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随筆 小林秀雄

 今年も、先生の命日が近くなった。先生が亡くなったのは、昭和五十八年(一九八三)三月一日だった。以来、毎年、祥月しょうつき命日にお墓参りをされる先生の長女、白洲明子はるこさんのお供をして、私も欠かさずお参りしてきた。
 先生の墓は、鎌倉の東慶寺にある。東慶寺と言えば江戸時代の駆込寺として有名だが、今は西田幾多郎、鈴木大拙、和辻哲郎、野上弥生子、前田青邨、高見順…と多くの著名人が眠っていることでも知られている。先生の墓は、そういう著名人の墓が寄りあっている一郭からはすこし離れたところにある。先生が、ここをつい住処すみかとするに至った経緯はこうだった。
 先生は、昭和二十三年六月から鶴岡八幡宮裏手の通称「山の上の家」に住んだが、六十歳を過ぎた頃、山の上へ移るまで住んでいた扇ヶ谷の家に漫画家の那須良輔さんが住んでいることを知り、それが機縁となって那須さんとは毎週ゴルフに行ったり花見に行ったりしていた。その那須さんが東慶寺に墓を造ったと聞いて、俄然先生も東慶寺に墓を造りたくなった。そこで住職、井上禅定さんに墓地を分けてくれと頼んだ。井上さんとは、鎌倉の緑を守るための活動を共にするなど、特に親しい間柄だった。ところが…。ここから先は、先生の四十九日法要の席で、井上さんが披露した内幕である。
 ―小林さんに墓地をと言われましたが、そのときもう東慶寺に墓地は一ヵ所も残っていませんでした。残念ですが、と私は言いました。それから何日もしないうちです、小林さんはあそこにあるじゃないか、あれを売ってくれと言うのです。行ってみると、そこは墓地として整備した区画の後に残った窪地で、狭くて草に埋もれていました、しかし小林さんは、ぜひともここをと熱心に言います、その熱意に押されて承諾しました、こうして出来たのがあのお墓です。出来上がってみると、なるほど、いちばんいい墓になりました。あのお墓の前に細い水の流れがあります、その流れに小さな橋が懸っています、東慶寺で橋懸のある墓はあの小林家の墓だけです。
 そして、そこに据えられた墓石は、鎌倉時代の五輪塔である。先生は京都の古美術商、柳孝さんの店へもたびたび足を運んだが、この五輪塔は元は柳さんの店の奥の庭に置かれていた。先生はあるとき、柳さんの店へ行ってその五輪塔を目にし、しばらく柳さんと五輪塔談義を交した後にこれを譲ってくれないかと頼み、鎌倉の「山の上の家」へ運んでもらった。柳さんに細かく指図して伊豆大島を望む庭の一角に置き、応接間の椅子に坐って毎日眺めた。「あれを見ていると、気が休まる」と、機会あるごとに柳さんに言っていたそうだ。先生の第五次全集を出したとき、この五輪塔のことを柳さんに話してもらって別巻Ⅱの「無私を得る道」に収めた。同じ内容を、第六次の全集「小林秀雄全作品」の別巻3「無私を得る道(上)」でも読んでいただける。毎日眺めているうち、「この五輪塔の下なら入ってもいい、入りたいという気持ちがつのっていかれたのではないか」と柳さんは言っている。
 この墓へ、私は命日だけでなく、事あるごとにお参りした。第五次全集、第六次全集を造らせてもらったときなどは、四年にわたって毎月一巻、見本が出来るごとにお供えしに行った。これは、先生がお元気だった頃、第四次全集(「新訂小林秀雄全集」)の見本を月々お宅にお届けしたのとまったく同じ気持ちからだったが、こうして五輪塔の前で手を合せる私の耳に、先生が私に言われた最後の言葉、「池田君、我慢だよ、我慢だよ…」が何度も聞えた。私はこの言葉を、先生の私に対する遺言と思って心の支えにしてきた。それは同時に、この言葉を私に遺した先生の思いを汲み続ける日々でもあった。

 これまでにも書いたが、先生を囲む小人数の新年会は、鎌倉の「奈可川」でもつのが通例だった。昭和五十二年秋、先生が七十五歳で「本居宣長」の大仕事を終えられてからも、この年中行事に変りはなかった。しかし、五十七年一月、先生七十九歳の年の新年会が最後になった。その年、三月二十五日はゴルフに出かけたが、三十日、尿道痛を訴えて川崎市立川崎病院に入院、六月一日、慶応義塾大学病院に転院し、七月一日、大手術を受け、九月二十九日に退院された。
 こうして、結果的に五十七年の新年会が最後となったのだが、この新年会の席でも、酒の飲みっぷりと言い志ん生ばりの語り口と言い、先生はいつもの先生と変りはなかった。その先生の独演がひとまず山場を越えたかに思えたころだ、先生は、突然、末席にいた私に向って言われた、「池田君、我慢だよ、我慢だよ…」、唐突に、それだけだった。
 私は、とっさのことでもあり何を言われているかが判断できず、曖昧な受け答えをした。先生は、「そうか」と言って一杯あおり、そのまま話題を転じられた。先生の言葉に対して、「それはどういうことですか」などと問うことは禁句だった。大事な言葉は説明できない、直観で察知せよ、それが先生だった。

 以来、先生の入院中も、折にふれて先生の心意を推量し続けた。私は先生の前で、愚痴をこぼしたり泣き言を言ったり、会社を非難したりしたことは一度もない。したがって、先生の「我慢だよ」は、俗世の諭しや慰めではない。先生は、何か大事なことを言われたにちがいないのだ。「池田君」と、たしかに私の名を呼んで「我慢だよ」と言われたのだが、そのいっぽうであの「我慢だよ」には、先生が先生自身に言い聞かせようとしていたかと思われる響きもあった。
 その響きが、やはりそうだったのかも知れないと思えたのは、昭和五十八年三月八日、東京の青山斎場で営まれた先生の葬儀で永井龍男さんが弔辞を捧げ、次のような趣旨のことを読み上げたときだった。永井さんは、先生が受けた五十七年夏の大手術を「苦闘」と言い、早く元気な顔を見せてほしいと心待ちにしていたが、―あなたは病床で、「我慢だ」「我慢だ」と、しばしば独語されたと附き添った人から聞きました…。
 あの新年会では、いつもと変りないように見えた先生だった。しかし、川崎病院への入院は、それから二カ月ほど後のことである。だとすれば、新年会の頃すでに、先生は身体の痛みをひそかにこらえ、「我慢だ、我慢だ」と自分自身に言い聞かせていたかとは考えられる。だが、そういうふうに解してみても、いまひとつ腑に落ちなかった。先生は、あの新年会の席ではふだんとまったく変らなかったのだし、第一先生はそれこそ我慢強く、自分の泣き所を人に漏らすどころか悟られることさえ潔しとしない人だったからである。

 それが、先生の葬儀が終って、青山斎場を出たときだった。
 殿しんがりの吉村は、銃声の聞える鷲家わしかぐちに、遮二しゃに無二むに、モッコを急がせながら、痛む傷口を抑えて、「辛抱せよ、辛抱せよ、辛抱を押したら世は代わる、それを楽しめ」と人夫たちに言いきかせた。
 という、安岡章太郎さんの歴史小説「流離譚」の一節が閃いた。「吉村」はその中心的登場人物のひとりで、吉村虎太郎である。幕末の土佐に生れ、討幕を画策して天誅組を組織し旗上げするが、諸藩連合軍の追討を受けて敗死する。
 その吉村が、下腹部に受けた弾丸による傷が破傷風になり、出血が止まらないままモッコに乗せられ、人夫にかつがれて進軍する。その人夫たちに吉村は、「辛抱せよ、辛抱せよ」と言うのである。先生が私に言った「我慢だよ、我慢だよ」は、ここだと思った。新年会が始ってすぐ、「流離譚」のことが話題に上っていた、だが先生は、それからしばらく別の話題で熱弁をふるい、一息入れて突然、「我慢だよ」と私に言ったのだ。安岡さんの小説の「辛抱」を、先生は「我慢」と言った、そのためだっただろう、「我慢」がすぐには「辛抱」に結びつかなかったのである。
 「流離譚」は、昭和五十一年三月から五十六年四月まで『新潮』に連載され、五十六年十二月に新潮社から刊行された。先生は、「流離譚」の刊行を前にして「『流離譚』を読む」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集所収)を書き、『新潮』の五十七年一月号に発表していた。「奈可川」での新年会の一と月余り前である。そしてその「『流離譚』を読む」で、先生は特に力をこめて吉村の言葉に言及していた。
 ここから推せば、先生の「我慢だよ」は、先生が吉村虎太郎と一心同体になって自分の身体の痛みに耐えようとした言葉だったかとやはりまず思えてくる。そして肉体の苦痛に耐えると同時に、精神の疼痛にも耐えようとしていた言葉だったと思えてくる。疼痛は、吉村が言った「辛抱を押したら世は代わる」の「世」から来ていた。戦後日本の思想界、言論界、文学界という「世」、自分の才学をひけらかすことだけに忙しい輩が次々現れて闊歩する昭和の「世」に向けた先生の憤りは何年も続いていた。こういう「世」であってはならない、即刻代えなければならない…、この憂悶と気の逸りが先生自身に対して「我慢だよ、我慢だよ」と言わせ、先生と同じ世界に身をおいて、これからますます苦労するであろう私に「我慢だよ、我慢だよ」と言われたにちがいなかった。私はその年、三十五歳だった。
 「『流離譚』を読む」が、先生が公にした最後の文章になった。先生は、安岡さんの小説の「辛抱」を「我慢」と言ったが、これは先生の単なる言い換えではない。先生の生き方全体に照らしてみれば、同じ「たえしのぶ」でも先生は「辛抱」する人ではなく、「我慢」する人であった。

(第五十三回 了)

★小林秀雄の編集担当者・池田雅延氏による、
   小林秀雄をよりよく知る講座

小林秀雄の辞書
3/7(木)18:30~20:30
新潮講座神楽坂教室

  小林秀雄氏は、日々、身の周りに現れる言葉や事柄に鋭く反応し、そこから生きることの意味や味わいをいくつも汲み上げました。2018年1月から始まったこの講座では、私たちの身近な言葉を順次取上げ、小林氏はそれらを私たちとはどんなにちがった意味合で使っているか、ということは、国語辞典に書いてある語義とはどんなにちがった意味合で使っているかを見ていきます。
 講座は各回、池田講師が2語ずつ取上げ、それらの言葉について、小林氏はどう言い、どう使っているかをまずお話しします。次いでその2語が出ている小林氏の文章を抜粋し、出席者全員で声に出して読みます。そうすることで、ふだん私たちはどんなに言葉を軽々しく扱っているか、ごくごく普通と思われる言葉にも、どんなに奥深い人生の真理が宿っているか、そこを教えられて背筋が伸びます。
 私たちが生きていくうえで大切な言葉たちです、ぜひおいでになって下さい。

3月7日(木)無私/思想

参考図書として、新潮新書『人生の鍛錬~小林秀雄の言葉』、新潮文庫『学生との対話を各自ご用意下さい。

 今後も、知恵、知識、哲学、不安、告白、反省、古典、宗教、詩、歌…と取上げていきますので、お楽しみに。御期待下さい。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

池田雅延

いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。

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