Webマガジン「考える人」

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随筆 小林秀雄

 十二月である、十二月と言えば「忠臣蔵」である、というような言い方は、今でも通じるのだろうか、それとも、もう通じないのだろうか。そんなことを思いながら今回の準備を始めていたら、「忠臣蔵」の討入りをモチーフにして缶コーヒーのコマーシャルがいま流れていると教えてくれた人がいた。
 かつては、十二月といえば日本国中が「忠臣蔵」だった。元禄十五年十二月十四日、赤穂藩の浪士四十七人が幕府の要人、吉良上野こうずけのすけの邸に討入り、亡き主君、浅野たくみのかみの無念を晴らした。この一件はたちまち評判となり、歌舞伎に「仮名手本忠臣蔵」が生まれて国民的人気は不動となったが、その「仮名手本忠臣蔵」は独参どくじんとうと呼ばれた。独参湯とは気つけに効能があるとされる漢方の煎じ薬だが、その効き目が顕著なことから、いつ上演してもよく当るという意味で言われ、また客の入りが思わしくないときは起死回生の切り札という意味でも言われた。そしてこの「忠臣蔵」の人気は映画の時代になってますます盛り上がり、暮から正月にかけての映画館には毎年必ず「忠臣蔵」映画がかかるほどだったし、テレビの時代になってもNHKの大河ドラマをはじめ、各局の連続ドラマや長時間ドラマに何度も登場するなどその独参湯ぶりは凄まじいばかりだった。
 小林先生も、昭和三十六年(一九六一)の初めに「忠臣蔵」という文章(新潮社刊「小林秀雄全作品」第23集所収)を書いて次のように言っている、
 ――赤穂浪士等の討入事件に取材した芝居が、江戸で興行されたのは、事件後、一週間もたたぬ間であった。以後、作者役者の不断の改良がつづけられ、歌舞伎最大の出し物に生長したのだが、これは、討入事件そのものに、余程興味ある性質があったがためだと思われる。……
 ――私は、戦争中、或る学校で、「忠臣蔵」の史実について、講義というほどの事ではないが、引続き話をした事があるので、事件に関し少しばかり知識を持ち、興味を抱いているのだが、近頃の学校の歴史でも、又、最近広く読まれた日本史などを見ても、この事件は、歴史家によって全く軽んじられているように見える。どうも気に食わぬ想いがしている。これも亦不思議だ。文化を重んずるという建前から、例えば、元禄時代の歴史では、光琳こうりんそうたつを語らねばならぬ、とする。それはよいが、討入より光琳宗達を重んずるという事になれば、これは筋が通るまい。なるほど光琳宗達の出現は、重要な文化的事件であり、その影響するところは、人々の思想の上にあった、これはわかり切った事だ。それなら、討入事件も亦一種の精神的事件であり、その人々の思想に与えた甚大な影響力は、光琳宗達などの比ではない、という事が、何故わかり切った話ではないのか。……
 この連載の第四十七回にも書いたが、私は「忠臣蔵」の故郷、播州赤穂の近くで生れ育ち、「忠臣蔵」には並々ならぬ思い入れをもっていた。だから、先生が「忠臣蔵」についてこうも熱く語っていることを知って歓喜したが、新潮社に入って先生の係を仰せつかってからもしばらくは先生と「忠臣蔵」の話をすることはなかった。ところが幸い、先生に赤穂へ来てもらい、「忠臣蔵」の遺跡を案内することになった。第四十七回に書いた「あなご」の日である。
 「忠臣蔵」の遺跡としては、ほんの一部ではあるが大石内蔵助の邸跡、そして東京高輪の泉岳寺と並ぶ浅野家の菩提寺花岳寺、そして内蔵助たちを祀った大石神社、といったところの人気が高いが、その日の案内役を頼んだ大石神社の宮司、飯尾精さんの話に先生は熱心に耳を傾け、内匠頭が上野介に切りかかった刃傷の原因は赤穂の塩だった、塩の作り方をめぐってのいざこざだったと書いた小説があるが、そういうことは考えられるかね、などと細々したことまで質問されてご機嫌だった。

 それから一週間ほどしてからだ。東京で、ある文学賞の贈呈式があり、先生と仕事の打合せをした後、先生について控室に入ると、先にこんさんが来ていて「よう!」と片手を挙げられた。今さんは東大仏文科以来の友人で、河上徹太郎さんと並んで先生の生涯の盟友だったが、四年ほど前からその年の夏まで、初代の文化庁長官を務められていた。
 今さんは、先生に歩み寄り、「赤穂へ行ったんだってな、どうだった」と訊かれた。
 先生は、「どうもこうもないな、にせものばっかりだ」
 私は、凍てついた。
 「どういうことだい」
 「宝物館というのがあるんだがね、そこに並べてあるのがにせものばっかりなんだ。浪士が討入りのときに使ったがんとうだとか、呼子笛だとか、吉良方の返り血を浴びた袴だとか……。事件が事件だったからね、そんなものが外に出回ってるはずはないんだ。みんなにせものだ」
 すると今さんは、
 「ああ、そういうことか。だがね、そいつは赤穂だけじゃないだろう、全国至るところにせものだらけだ、俺んとこ(文化庁)でも、そろそろやめさせなければと言ってたんだ」
 ところが、先生は、それを聞いて即座に返された。
 「いや、今ちゃん、それはいけない、今のままでいいんだ、にせものはにせもので、僕らが歴史に親しむ入口になってくれているんだ。本物なんてそうそうあるもんじゃない、本物しか見せてはいけないとなったら、歴史は僕らの目に見えなくなってしまう、そうなったら誰も歴史に教わろうとしなくなる……」 
 「なるほどな、小林お得意のしんがん論だな」
 今さんは苦笑しながら先生の言葉を引き取った。先生の文章に「真贋」がある(同第19集所収)。先生自身の骨董経験に基づき、美の世界を跋扈ばっこするにせものについてさまざまに語っている。
 「だがな、今ちゃん、大石神社の木像、あれはいいぞ、あれは見てこい」
 大石神社の木像というのは、赤穂浪士の像である。浪士が吉良邸討入り後に切腹してから二五〇年となった昭和二十八年(一九五三)、追慕の大祭が行われ、その記念として山崎朝雲、平櫛田中ら当時の日本の木彫界の第一人者四十九氏が、大石内蔵助以下の浪士四十七人と浅野内匠頭、そして、志はもちながら討入りに加わることができなかった萱野三平の四十九体を一体ずつ彫ったものである。
 赤穂浪士の像は江戸時代から他にもあるが、それらはいずれも討入り姿ばかりである。しかし、山崎朝雲、平櫛田中らによるこの像は、討入り前の浪士たちの姿をさまざまに、彫刻家諸氏が史実に基づきながらも自由に思い描いて彫っている。
 「あの像を見て、日本は木の国だと、あらためて強く思ったな」
 先生は、感に堪えないようにそう言われた。

 歴史にかぎらないが、今日の学問は真実の追究に熱心なあまり、少しでも疑わしいものは排除しようとする。したがって、歴史の遺物や遺品も本物、本物と血眼になり、にせものは有無を言わせず押しのけようとする。しかし、それはいけないと先生は言う。先生が今さんに言った、「にせものはにせもので、僕らが歴史に親しむ入口になってくれているんだ」とは、こういうことである。
 先生が言う「歴史」は、私たちが過去に生きた人間のことを知って、その人がその時代を生きるために何をどう考えたか、それを私たち自身の関心事としてきめ細かに思い描き、現代に生きる私たちの知恵とも糧ともする、そういう私たちの追体験行為、それがあって初めて存在するものである。何年何月にどこそこでこういう事件が起った、だけでは歴史ではない。そういう追体験行為に誘ってくれるのが遺物や遺品であるが、その遺物や遺品が本物であるかにせものであるかは問題ではないと先生は言うのである。
 そこを、「忠臣蔵」に即して言えばこうである。江戸時代にああいう事件が起り、それに否応なく関わらされた藩士たちがいた、その藩士たちが、こういう品を今に残した、と言って見せられれば、私たちはそれが本物かにせものかを問うよりも、それを手にしていたかも知れない堀部安兵衛や矢頭右衛門七らの影を自然と感じる。影を感じたらそこから彼らの胸の中に思いを馳せ、彼らがあの不慮の事件をどう生きようとしたかまでを彼らの精神の事件として思い描く。これが歴史を知って歴史に学び、歴史に教わるということである。こうして思い描いた人物像は、私たちが私たちの正真正銘の関心事として思い描いたものである、だから、紛れもない本物の「歴史」である。にせものは、こういうふうにして私たちを本物に出会わしてくれるのだと先生は言うのである。

 先生は、赤穂はにせものばかりだと言ったが、その道の専門家に訊くと、全部が本物だとはたしかに断言できない、が、全部がにせものと言ってしまうのも慎重でありたい、と言う。赤穂浪士の遺品は、ことごとく泉岳寺に収められたが、後に一部が外部へ出たことがわかっている、したがって、赤穂で見られる遺品も、どれかはわからないがどれかが本物である可能性がないではない、のだそうだ。
 この専門家の話を、先生に伝えることはできなかった、が、仮に伝えられていたとしても、先生はやはり全部がにせものだと言っただろう。先生の「ほんもの・にせもの展」という文章(同第21集所収)に、こういう一節がある。
 ――修練をつんだ眼には、ほんものは美しく、にせものは美しくないのである。……
 先生は、昭和十三年頃から十年ちかく、骨董の焼物に凝ったが、昭和三十年代の初めからは刀のつばに凝った。その鐔三昧の顛末は「鐔」(同第24集所収)に詳しいが、先生は、赤穂浪士の遺品も木像も、観光客の目で見たのではない、長年、焼物と鐔で修練をつんだ、小林秀雄の眼で見たのである。

(第五十一回 了)

★小林秀雄の編集担当者・池田雅延氏による、
   小林秀雄をよりよく知る講座

 日本の近代批評の創始者・確立者として大きな足跡を残した小林秀雄は、深い思索と気風(きっぷ)のよい文章で、人生の教師としても仰がれ慕われました。その小林秀雄の主要な作品を順次取り上げ、小林秀雄とともに人生を読み味わっていく集いです。

 2014年10月から始まったこの集いは、<天才たちの劇><文学を読むI><美を求めて><文学を読むII><歴史と文学><文学を読むIII><美を求める心><文学を読むIV>と6作品ずつ読んできて、今年の10月から始まった第9シリーズは<学問のよろこび>です。このシリーズは全3回の講義となります。

*日程と取上げる作品
( )内は、発表年月/当時の秀雄の年齢/新潮社刊「小林秀雄全作品」の所収巻

第3回 12月20日 信ずることと知ること (昭和50年3月/72歳/第26集)

昭和30年代のはじめから、夏に九州で国民文化研究会の主催による学生青年合宿教室がひらかれていました。小林氏はそこへ、36年に初めて招かれて以来、都合5回にわたって出かけ、全国から集まった数百人の若者たちに語りかけました。「信ずることと知ること」は、49年、鹿児島県霧島での第19回教室で行った講演が基になっています。現代人は、超能力や超自然的といわれる出来事について聞かされると、嘲笑するか無視するか、いずれにしても真面目に向きあおうとしない、そういう態度はいけないと言い、小林氏が終生敬愛したフランスの哲学者ベルクソンの講演「生きている人のまぼろしと心霊研究」や、民俗学者・柳田國男の「故郷七十年」「山の人生」を引いて、私たちはこういう現象にどう向きあうべきかを語りました。

☆時間は午後6時50分~8時30分を予定していますが、やむを得ぬ事情で変更する可能性があることをご了承ください。

※購入されたチケットは理由の如何を問わず、取替・変更・キャンセルはできません。ご了承ください。

※開場は開演の20分前です。

小林秀雄の辞書
1/10(木)18:30~20:30
新潮講座神楽坂教室

  小林秀雄氏は、日々、身の周りに現れる言葉や事柄に鋭く反応し、そこから生きることの意味や味わいをいくつも汲み上げました。2019年1月から始まったこの講座では、私たちの身近な言葉を順次取上げ、小林氏はそれらを私たちとはどんなにちがった意味合で使っているか、ということは、国語辞典に書いてある語義とはどんなにちがった意味合で使っているかを見ていきます。
 講座は各回、池田講師が2語ずつ取上げ、それらの言葉について、小林氏はどう言い、どう使っているかをまずお話しします。次いでその2語が出ている小林氏の文章を抜粋し、出席者全員で声に出して読みます。そうすることで、ふだん私たちはどんなに言葉を軽々しく扱っているか、ごくごく普通と思われる言葉にも、どんなに奥深い人生の真理が宿っているか、そこを教えられて背筋が伸びます。
 私たちが生きていくうえで大切な言葉たちです、ぜひおいでになって下さい。

1月10日(木)言葉/言霊
2月7日(木)信仰/自由
3月7日(木)無私/思想

参考図書として、新潮新書『人生の鍛錬~小林秀雄の言葉』、新潮文庫『学生との対話を各自ご用意下さい。

 今後も、知恵、知識、哲学、不安、告白、反省、古典、宗教、詩、歌……と取上げていきますので、お楽しみに。御期待下さい。

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考える人とはとは

何かについて考え、それが「わかる」とはどういうことでしょうか。

「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

“Plain living, high thinking”(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

池田雅延

いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。

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