い方で、ほかでは見たことがありません。
私自身は、80年代後半に東京で生活するようになってから、一貫して「コンビニエンスストア」と略さずに呼んでいました。「コンビニ」という略語も知っていましたが、なんだか下品に思われて、自分では使いませんでした。
90年代に入ると、「コンビニ」の呼称は一般化してきました。女優の檀ふみさんは、おそらく90年前後のことと思われますが、〈階下にコンビニエンス・ストアがあるから〉という台本のせりふを、「コンビニ」に変えるよう監督に指示されたそうです。彼女は〈「コンビニ」なんて言葉、聞いたこともない〉と抵抗しましたが、結局、最後は従ったそうです。
〈あれがすべての始まりだったような気がする。「コンビニエンス・ストア」が、「コンビニ」となって、世の中が、どんどんわからない方向に動き出した〉(『ありがとうございません』)
これが、ことばに厳格な人の、当時の感覚でした。
私はと言えば、さしてことばに厳格ではありませんが、90年代も依然として、「コンビニエンスストア」「ファミリーレストラン」さらには「デジタルカメラ」なども、省略するのが嫌で、舌を噛みながらそのまま発音していました。
私が「べつに『コンビニ』でもいいか」とようやく思いはじめたのは、人よりも遅れに遅れ、2005年頃のことでした。これはかなり特殊と言えるでしょう。
現在では、「テレビジョン」よりも「テレビ」が普通であるように、省略形の「コンビニ」のほうが普通だと感じるようになりました。いったん「コンビニ」に転向すると、ニュースなどで現在も「コンビニエンスストア」と言っているのがまどろっこしく感じる――のは、まことに身勝手な話ではあります。
ファミレス
日本でファミリーレストランの第1号店が開店したのは1970年。コンビニエンスストアの展開と、ほぼ軌を一にする結果になりました。
新聞記事として取り上げられた時期はやや遅れます。70年代後半になって、〈〔外食関係の〕業界は過熱気味。その中で彗星のごとくあらわれたのが、ファミリーレストラン「すかいらーく」〉(『朝日新聞』夕刊 76年8月25日付)のように、ちらほら記事が現れはじめます。
書名として出てくるのはさらに後です。神山泉ほか編『ファミリーレストランのすべて』(79年)という本が、どうやら古いところです。
個人的なことばかりで恐縮ですが、私の記憶にある最初のファミリーレストランは、高松市内の中学校への通学路にあった「ぐりーんはうす」という店でした。今、公式ウェブサイトを見ても裏付けが取れないのですが、80年にはこの店を見ながら登下校していました。食べに行ったことがあるかどうかは、記憶にありません。
広い駐車場と、柱に高く掲げられた大きな看板。その向こうに、おしゃれな赤茶色の屋根。現在ではごく一般的な「ファミレス」ですが、当時としては都会的で新しく、特別な印象を受けました。
この店のことを「ファミリーレストラン」とは呼びませんでした。「ぐりーんはうす」は「ぐりーんはうす」です。他に似たような店がないので、それで用が足りました。
では、私が「ファミリーレストラン」という呼び名を知ったのはいつ頃かというと、どうも曖昧です。やはり、上京して大学生活を送るようになった80年代後半ではなかったでしょうか。私だけでなく、当時、地方に育った若者は、今よりもかなり中央の情報に疎かったのです。
略称の「ファミレス」は、90年代になってから広まりました。『現代用語の基礎知識』の90年版に載っており、この書物が90年1月の刊行(書店に並ぶのは89年の暮れ)であることを考えると、80年代末には現れていたことになります。
90年代には「ファミレス」以外に「ファミレ」と呼ぶ人もいて、略称は必ずしも一定しませんでした。私の場合、ずっと「ファミリーレストラン」と言っていたことは、「コンビニ」の項で述べたとおりです。「ファミレス」と違和感なく言えるようになったのは、やはり21世紀になってからです。
なお、思い出の「ぐりーんはうす」は、公式サイトによれば、2009年に全店舗が閉店してしまいました。地元のファミレスは苦戦しているようです。
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飯間浩明
国語辞典編纂者。1967(昭和42)年、香川県生れ。早稲田大学第一文学部卒。同大学院博士課程単位取得。『三省堂国語辞典』編集委員。新聞・雑誌・書籍・インターネット・街の中など、あらゆる所から現代語の用例を採集する日々を送る。著書に『辞書を編む』『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか? ワードハンティングの現場から』『不採用語辞典』『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』『三省堂国語辞典のひみつ―辞書を編む現場から―』など。
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はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
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どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
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「考える人」編集長
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著者プロフィール
- 飯間浩明
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国語辞典編纂者。1967(昭和42)年、香川県生れ。早稲田大学第一文学部卒。同大学院博士課程単位取得。『三省堂国語辞典』編集委員。新聞・雑誌・書籍・インターネット・街の中など、あらゆる所から現代語の用例を採集する日々を送る。著書に『辞書を編む』『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか? ワードハンティングの現場から』『不採用語辞典』『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』『三省堂国語辞典のひみつ―辞書を編む現場から―』など。
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