シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
知の楽しみにあふれたWebマガジン。
 
 

たいせつな本 ―とっておきの10冊―

2024年4月26日 たいせつな本 ―とっておきの10冊―

(20)批評家・酒井信の10冊

松本清張はよみがえる!「嫉妬」と「格差」の時代を生き抜くための10冊

著者: 酒井信

松本清張『半生の記』(新潮文庫)
松本清張『西郷札 傑作短編集(三)』(新潮文庫)
松本清張『或る「小倉日記」伝 傑作短編集(一)』(新潮文庫)
松本清張『点と線』(新潮文庫)
松本清張『無宿人別帳』(文春文庫)
松本清張『ゼロの焦点』(新潮文庫)
松本清張『日本の黒い霧』上下(文春文庫)
松本清張『球形の荒野』上下(文春文庫)
松本清張『砂の器』上下(新潮文庫)
松本清張『Dの複合』(新潮文庫)

 週刊誌をめくり、ワイドショーにチャンネルを合わせれば、現代でも松本清張(1909~1992)が描いたような「嫉妬」や「復讐心」、「格差」や「生きづらさ」に起因する事件が、数多く報じられていることが分かる。私が『松本清張はよみがえる 国民作家の名作への旅』(西日本新聞社)を書いたのは、清張作品が持つ「現代的なリアリティ」に着目し、没後30年を超えてもなお根強い人気を持つ「清張作品の禍々しい魅力」に迫りたかったからである。

1. 松本清張『半生の記』(新潮文庫)

 1冊目の『半生の記』は、創作的なエピソードを含む「自伝的小説」である。松本清張が作家になった「動機」を、作家になる以前の半生を通して実感できる内容と言える。松本清張は、高等小学校を卒業後、印刷画工として働き、30歳を超えて朝鮮半島で兵卒として従軍し、41歳で作家となった。戦前・戦後の困難な時代を、前向きに生き抜き、国民作家となった清張は、まぎれもなく「叩き上げの作家」だった。

2.松本清張『西郷札 傑作短編集(三)』(新潮文庫)

 2冊目の『西郷札 傑作短編集(三)』は、デビュー作「西郷札」を含む短編集である。松本清張は「生活」のため「週刊朝日」の「百万人の小説」に「西郷札」を応募し、三等(賞金10万円)での入選でデビューを果たす。詳細は『松本清張はよみがえる』に記したが、1951年の10万円は、現在の金額で約393万円(2023年の国家公務員・初任給換算)の価値があった。この作品は、題材の面白さ、重層的な時間の構成、意外性のある物語展開など、作家を志す人間にとって模範となる「成熟したデビュー作」と言える。

3.松本清張『或る「小倉日記」伝 傑作短編集(一)』(新潮文庫)

 3冊目の『或る「小倉日記」伝 傑作短編集(一)』は、「西郷札」が直木賞の候補となり、「三田文学」の依頼で記した、芥川賞受賞作「或る「小倉日記」伝」を含む短編集である。「或る「小倉日記」伝」は当初、直木賞の候補に挙がったが、松本清張のエッセイ「あのころのこと」によると、当時、直木賞選考委員だった永井龍男が「これは芥川賞むきだから」と芥川賞の選考委員会に回し、芥川賞の選考委員だった坂口安吾や川端康成、佐藤春夫などの高い評価で、芥川賞を受賞した。この作品の女性版と言える「菊枕」や、父方のルーツに迫った「父系の指」など、松本清張の初期の短編には純文学寄りの作品が少なくない。

4.松本清張『点と線』(新潮文庫)

 4冊目の『点と線』は、松本清張が国民作家となる礎を築いた出世作である。日本交通公社が刊行していた雑誌「旅」に掲載された後、1958年に単行本として刊行され、ベストセラーとなった。作中に登場する特急あさかぜは、新幹線の開通まで日本の鉄道旅行を象徴する列車で、この年に冷暖房を有する20系寝台客車が投入されブルートレイン・ブームを巻き起こした。『点と線』は、時代を象徴する特急「あさかぜ」や急行「まりも」を小説の中心に据え、鉄道旅行の魅力を伝えつつ、高度経済成長が引き起こした、様々な「格差」や「矛盾」を体感させる名作である。霞ヶ関の役人の汚職事件を描いた「官僚小説」でもあり、清張の社会派ミステリの原点と言える作品でもある。

5.松本清張『無宿人別帳』(文春文庫)

 5冊目の『無宿人別帳』は松本清張の時代小説の代表作で、江戸時代に追放刑を受けたり、勘当されたりなどの理由で居住地を追われた人々を主人公とした作品である。『半生の記』によると、清張は登場人物たちの姿に、身を持ち崩して木賃宿で寝泊まりしていた頃の父親の姿を重ねたらしい。また清張は1929年にプロレタリア文学に傾倒していた友人がいたことで、「思想犯」として特高に捕まえられ、小倉警察署で拷問を受けた経験があり、本作にはこの時の辛い経験も投影されている。10の短編から成る『無宿人別帳』の舞台は、佐渡や石川島、八丈島など様々だが、無宿人たちが最も恐れた佐渡の金銀山を舞台にした短編が中核を成す。松竹配給の映画版には、渥美清と三國連太郎が出演しており、「男はつらいよ」と「釣りバカ日誌」が「獄門島」で合体したような雰囲気がある。

6.松本清張『ゼロの焦点』(新潮文庫)

 6冊目の『ゼロの焦点』は能登半島を舞台にした社会派ミステリで、映画版も二度製作され、何れも注目を集めた。『点と線』や『眼の壁』などの先行作で展開された「時刻表トリック」や「人物の入れ替えトリック」が洗練され、東京の立川で米兵相手に売春を行っていた女性たちのその後の人生が、奥行きのある時間の中で展開されている。1961年の映画版は、監督が野村芳太郎、脚本・脚色が橋本忍と若き山田洋次で、日本海沿いの断崖を舞台にした「崖っぷちのクライマックス・シーン」など、後に日本のサスペンス映画やドラマで多用される演出の原型を作った。本作は高度経済成長期に華やかな生活を送る人々の「戦前・戦後の闇」を浮き彫りにした作品で、清張が「ブラック清張」と呼ばれるきっかけとなった作品でもある。

7.松本清張『日本の黒い霧』上下(文春文庫)

 7冊目の『日本の黒い霧』は、新安保条約が強行採決され、反対派の大規模なデモが起こった1960年に月刊誌「文藝春秋」に連載されたノンフィクション小説である。前年に記された『小説帝銀事件』の筆致をより洗練させ、下山事件や松川事件など戦後日本で起きた未解決事件に独自の解釈を加えた。全体を通して、民主化と反共化の間で揺れるGHQの内部抗争を炙り出した点が興味深い。戦後日本のタブーに切り込んだ松本清張らしい「問題作」で、新聞が報じない「タブー」に切り込む「文春ジャーナリズム」の礎を築いた作品と言える。

8.松本清張『球形の荒野』上下(文春文庫)

 8冊目の『球形の荒野』は、松本清張にとって珍しい「戦争小説」である。スイスに駐在していた海軍武官・藤村義朗中佐が、後のCIA長官、アレン・ダレスを介して終戦を模索した「ダレス工作」を下地に、伝説の外交官・野上顕一郎の数奇な人生を描く。松本清張は兵卒で従軍したこともあってか、戦時中の経験について、身近な人々にほとんど語っておらず、戦争を題材とした小説が、意外にも少ない。本作は京都の東山や奈良の古寺を舞台に、戦前・戦後の歴史を描いた重厚な内容で、一般の知名度こそ低いが、松本清張の隠れた名作と言える。横須賀市の観音崎を舞台にしたラストシーンが印象深く、「カラス、なぜなくの/カラスは山に/かわいい七ツの子があるからよ」と野上が歌うシーンに、松本清張が戦時中に抱いていた「子供たちへの愛情」がにじみ出ている。

9.松本清張『砂の器』上下(新潮文庫)

 9冊目の『砂の器』は、松本清張の代名詞と言える作品であり、日本各地の「風土と訛り」を小説の下地に織り込むことの多い清張作品の特徴を完備した傑作である。野村芳太郎監督の映画版が、全国ハンセン氏病患者協議会から、患者の描写について問題提起を受けたため、映画の最後に次の字幕が挿入された。「ハンセン氏病は、医学の進歩により特効薬もあり、現在では完全に回復し、社会復帰が続いている。それを拒むものは、まだまだ根強く残っている非科学的な偏見と差別のみであり、戦前に発病した本浦千代吉のような患者は日本中どこにもいない」と。映画版は国内外で高い評価を受け、特に中国では、改革開放後に公開された外国映画の一つとして大ヒットした。脚本を担当した橋本忍によると、この時の中国での観客動員数は1億4千万人に達したらしい(「清張映画の真髄 伝説の脚本家が語る現場秘話」)。映画版との相乗効果で『砂の器』は清張作品の中で屈指のベストセラーとなった。

10.松本清張『Dの複合』(新潮文庫)

 10冊目の『Dの複合』は浦島伝説、羽衣伝説、補陀落(ふだらく)伝説を下地にした旅行ミステリで、古代史の教養をもとに「戦前に起きた事件」の真相に迫る、隠れた名作である。『点と線』の続編は、北九州市・門司の和布刈(めかり)神社を舞台にした『時間の習俗』だが、『Dの複合』はその更に続編で、「点と線・三部作」の完結編だと私は考える。「鉄道ミステリ」らしく天橋立駅から京都府京丹後市の木津温泉へ向かう列車の中からはじまり、主人公の作家・伊瀬は『点と線』が大ヒットして売れっ子になる前の清張自身をモデルにしている。古代の伝承、鉄道旅行、戦前の血なまぐさい事件など、清張作品らしいモチーフが凝縮された内容で、ベストセラー小説を数多く世に送り出した松本清張らしい、成熟した推理小説の技法が感じられる。現代小説としても新しい表現に満ちた作品で、未読の清張ファンに強くお勧めしたい一冊である。

 10冊で物足りない読者には、拙著『松本清張はよみがえる』で50作品を詳しく論じているので、手に取って頂ければ幸いである。映像化された推理小説を中心に、戦後のメディア史に大きな足跡を残した作品を数多く取り上げているので、映画版・ドラマ版の清張作品のガイドブックとしても楽しめると思う。

 平成不況と新型コロナ禍を通して、所得や教育、居住地や家庭環境の格差が広がった。このような時代にこそ、松本清張は再評価されるべき「叩き上げの国民作家」だと私は考える。このコラムや拙著を通して、「嫉妬」や「復讐心」、「格差」や「生きづらさ」に根差した清張作品の「現代性」と「禍々しい魅力」に関心を持ってもらえると嬉しい。

 

この記事をシェアする

ランキング

MAIL MAGAZINE

「考える人」から生まれた本

もっとみる

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき
  •  

考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

酒井信

1977年、長崎市生まれ。明治大学准教授。早稲田大学卒業後、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科後期博士課程修了。博士(政策・メディア)。慶應義塾大学助教、文教大学准教授を経て現職。専門は文芸批評・メディア文化論。著書に『現代文学風土記』『吉田修一論:現代小説の風土と訛り』『メディア・リテラシーを高めるための文章演習』『松本清張はよみがえる:国民作家の名作への旅』など。2024年6月から 西日本新聞で、新連載「松本清張がゆく 西日本の旅路」(仮題)を担当予定。


ランキング

イベント

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき

  • ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号第6091713号)です。ABJマークを掲示しているサービスの一覧はこちら