考える人

シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
知の楽しみにあふれたWebマガジン。
 
 

やりなおし世界文学

2019年3月25日 やりなおし世界文学

(4)罪に晒されたその後の物語——ホーソーン『緋文字』

著者: 津村記久子 100%ORANGE

 そういうことはナサニエル・ホーソーン。二十年以上前、ふと頭によぎった「そういうことはなさそう」を言い換えたナメクジ並みの物言いなのだが、これが頭をよぎり続けて二十年以上が経過し、未だ衰える気配もない。しかしホーソーンの本は一冊も読んだことがないという罰当たりさかげんだったので、この先安らかにこのフレーズを頭に通すためにはいいかげん読んでおけ、ということで本書を読んだ。
 小説は開拓時代のアメリカ、ニューイングランドのボストンで、一人の若い女性が赤ん坊とともに処刑台の上でさらし者になっているという衝撃的な場面から始まる。ヘスター・プリンという彼女は、イギリス生まれでずっとアムステルダムに住んでいたというある人物の奥さんであり(へスターもイギリス人)、新大陸に渡る予定だった彼が彼女を先に派遣した後、二年の間音信を寄越さないでいるうちに、現地で別の男性と恋に落ち、子供をもうけたという不倫の罪で刑罰を受けている。子供の父親の名前の告白をへスターは頑として拒んでいるため、同じようにさらし者になるはずだったその男性は刑を免れている。へスターは罪の証として、着ている服の胸元に赤い「A」の文字を常に明示せよと命じられる。それを見ると人々は、あああのさらし者にあってたふしだらな人ね、すぐさま気が付けるという寸法である。物語が主に描くのは、さらし者になった上に常に緋文字を身に付けなくてはならなくなり、町の人々の中で特異な存在として暮らさざるを得なくなるへスターのその後の人生と、彼女とその罪を共有している男というのは誰で何を思って生きているのかということと、実は町にやってきて住んでいるへスターの夫の忍ぶような復讐の過程である。
 ヘスターは、目に見える排除要素である緋文字に不便や被差別を強いられながらも生きていくことになる。実際、幼い娘のパールを抱えながら、針仕事で生計を立てて町外れの家で生きていくヘスターの姿は、不義密通の刑罰を受けた人という以上に、アメリカの開拓時代のシングルマザーの生活を詳しく描いていると言っても良い。処刑台でさらされる彼女の服に縫いつけられた「A」は「上等の赤い布に、金糸で手のこんだ刺繍と風変りな飾りをまわりにつけ」た芸術的なもので、ヘスター自身が縫いつけたものだったのだが、はからずもこれがプレゼンテーションのようなものになってしまったのではないか、という具合に、彼女は針仕事で自分と娘の生活を支えるほどには成功し、評判にすらなる。そして不運な人々のために衣類を作り施す。しかし、知事のひだ襟を飾ったり、赤ん坊の帽子を作ったりとさまざまな仕事が来る中、花嫁の白いヴェールを刺繍するという仕事だけは来ず、町の人々はやはり彼女の罪を忘れない。ヘスターは、自力で職業人としての居場所を獲得することはできても、社会の一員としての居場所を与えられることはないのだった。町の人には嘲られるし、安息を求めて教会に入ると自分の不幸なできごとが説教に出てくる。悲しい有名人ぶりを生きなければいけないヘスターは、あまりにも明確な「A」の印を見せっぱなしでいなければいけない故に、初対面の人に見つめられてもつらいし、慣れている人に冷たく見られるのもつらい、という非常に独特な苦痛を味わうことになる。
 本書は不倫をしました、刑罰を受けました、ということが終わりではなく、むしろ始まりなのだという小説であることはおそらくおわかりになられていると思うのだけれども、より独自なのは、不倫をされた側の男であるヘスターの元夫も新大陸に姿を現し、ヘスターとその密通の相手の周りをうろうろするという不思議な筋書きである。優秀な医者であるその男チリングワースは、ことさらにヘスターを責め立てるということはなく穏やかな印象の人物なのだが、ヘスターとその不倫相手を静かに追いつめてゆくことをライフワークにしているかのような行動をとり続けることになる。
 チリングワースは、徳も知性も高い若い牧師ディムズデイルの病を治療するよう同居することになる。おそらく有名なことなので書いてしまうけれども、ヘスターの不倫の相手はこのディムズデイルで、彼が病んでいる理由は「罰されなかった」ということにある。ディムズデイルは雑駁に言うとかなり変な人で、ヘスターと共にさらし者になることを免れてしまった自分の新たな罪について日夜さいなまれ、もうみんなに言ってしまおうと「私は、汚れはてた嘘つきなのです!」と説教壇から告白しようものなら、その罪深さを認める態度ゆえに「神様のような青年だ!」とますます尊敬されてしまうという間抜けな状況に立たされている。その結果、ますます悩みは深くなり、自分で鞭打ちはするし断食はするし、体も弱っていく。夜中にヘスターが立たされた処刑台のところにやってきて、罪悪感にさいなまれるあまり叫び声をあげてしまい、それがあまりにもでかかったので「やってしまった! 見つかる!」と焦る場面に関しては、もはや「アホそう」とメモに書いていた。ディムズデイルは「私は嘘つきです」というのはやぶさかではなく、それで許されたいと思っているけれども、嘘の内容についてちゃんと話すことはできない、というわたしたちもよくやる欺瞞をずっとやっている。
 罪を認めて自活し、徳を高めてゆくヘスターと、良い医者だったのに妻とその不倫相手を苦しめたいと思うあまり精神的に堕落してゆくチリングワース、罪を免れた故に苦しむディムズデイルという三者は、どのような結末を迎えるのか。処刑台の上で赤ん坊だったヘスターの娘パールが七歳になる頃には、ヘスターは施しを続けていることが認められ、慈善の修道女のように見なされている。緋文字のAは「able」のAとして捉えられ、ヘスターは、「刺繍をした印をつけている女の人があそこにいるでしょう? あれは私たちのヘスターさんですよ」とまで言われる存在になっている。ディムズデイルは罪に問われないまま苦しみ抜き、新大陸を離れてヨーロッパに逃げようというヘスターの提案を聞き入れようとするのだが。
 やむをえない不倫の是非はおいておくとして、罪は認めた方が救われるのか、逃れたほうが楽なのか、というごく単純な問いから、人間自身が作り出した罪という概念により苦しめられ、成長する人間たちのドラマが立ち上がってくる。罪を認めたことがその人を強くし、罪悪感にさいなまれることがその人の徳を高める、という矛盾を、ヘスターとディムズデイルが生きていくことを読む小説でもあると思う。読んでいる間、どうして人間たちが自分たちの定めたルールでここまでに苦しむのかということが不思議でならなかった。罪を犯すことが人の人生を豊かにするとは言わない。けれども、罪について考えることは、おそらく間違いなく人間の心に奥行きを与える。「そんなものには手を付けたことがない」と言うことは簡単だけれども、人間は罪の存在を知らずには生きていけないし、それについて考えずには成長できないのだ。
 ディムズデイルが思わず処刑台に立ってしまったところに、ヘスターとパールの親子が通りかかり、三人で処刑台に立つ場面には、説明しようのない感動がある。空にはAの文字が現れ、ある墓掘り男はそれを「angel」のAだと思う。自分は罪を犯していないものの、ヘスターとディムズデイルの罪に執着し続けるチリングワースの末路も興味深い。自ら作り出した罪に蝕まれてゆくようなチリングワースの在り方には、実は最も多くの、潜在的に誰かを裁きたくて仕方がない人々の罪が含まれているような気がする。

『緋文字』(新潮文庫)
ナサニエル・ホーソーン/鈴木重吉訳

とにかくうちに帰ります

とにかくうちに帰ります

津村記久子

2019/06/20発売

うちに帰りたい。切ないぐらいに、恋をするように。豪雨による帰宅困難者の心模様を描く表題作ほか、それぞれの瞬間がはらむ悲哀と矜持、小さなぶつかり合いと結びつきを丹念に綴って、働き・悩み・歩き続ける人の共感を呼びさます六篇。

この記事をシェアする

MAIL MAGAZINE

7

12

(Thu)

今週のメルマガ

岡田利規作・演出の『NO THEATER』を観た! 惚れた! (No.776)

7月12日更新 Vol.10 学びの円環 ドミニク・チェン 7月10日更新 夢見るサルレーダー 松原始 7月9 […]

「考える人」から生まれた本

もっとみる

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 仕事
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき

考える人とはとは

何かについて考え、それが「わかる」とはどういうことでしょうか。

「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

“Plain living, high thinking”(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

津村記久子
津村記久子

1978(昭和53)年大阪市生まれ。2005(平成17)年「マンイーター」(のちに『君は永遠にそいつらより若い』に改題)で太宰治賞を受賞してデビュー。2008年『ミュージック・ブレス・ユー!!』で野間文芸新人賞、2009年「ポトスライムの舟」で芥川賞、2011年『ワーカーズ・ダイジェスト』で織田作之助賞、2013年「給水塔と亀」で川端康成文学賞、2016年『この世にたやすい仕事はない』で芸術選奨新人賞、2017年『浮遊霊ブラジル』で紫式部文学賞を受賞。他の作品に『アレグリアとは仕事はできない』『カソウスキの行方』『八番筋カウンシル』『まともな家の子供はいない』『エヴリシング・フロウズ』『ディス・イズ・ザ・デイ』など。

連載一覧

対談・インタビュー一覧

100%ORANGE

イラストレーター。及川賢治と竹内繭子の2人組。東京都在住。イラストレーション、絵本、漫画、アニメーションなどを制作している。イラストレーションに「新潮文庫 Yonda?」「よりみちパン!セ」、絵本に『ぶぅさんのブー』『思いつき大百科辞典』『ひとりごと絵本』、漫画に『SUNAO SUNAO』などがある。『よしおくんが ぎゅうにゅうを こぼしてしまった おはなし』で第13回日本絵本賞大賞を受賞。

連載一覧


ランキング

イベント

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 仕事
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき