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文学は予言する

2022年12月15日 文学は予言する

最終回 パンデミックの世界に響く詩の言葉

著者: 鴻巣友季子

*本連載について

閉塞と分断の時代に求められるもの

 アマンダ・ゴーマンという詩人は彗星のごとく現れたようだが、そのブレイクの背景には詩のブームがあった。とくに新型コロナ感染症がアウトブレイクして以来、「詩」がますます力を発揮しているのを感じるのだ。

 たとえば、2020年のノーベル文学賞受賞者はアメリカの女性詩人ルイーズ・グリュックだった。生と死、家族と愛情、喪失と孤独、憧憬と記憶といったテーマを、夫婦、親子、友人同士などの関係を背景に日常的な言葉で表現する詩人だ。あるいは、地上で僕らはつかの間きらめくなどが翻訳されて日本でも人気のあるヴェトナム系米国作家オーシャン・ヴオンのように、小説も手掛ける詩人も多い。

 それに加え、前回でも触れたように、詩を文字で書くだけでなく声によって演じる「スポークンワード」というジャンルが、欧米のとくに若者の間で盛んになっており、こうしたパフォーマンス・アートの興隆とともに、詩と詩人たちの活動に文化的な磁場がふたたび集まってきている。

 閉塞と分断の時期に、詩はどうして求められるのだろうか?

 現代の日本では「詩」というと、明治前期に西洋から入ってきたスタイルを指すことが多く、ここには、なぜかおかしなイメージがついてまわっている。政治家による論旨のよくわからない発言や、ふんわりしたセンチメンタルな文言を「ポエム」と揶揄したりする。

しかし欧米における詩は文学の中枢および核心にあるものだ。

 詩はなんのためにあるのか?という問いへの答えとして、サルマン・ラシュディ悪魔の詩から風刺詩人の言葉を引用しよう(ラシュディは小説『悪魔の詩』がイスラムの神への冒涜にあたるとして、一度はイランのホメイニー師から「死刑」宣告を受けたインド系イギリス作家。2007年にエリザベス女王からナイトの爵位を授与されている)

 「詩の仕事とは、名づけ得ぬものを名づけ、インチキを看破し、なにかに寄り添い、議論をうながし、世界を形づくり、世界が眠りこんでしまわないようにすることだ」〔筆者訳〕

 つまり、詩とは真理を探し求める怜悧で強靭な精神の産物と考えられているのである。

疫禍におびえる人びとが買い求めた“詩集”とは?

 18世紀の半ば、シチリア島のメッシーナで、港に停泊中の貨物船から、不審死を遂げた乗組員の遺体が多く発見され、その後、ペストが大流行したことがある。船は大急ぎで焼却されたが、病原菌はすでに拡散しており、都市の住民の4分の3にあたる5万人近くが亡くなった。

 そのころ、千マイル以上離れたロンドンでは、前世紀にロンドンを襲ったペストの記憶を忘れられない住民たちが、シチリア島での疫禍を対岸の火事とは思えず、不安に震えていた。ここで、ペストに関する情報をまとめた本が出版され、話題をさらう。ジョン・アームストロングという医師の著した「健康維持法」なる家庭医学の本だった。

 本書はペストに関するイギリスの法律や、検疫の方法、ペストの恐ろしい症状などについてひと通り解説していたが、読者がこぞって買い求めた理由は、そのような実用性だけではなかった。この医学書が一貫して、詩(韻文)の形で書かれていたからだ。アームストロングは医師であると同時に詩人でもあった。

 同書は、古代ギリシャの歴史家トゥキュディデスがアテネの悪疫(出血性の熱病)の猛威をつまびらかに綴った戦史の一節で幕を開け、つぎに、古代ローマの哲学詩人ルクレティウスの詩の英訳が引用される。「悪疫を駆り立てるもの、運命で膨れあがり/国を(やつ)れさせ荒廃させるもの」。

 ロンドンの読者たちは、災いが人類によって克服され、人間の創造の産物へと昇華しうる証として、古今の人たちの声と物語を読みたがった。この本は、詩の言葉で綴られたからこそ、力をもったのだろう。

 詩には、いまにも挫けそうな人の心を支える効用があるのだと思う。パンデミックの閉塞と分断の時代に、アメリカではアンソロジー(詞華集、詩選集)の出版がひとつの潮流となっている。文芸誌「ニューヨーカー」のポエトリー・エディター(詩のセクションの編集長)が全米中の詩人から作品を募集し、百篇以上を集めて、Together in a Sudden Strangeness(突然の異変をごいっしょに)という題で出版した詞華集なども、その一例だ。

 ある種、アメリカの詩人たちから疫禍への応答である。袋に入って冷凍トラックに積みこまれる遺体、水族館で人とのふれあいを失った孤独なウナギ、トイレットペーパーや牛乳の急な値上がりなど、人びとの日常の実感が映しだされている。

 「詩のむずかしいレトリックやら技巧やら空しい提言やらはもうたくさん。わたしたちが求めているのはふれあいだ」と書いたのは、「The End of Poetry(詩の終わり)」の著者であり、メキシコ系米国詩人のエイダ・リモンである。

 小説には、物語の展開にひたすら身をまかせ、受け身で楽しむ醍醐味もある。一方、詩には、読者から能動的な「読解」を発動させる力がある。短めの詩であれば繰り返し読むうちに、一篇まるごと諳んじることもできる。そこには、読み手ひとりひとりの世界が創造されるだろう。

 日本の小説家、柴崎友香は「読み手が(小説より)言葉を体感できるのが詩です」と言っている。

詩に還っていく小説たち

 近年の英米の出版界では、詩や詩集だけでなく、ヴァースノヴェル(詩小説)と呼ばれる表現スタイルがひとつの分野を形づくっている。詩、または散文詩のような形で書かれた小説のことだ。

 そもそも、文学の起点は散文ではなく韻文(詩)にある。ユーラシア大陸でギルガメシュ叙事詩をもって文芸が始まったとすると、それ以来、西洋では押韻と韻律のルールにのっとった定型詩の形で、長らく物語を書いていた。散文が使われるのは、おもに歴史書、地誌、哲学書、のちには年代記、旅行記(もちろん韻文で書かれることもある)などであり、文学的な物語や劇作の多くは韻文で記された。シェイクスピアの劇では、貴族や高位の人物は韻文の形式で話し、召使や庶民は散文の形式で話したりする。

 韻文のほうが芸術としては格上という認識が広くあったのだ。

 いわば格下だった散文が文学の中心を担うようになるのは、十八世紀に「小説」という表現形式が急速に発達してからだ。それは韻文という定型からの解放であり、より自由な表現の場を求める動きだった。他方、詩も押韻と韻律に縛られない「散文詩」が発展する。

 そのようにして生まれた小説がいま再び、詩という表現に立ち返り、改めてそこに豊かな鉱脈を求めているように見えるのは、たいへん興味深い。

 日本に紹介されているヴァースノヴェルを挙げると、詩人の伊藤比呂美が翻訳してきたアメリカの詩人カレン・ヘスビリー・ジョーの大地リフカの旅。近年ではフランスの詩人ダヴィド・フェンキノスシャルロッテや、銃を手に兄の敵討ちへ向かう若者がエレベーターで一階に降りるまでの数分間を描いたアメリカのジェイソン・レナルズエレベーター、あるいは、家出少女と認知症の老女のふれあいを描くサラ・クロッサンタフィー、ノーベル文学賞候補とも言われるカナダの詩人アン・カーソン赤の自伝など、秀作がたくさんある。

 『タフィー』は行き場を失った少女の状況が、いまの日本で同様の境遇にある女子高生のそれと重なり、胸が締めつけられる。父の心身への暴力に耐えかねて家を出た少女は、「こことはちがうどこかへ行く」ためバスに乗る。さ迷いこんだある家には、認知症の老女「マーラ」が独居していた。マーラは少女を、かつて別れ別れになった親友「タフィー」と間違えているらしく、少女は半分タフィーに成り代わりながら、乏しいお金や食料を老女とシェアして生き延びることになる。

 少女の過去と現在が断片的に明かされていく。つぶやきのような切れ切れの言葉があれば、奔流のように迸る言葉もあり、物語は安易な癒しには向かわない。それでも、シビアな展開の中に「今のあなたでいい」という肯定を含んでいる。

 思春期の少女の魂の遍歴を、時空間の切り替えを多用して描いた『タフィー』の繊細な感性は、こうしたある種、いびつな詩の形でしか表現し得なかったと思う。作者のクロッサンはイギリスの児童文学の最高峰の賞である「カーネギー賞」を受賞している。

 昨今、多くの書き手と読み手が小説にイデオロギー的な共感と癒しを求め、小説を書くこと、読むことを“メッセージ”のやりとりと考える傾向があるが、詩はジャーナリズムやプロバガンダの即時性や緊急性とは相容れない言葉を必要とする。パンデミック以降、詩のアンソロジーがよく読まれ、自由を求める小説がむしろ詩に「還って」いくのは、興味深くも自然な現象なのではないだろうか。

 英語のアンソロジー anthology(詞華集)とは、もともとギリシャ語で「花を摘む」という意味だ。

 

*本連載は今回で最終回となりますが、12月21日に『文学は予言する』(新潮選書)として刊行の予定です。ご愛読ありがとうございました。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
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「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

鴻巣友季子
鴻巣友季子

1963年、東京生まれ。翻訳家、文芸評論家。英語圏の現代文学の紹介とともに古典新訳にも力を注ぐ。『風と共に去りぬ』(全5巻、新潮文庫)の他、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』(同)、ヴァージニア・ウルフ「灯台へ」(『世界文学全集2-01』河出書房新社)の新訳も手がける。他訳書に、J・M・クッツェー『恥辱』『イエスの幼子時代』(ともに早川書房)、アマンダ・ゴーマン『わたしたちの登る丘』(文春文庫)など多数。『熟成する物語たち』『謎とき『風と共に去りぬ』 矛盾と葛藤にみちた世界文学』(ともに新潮社)、『翻訳ってなんだろう? あの名作を訳してみる』(ともに筑摩書房)など翻訳に関する著書も多い。

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