今年の4月、2年ぶりにソマリランドの首都ハルゲイサへ行った話の続きである。
3日目の晩、アクシデントに見舞われた。
いつものように、現地のジャーナリスト連中と一緒に「覚醒植物カート」をたらふく食べた。気分良く午後のひとときを過ごし、ホテルに帰って11時頃眠りについた。
午前2時過ぎ、尿意を催し、トイレに立って用を済ませた。そのとき、ちょっと目眩がして、貧血っぽいなと思いながら、寝床に戻ろうとすると、突然目の前が真っ暗になって意識を失った。直後、ものすごい衝撃を頭部に受け、「ギャー!!」と叫んだ。
学校の朝礼で倒れる生徒のように、直立のまま真っ直ぐ前方に倒れ、額をベッドの木枠に思い切り打ち付けたのだった。
同室の早大OBアブディが飛び起き、慌てて私を助け起こしてベッドに寝かしてくれたものの、額からドクドク血が流れ出したのを見て、「ダメだ、僕、気持ち悪くなってきた……」とつぶやいて、自分のベッドに戻り、布団をかぶってしまった。彼は心が優しすぎて、暴力や痛みについては、見ているだけで耐えられないのである。本当に“リアル・マッドマックス”の南部ソマリア出身者なんだろうか、と私は激痛に喘ぎながら思った。
痛みは徐々に引き、血も止まったようで、そのまま寝てしまった。
しかし、翌日から心身の調子がよくない。まず軽い頭痛が残り、体がだるい。胃腸の調子も今一つだ。頭を打って脳の回転が鈍ったのか、それとも単にソマリ語能力の限界なのか、アブディ以外のソマリ人の言うことがわからなくなってきた。
これは外国人(初対面にしろ知人友人にしろ)に会って一緒に過ごしているときに普遍的に感じることだが、最初のうちは自己紹介や互いの近況報告、今回の旅の予定、久しぶりの町の印象など、具体的なトピックが目白押しで会話は比較的やさしい。こちらの言うことも通じやすく、向こうの話も聞き取りやすい。しかし、3、4日すると、話題はどんどん野放図になる。相手はもう、こちらに気を遣わず、思ったことをポンポン口にする。
例えば、こんな調子。
「親戚の誰それがなにかの商売をしようとして、俺の友だちにカネを貸せって言ってるんだけど、友だちもカネがあまりないから、俺に話をもってきて、でも政府の許可が降りないし……」
話自体はわからないでもないが、どうして私にこの話をしているのかが不明だ。カネを貸してくれって話か? 警戒心が伴うとなおさら理解力が落ちる。というより、理解したくないという気持ちも働く。
もっと単語自体が聞き取れないケースも多い。
「××(人の名前)はよくない。あいつは××(どうも地名)の××(商品名?名産品?)をもってきたんだけど、××(氏族名かNGOか?)とうまくいかなくて、××(政治家?)に××(動詞?)したんだけど……ほら、悪いやつだろ?」
いやあ、悪いやつかどうか、全然わからないよ……。
私の経験によれば、外国語会話の理解度は天気予報の的中率に近い。天気予報の的中率はだいたい6割5分くらいだと聞く。つまり、3回に2回は当たっているということであり、その程度の的中率なら生活の役に立つということでもある。
外国語会話も同様で、3分の2くらい聞き取れれば、だいたい成立する。3分の2を下回っても即アウトというわけではないが、話はどうしても盛り上がりを欠く。とりわけ気の短いソマリの人々はすぐに面倒な会話に飽きる。やがて彼らは私に英語で話しかけるようになるか、単に喋りかけるのをやめる。
ハルゲイサの滞在では3日目にはこの状態が始まっていた。今年は3カ月以上、日本でBBCラジオの聞き取りと、アメリカの言語研究所で作成されたスマートフォン用ソマリ語会話アプリで毎日練習していただけに残念、いや無念である。
幸か不幸か、今回の旅は忙しい。ハルゲイサには4泊して、次はエチオピアへ移動だ。またアブディと二人旅だ。知り合いを通じて用意してもらった車と公共のバスを乗り継ぎ、国境を陸路で越え、丸一日かけてエチオピア東南部の町ディルダワに着いた。エチオピア東南部はソマリ人が数百万単位で住んでいると聞いていたが、たしかに乗ったバスは、乗務員も乗客もほぼ全員がソマリ人だった。そして、ディルダワは同国で最もソマリ人の多い都市とのこと。
ここにはウマルというアブディの親しい友だちがいた。移動が当たり前のソマリ人の常として、彼もエチオピアに生まれ育ちながら、ケニアのナイロビにも住んだことがあり、そこで二人は知り合ったという。
ウマルは笑ってしまうほど典型的なソマリ人だった。
初対面のとき、挨拶も抜きでいきなり後ろから私の荷物を奪い取ったので、てっきり強盗だと思った。そのくらい強引で、親切。市内の移動は全て彼が自分の車でしてくれる。ホテルの予約も、夕食に招待してくれるのも彼だ。自分で不動産のビジネスをしており、相当儲かっているらしいが、私たちが滞在している間、仕事は兄弟に任せ、極力こちらの面倒を見てくれる。
いっぽう、声はばかでかく、うるさい。レストランのいちばん向こうから、「タカノ、トイレに行きたきゃ、こっちだ!」と怒鳴る。他の人が振り返っても意に介さない。そして、地元にいる自分の親戚や友だちを次々と私たちのホテルに連れてきては紹介し、ロビーでわいわい騒ぐ。もっとも、このホテルは、経営者も客もすべてソマリ人だから、うるさくして気にする人はいないが。
ただ、本来、新規の友人相手なら会話がラクなはずなのに、どうも聞き取りができない。エチオピアのソマリ人のバックグラウンド(地名、氏族名、習慣、政治体制など)がわからないせいか、私の集中力が落ちているせいなのか。
しかも、ここでもアクシデント。夕食後、突然激しい嘔吐に見舞われたのだ。出るものが出尽くしても、吐き気と胃の痛みで動けない。頭痛も続いている。2日ほど寝ていた。
ベッドに横たわったまま、1週間ぶりに妻に電話し、今回の旅の状況を報告したところ、彼女は強い口調で言った。「頭を打って頭痛が残って吐き気がひどいって、脳出血の典型症状じゃない?! 今すぐ病院に行って検査してもらいなよ!」
これには私も驚き、アブディとウマルに相談した。ウマルはホテルのオーナーに電話して話をし、オーナーが懇意にしているソマリ人経営の病院「ビラル・ホスピタル」に連れて行ってもらえることになった。
翌日、オーナーの運転するランドクルーザーに乗り、私はアブディ、ウマル、彼の従兄弟という人たちと一緒に病院に到着した。3階建てのこぢんまりした病院だった。中に入ってすぐわかったが、ここも患者はすべてソマリ人だった。
さすがに医師や看護師には非ソマリのエチオピア人もいるようだが、彼らも一様にソマリ語を話す。エチオピア生まれのソマリ人なら当然この国の公用語であるアムハラ語を話せるはずだが、少なくともこの病院内では誰もアムハラ語を話していない。ソマリ語を話せないとソマリ人患者の信頼を得られないのかもしれない。
エチオピアの町であっても、ソマリ人はすべてソマリ社会の中で生きていることがよく見て取れた。
さて診療である。最初に受付で簡単に病状を説明し、受けたい検査を注文する。血液検査、心電図、検便、尿検査、そして意外にもCTスキャンがあるという。「料金が高いですよ」と注意を促されたが、脳出血の可能性があるのだからもちろんお願いする。そして診療費を前払いする。なんだか食券買って料理を注文する食堂のようだ。CTスキャンは日本円で5000円くらいだった。
病院内に3時間ほどいて、次々と検査を受けたり、待合室で待ったり、医師に結果を聞いたりした。頭痛と吐き気は相変わらずで、体調的には決してラクではなかったのにもかかわらず、なんだか精神的にはとても安らいでいた。
まず、面白い。ソマリ愛好家としては、「病院体験」自体がなかなか貴重だ。基本的に日本の病院と大差はないとは言え、驚かされることもあった。
例えば、看護師の女性にトイレまで連れて行かれ、「今すぐ便をとれ」と尿検査のように言われた。そんなに簡単にウンコは出ない!! それともソマリ人は、出そうと思えばすぐに排便できるのか。
案内係みたいな男性がいて、「心付け」を渡すと、カルテを抱えて院内を丁寧にアテンドしてくれるというのは、いかにもソマリ的というかアフリカ的だった。
CTスキャンは日本のものと変わらなかったが、撮影の部屋を出ると、アブディとウマルが「タカノ、君は歯にたくさん金属を入れてるな。よく写っていたよ」などと言う。え?と思って聞けば、CTスキャンの技師と一緒にモニター画像を見ていて、技師があれこれ説明してくれたのだという。おそらく、みんなでわいわい言いながら見ていたのだろう。
患者の家族に開かれた病院、なのである。日本の閉鎖的な病院体制も見習うべきかもしれない。もっとも医師でも家族でもないウマルに「君の脳は異常がない」と言われたのはさすがにヘンな気がしたが。
もう一つ、私が心地よかったのは、ソマリ語が実によく通じるということだった。なにしろ、ここでは話題があちこちに飛ぶことがない。話は常に私の病状と検査についてだ。
「ハルゲイサでカートをたくさん食べたあと、夜中にトイレに行った際、目眩を起こして倒れ、ベッドの角に頭を打ちました」とか「吐き気がして、何か食べてもすぐに吐いてしまいます」とか「脳出血の可能性があるので、心配です」なんてことはホテルで倒れているときから様々な人に何度も繰り返しているので、私の口からすらすら出てくるし、相手からも「下痢は?」「心臓に持病は?」「前にもこういう経験があるか?」など質問してくることが予想できる。間違っても自分の知り合いが何かよくわからない商売の話をもってきたとか、誰かがいいやつか悪いやつかなんて話はしてこない。
そして、これは全くの偶然だが、日本にいるとき使用していたアメリカの言語研究所作成ソマリ語会話アプリの中に、「病院内の会話」も多数含まれていたのだ。だから、「レントゲンをとるので動かないで」とか「今から採血をしますから片方の腕を前に出して」などといった表現も聞き覚えがあった。勉強しているときはさすがに「大きく息をして」なんてソマリ語で言われる日が来るとは夢にも思わなかったのだが。
さて、肝心の検査結果。医師は一つ一つの検査の結果を丁寧に説明したあとで、「何も問題はありません」と言った。胃腸薬の処方箋を書いてもくれた。
なにしろ、開かれた病院なので、そのときも診察室にアブディだけでなく、ウマルとその友だち2名の計4人も同席していたのだが、彼らのお喋りがうるさい。私のこととは無関係な話をべらべらしている。真面目そうな若い医師が何度も「静かに!」と注意したのに、お構いなしである。
思わず笑ってしまった。ソマリ人はとても親切だが、とてもうるさいのだ。そして、アメリカのソマリ語会話アプリの病院会話編では、診察や検査の表現などを差し置いて、まっさきにこういう例文が載っていたからでもある。
「1.Aamus! 静かにしなさい!」
あのアプリは本当に実践的だったのだなと感心したのである。
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高野秀行
1966年東京都生まれ。早稲田大学探検部在籍時に執筆した『幻獣ムベンベを追え』でデビュー。辺境探検をテーマにしたノンフィクションを中心に『西南シルクロードは密林に消える』『ミャンマーの柳生一族』『アヘン王国潜入記』『謎のアジア納豆 そして帰ってきた〈日本納豆〉』『幻のアフリカ納豆を追え! そして現れた〈サピエンス納豆〉』など著書多数。『謎の独立国家ソマリランド』で第35回講談社ノンフィクション賞、第3回梅棹忠夫・山と探検文学賞受賞。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 高野秀行
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1966年東京都生まれ。早稲田大学探検部在籍時に執筆した『幻獣ムベンベを追え』でデビュー。辺境探検をテーマにしたノンフィクションを中心に『西南シルクロードは密林に消える』『ミャンマーの柳生一族』『アヘン王国潜入記』『謎のアジア納豆 そして帰ってきた〈日本納豆〉』『幻のアフリカ納豆を追え! そして現れた〈サピエンス納豆〉』など著書多数。『謎の独立国家ソマリランド』で第35回講談社ノンフィクション賞、第3回梅棹忠夫・山と探検文学賞受賞。
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