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随筆 小林秀雄

 小林先生って、志ん生そっくりですね―。
 「新潮CD」で先生の講演を聴いた人たちは、皆が皆と言っていいほどにこう言ってくる。たしかに先生の語り口は、ふだんの酒席でもそうだったが、何かの会のスピーチや講演となるとますます志ん生そっくりだった。
 「志ん生」とは、落語の五代目古今亭志ん生である。明治二十三年(一八九〇)の生れで小林先生のちょうど一回り上、昭和四十八年(一九七三)九月に八十三年の生涯を閉じたが、「火焔太鼓」「三枚起請きしょう」などを十八番として絶大な人気を博し、「船徳」「心眼」などを得意とした八代目桂文楽とともに昭和落語界の双璧と謳われた。
 その志ん生に、小林先生はそっくりだった。どれほど「そっくり」だったか、それを後々まで伝えるに恰好の逸話がある。
 昭和五十一年の春先、「俘虜ふりょ記」「武蔵野夫人」などで知られる作家、大岡昇平さんの朝日賞受賞を祝う会が日比谷の東京会館で開かれた。大岡さんとは永年にわたって文学仲間であったこんさん、永井龍男さんも連れだって鎌倉から出てきたが、ずいぶん早くに着いてしまって開会までにはまだだいぶ時間があった。それならということで東京会館の一階で時間をつぶすことにし、ビールを飲みながらおしゃべりに興じていた。ところが、はっと気がついてみると、もう時間ぎりぎりになっている。慌ててエレベーターに乗り、階上に上がってエレベーターを降りた、すると、一席うかがっている志ん生の声が聞えてきた。
 「おいおい、大岡のやつ、豪気だよ、志ん生をんでるよ」
 「ほんとだ、大したもんだ、あいつにこんな芸当ができるとはね」
 「だけど、待てよ、志ん生は死んだんじゃなかったか?」
 「そうだ、志ん生は死んでる、じゃあ、あれ、誰だ」
 「小林だ!」
 「小林だ!」
 今さん、永井さんは、小林先生とは大岡さん以上に親しい文学づきあいを五十年来続けていたが、今さんは芝居に詳しく、永井さんは落語に詳しかった。二人とも志ん生の口演は何度も聴いていた。その今さん、永井さんが聞いてさえ、この日の小林先生の語り口は志ん生と聞き紛うばかりだったというのである。この顛末を、私は永井さんから直々に聞いた。

 小林先生は、大岡さんとはまた格別の間柄だった。大岡さんは七歳下で、先生は大岡さんが旧制高校の生徒だった頃にフランス語の家庭教師となり、以来、大岡さんは、中原中也をめぐる交友の場にも深く入り込んだが、戦後、大岡さんが「俘虜記」を書いて小説家となるにあたっても小林先生の存在は大きかった。そういう縁からこの日、先生は口明けの祝辞を頼まれていたのである。だが、この日の先生は、語り口だけではなかった、話の中身がまた絶妙だった。
 先生が鎌倉の扇ヶ谷に住んでいた三十代のころ、大岡さんはそこにもしょっちゅう出入りし、そのつど二人はしたたかに飲んで寝て、目が覚めるときまって近くの鉱泉宿へ行った。先生の祝辞は、その鉱泉宿通いを聞かせどころにした大岡さんとの思い出話だったのだが、それはもう「話」というより「噺」であり、大岡さんが八つあんにも熊さんにも見えてくるというほどの一席だった。

 だが、この「そっくり」は、単に先生の声や語り口が志ん生に似ていたと言うだけの「そっくり」ではない。一言で言えば、先生は志ん生が好きで、好きなればこその時間をかけて身につけた「そっくり」だったのである。

 この連載の第四十九回、「人間性が鳴り渡る」で登場してもらったコロムビアの増田隆昭さんは、同じ文章で、先生が落語好きであることを知り、クラシック音楽のレコードだけでなく、志ん生や文楽のレコードも届けたことを書いている。
 ―しかし、小林さんはだんぜん志ん生が好きだった。志ん生ならなんでもききたがった。それほどの大変な肩の入れようだったから、手に入れることのできる志ん生のレコードのあらかたを小林さんはきいて来られたはずだが、なかでも昭和四十五年に出た『古典落語 志ん生大全集』(コロムビア盤)の十枚を繰返し繰返しきいて楽しまれていた。
 その「志ん生大全集」の十枚には、「火焔太鼓」「替り目」から「付き馬」「子別れ」「文七元結もっとい」「品川心中」「三軒長屋」まで、二十を超える長短の噺が揃っていた。
 ―小林さんは、人物を語っても芸術を論じても、キビキビとした歯切れのよい調子で人を堪能させてくれる座談の名手だったが、酒が入ってベランメエ調で淀みなく声高に話されるのを聞いていると、ふとそこに志ん生そっくりな口跡に出くわして、思わず微笑を誘われたものだった。口調がそっくりになるほどきき込み、惚れこんでいたということになるのだろうか。
 そのいっぽうで、六代目三遊亭円生や三代目古今亭志ん朝など落語のレコードを数多く出し、小林先生の講演レコード「信ずることと知ること」も出したソニー・ミュージックの京須ともみつさんは、『芸術新潮』の二〇一三年二月号に「小林秀雄と志ん生」を書き、小林さんは文章の執筆にはリズムと間合いが必要だと言って音楽や煙草の効用を語っているが、音楽や煙草に頼れない講演では唇から発する自分の言葉自体にリズムを、音楽を含ませて、次の言葉を生むしかないと京須さんは言い、「そのためのヒントに、肥やしに、古今亭志ん生があったのではないか。志ん生の噺よりは、芸よりは、その話し方、聞き手への接し方、自分の伝え方…」、と言っている。

 先生は、文章を書くことを業とする者として、久しく話し言葉よりも書き言葉に精魂を傾けていた。が、「年齢」という文章(新潮社刊「小林秀雄全作品」第18集所収)で、
 ―人間は、その音声によって判断出来る、又それが一番確かだ、誰もが同じ意味の言葉を喋るが、喋る声の調子の差違は如何ともし難く、そこだけがその人の人格に関係して、本当の意味を現す、この調子が自在に捕えられる様になると、人間的な思想とは即ちそれを言う調子であるという事を悟る
 と書いた四十代の終り頃からは話し言葉の徳に目覚め、「本居宣長」を書き始めた昭和四十年前後、すなわち六十代にかかる頃からは講演も座談のように行うことを心がけていたが、そういう境地に達した先生に、志ん生はその道の達人として大きく意識されたのだろう。先生が「年齢」で言っている、「誰もが同じ意味の言葉を喋るが、喋る声の調子の差違は如何ともし難く、そこだけがその人の人格に関係して、本当の意味を現す」は、落語と落語家を念頭において言ったかとさえ思えるほどだが、それはともかくここで言われている「声の調子」、その声の調子で話す中身の伝わり方は一変する、そうであるなら声の調子の自在な操り手として格段の志ん生に学ぶ、志ん生を盗む、そういう情熱で志ん生を聴き続けた、と私はずっと思ってきた。その点で私の推量は、京須さんの言っていることに近かった。

 しかし今回、志ん生の「火焔太鼓」や「らくだ」、「子別れ」といったいくつかをじっくり聴き直し、増田さんと京須さんの文章を読み返しているうち、新たにはたと思い当ることがあった。
 先生は、志ん生に学ぼうとした、志ん生から多くのものを得ようとした、それはたしかにそうだったにちがいない、だが、先生のその情熱の拠って立つところには、先生の「好き」ということがあった。京須さんは、小林先生は講演を行う際の話し方、聞き手への接し方、自分の伝え方、そういった面で志ん生をヒントにも肥やしにもしたのではないかと言っていたが、だからと言って「小林秀雄が講演の“名人”をめざして志ん生を盗んだように思われては困る。小林さんは根っから落語を好む人だったのではないか」とも言っていた。
 また増田さんは、こう言っていた、「先生は志ん生を、口調がそっくりになるほどきき込み、惚れこんでいたということになるのだろうか…」、まさに、そのとおりだっただろう、私が新たに思い当ったというのもここである。先生は、志ん生に惚れこんでいた、その惚れこみ方は、この連載の第四十九回にも書いたようにルドルフ・ゼルキンのピアノに惚れこみ、ゼルキンの演奏にゼルキンの人間性が鳴り渡るのを聴いた、それと同じく志ん生の口跡に惚れこみ、その口跡に志ん生の人間性が鳴り響くのを聴いた、そのうち志ん生が志ん生の声と語り口に乗って先生に乗り移り、それがいつしか先生の声となり語り口となった。そういうことだったのではないだろうか。
 先生の「好き」は、どんなときでもそこまで行った。「本居宣長」でもそうだった。「本居宣長」の『新潮』連載が半ばを超えた頃から、作家や編集者の間でしばしばこういう会話が交された。
 ―「本居宣長」を読んでいると、小林秀雄が本居宣長を論じているのか、本居宣長が小林秀雄を論じているのか、区別のつかなくなることがある
 私自身、そういう錯覚に何度も陥ったが、「本居宣長」が単行本や文庫になってからも同じ声をたびたび耳にした。小林先生が、誰であれ何であれ、好きになったり必死でわかろうとしたときは、そこまで行ってしまうのである、行かないと気がすまないのである。だから、志ん生に対しても、先生は宣長にむかうのと同じ対い方をしていたにちがいない、この連載の第十六回で書いた意味合で言えば、先生は志ん生とっていたのである。

 先生は、志ん生はどれもいいが、なかでもやはり「火焔太鼓」が一番いいと言い、とりわけ大詰め、武家屋敷でもらってきた三百両を五十両ずつ亭主に見せられた女将が、最後の五十両を見せられるや「水を一杯!」と叫ぶ、あそこは絶品だと言っていた。これを私は二十五歳の年、七十歳の先生から聞いた。その七十歳を今の私は超えている。今回「火焔太鼓」を聴き直し、女将の動転と絶叫に志ん生の思想が噴き出ている、先生は、ここに志ん生の人生を聴いていたのだと思った。

(第五十二回 了)

★小林秀雄の編集担当者・池田雅延氏による、
   小林秀雄をよりよく知る講座

小林秀雄の辞書
2/7(木)18:30~20:30
新潮講座神楽坂教室

  小林秀雄氏は、日々、身の周りに現れる言葉や事柄に鋭く反応し、そこから生きることの意味や味わいをいくつも汲み上げました。2018年1月から始まったこの講座では、私たちの身近な言葉を順次取上げ、小林氏はそれらを私たちとはどんなにちがった意味合で使っているか、ということは、国語辞典に書いてある語義とはどんなにちがった意味合で使っているかを見ていきます。
 講座は各回、池田講師が2語ずつ取上げ、それらの言葉について、小林氏はどう言い、どう使っているかをまずお話しします。次いでその2語が出ている小林氏の文章を抜粋し、出席者全員で声に出して読みます。そうすることで、ふだん私たちはどんなに言葉を軽々しく扱っているか、ごくごく普通と思われる言葉にも、どんなに奥深い人生の真理が宿っているか、そこを教えられて背筋が伸びます。
 私たちが生きていくうえで大切な言葉たちです、ぜひおいでになって下さい。

2月7日(木)信仰/自由
3月7日(木)無私/思想

参考図書として、新潮新書『人生の鍛錬~小林秀雄の言葉』、新潮文庫『学生との対話を各自ご用意下さい。

 今後も、知恵、知識、哲学、不安、告白、反省、古典、宗教、詩、歌…と取上げていきますので、お楽しみに。御期待下さい。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

池田雅延

いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。

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