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たいせつな本 ―とっておきの10冊―

 ふと、人生に迷うときがある。もちろん、日頃もとくに確信を持って生きているわけではない。とはいえ、目の前のことだけをなんとかしのぐだけの日々が続くと、どうしても「これでいいのかな」と思ってしまう。いい歳のおじさんが悩んでも仕方がない、ともかくなすべき仕事をするだけだと、自分に言い聞かせるのだけれど。
 そんなとき、ふと本棚を眺めることがある。日々の仕事で使う本でもないし、かといってリラックスするためのお楽しみの本でもない、ちょっと特別な、自分のための本のコーナーがある。
 このコーナーを作ったのはいつの頃だったか。間違いなくだいぶ前のことだけど、それから本はあまり変わっていない。並んでいるラインナップを眺めて、なるほど、このときはこういう本が好きだったのだなとあらためて思う。パラパラ読んでいると、そのときの記憶が甦える。
 思わず、「いいなあ」という言葉が浮かんでくる。そうそう、こういう本に憧れて、自分は研究者人生に進んだのだった。いま読んでみても、良い本ばかりが並んでいる。若い頃の自分の方が、ひょっとしたら骨があったのかもしれない。このときの思いの何分の一かでも、これまでの研究者人生で実現してきたと言えるかなあ、、、などと、ただでさえ忙しいのに、さらに遠い目をしてしまう。でも、これらは自分の背筋を伸ばしてくれる大切な本だ。ちょっとだけ、中身を紹介したい。
 例えば、アーレントの『過去と未来の間』は自分が研究者になりたての頃に読んだ本だ。この本でアーレントは、シャールの「われわれの遺産は遺言一つなく残された」という言葉に言及し、これをトクヴィルの「過去がその光を未来に投げかけるのをやめたので、人びとの精神は暗がりのなかをさまよっている」という言葉と比べている。
 そう、この感覚だ。前に進むためには、むしろ過去から押してもらうことが大切だ。なのに、その過去からの光が見えにくくなってしまったらどうなるか。振り返るべき過去も、進むべき未来も見えない。ただ、「暗がり」だけが拡がっている。でも、この感覚こそが現代社会であり、僕らの思考だ。そこからスタートするしかない。

過去と未来の間―政治思想への8試論

ハンナ・アーレント/斎藤純一・引田隆也訳

1994/9/8発売

 オーウェルも好きな書き手の一人だ。それも『一九八四年』や『動物農場』などの主要作品ではなく、彼がこよなく愛した短いコラムを読む方が、なんとなく元気が出てくる。そんなコラムには、知を愛し、ちょっと茶目っ気があり、それでも勇気を持って「政治的」であり続けようとするオーウェルの姿がうかがえる。彼は「自分の政治的な立場についての自覚が深まれば、それだけ、政治的に動いても美や知性にかかわる誠実さを犠牲にしないですむようになる」と説く一方で、「命があって健康なかぎりは、いつになっても文体に執着し、現世を愛し、内容のある具体的なことか、実益のない知識の断片を楽しむ性癖は変わらないだろう」という。そうそう、僕もそうして生きていきたい。

オーウェル評論集

ジョージ・オーウェル/小野寺健編訳 

1982/4/16発売

 竹内好の『魯迅』もいい。ここで竹内は「掙扎そうさつ」という珍しい言葉を使っている。「魯迅のやり方は、こうである。彼は、退きもしないし、追従もしない。まず自己を新時代に対決せしめ、『掙扎そうさつ』によって自己を洗い、洗われた自己を再びその中から引き出す」。さらに次のようにもいう。「『文学は無用だ。』これが、魯迅の根本の文学観である。しかし、その無用の文学のために青春の歳月を古典研究に消磨しょうましたものは彼である」。

魯迅

竹内好

1994/9/6発売

 ここには戦争の時代を生きた若い中国文学者である竹内の思いが、魯迅に託されているのだろう。「無用」の文学に、「無用」だからこそこだわる。そして「掙扎そうさつ」によって自己を鍛える。竹内の盟友であった武田泰淳もまた、『司馬遷』において、偉大な歴史家としてではなく、宮刑を受けた男として司馬遷を描いている。「司馬遷は生き恥をさらした男である」という最初の一文が、ともかく印象的だ。恥ずかしくて、死んでしまった方がまだ楽だったかもしれない。それでも歴史を書き続けた司馬遷の凄みこそ、武田は書きたかったのだろう。

司馬遷

武田泰淳

1997/10/9発売

 さらに藤田省三の『精神史的考察』に手を伸ばすと、こんな言葉が目に飛び込んでくる。「生き方についての精神的骨格が無くなった社会状態は十分な意味ではもはや社会とは言い難い。一定の様式を持った生活の組織体ではないからである。それはむしろ社会の解体状態と言った方がいい姿なのである。そうして、そういう時にこそ得てして社会の外側から『生活に目標を』与えてやろうという素振りをもって『国家のため』という紛いの『価値』が横行し始める」。
 う〜ん、自分に精神的骨格はあるのだろうか。そして、いまの日本社会に精神的骨格はあるのだろうか。自信がなくなる。そして精神的骨格のない社会は社会でないという言葉が突き刺さる。そう、そんなときにこそ、外から「目標」が与えられ、それに右往左往させられるのだろう。いまの自分たちの姿そのものという気もする。

精神史的考察

藤田省三

2003/6/1発売

 堀田善衛の『方丈記私記』は、東京大空襲の焼け跡を中世の動乱による荒廃と重ね合わせることから始まる。世は乱れ、すべては焼け、地震と火災と大風が人々を襲う。ところが政治は変わらない。無責任な貴族政治について語りつつ、堀田の目には同時代の政治家があったのだろう。それでも人々は、その「優しさ」ゆえに、無責任な政治を放置してしまう。堀田は呟く。
 「人々のこの優しさが体制の基礎となっているとしたら、政治においてその結果責任もへったくれもないのであって、それは政治であって同時に政治ではないということになるであろう。政治であって同時に政治ではないという政治ほどに厄介なものはない筈である。このケジメというもののない厄介きわまりないものの解明に、おそらくは日本の政治学はその全力を注いでいるものであろうと、私など門外漢は推察をするだけである」。
 どうなのか。日本の政治学は「その全力を注いでいる」のか。自分の胸に手を当てて考えてみる。

方丈記私記

堀田善衛

1988/9/1発売

 最後に山崎正和の『鷗外 闘う家長』から。津和野を出て、軍医として、文学者として労多き人生を送った鷗外は、その役割に完全に同一化することも、さりとて「子」の立場に止まることもできなかった。そのような鷗外があえて「家長」としての役割を担い、そのようにふるまったことを振り返りつつ、山崎はいう。
 「世界のパースペクティブがあちこちで綻び始め、現実が誰の目にもしだいに疎遠に見え始めたこの時代に、鷗外に課せられた問題はますます多くのひとびとの肩にのしかかっている。だが、それを解くためにひとびとは彼がたどり着いたところから始めるわけには行かず、ひとりひとりの生活を背負って彼が始めたところから歩きなおさなければならないであろう」。
 そう、歩きなおさなければならない。少しだけ背筋をピンと伸ばして、前に進もう。

鷗外 闘う家長

山崎正和

1980/7/1発売

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

宇野重規

うのしげき 1967年、東京都生まれ。政治学者。東京大学社会科学研究所教授。主な著書に、『トクヴィル 平等と不平等の理論家』(サントリー学芸賞受賞)、『〈私〉時代のデモクラシー』、『保守主義とは何か』、『未来をはじめる―「人と一緒にいること」の政治学』など。


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