(*本連載について)
女性を型にはめる「聖と魔」の理論
父権社会で男性たちが自分の理解を超えた女性の力に出会ったとき、対処に困った彼らは女性たちにレッテルを貼ってきた。一つは、天上と通じるような人間離れした「聖性」であり、もう一つは、理性を超えた狂おしい「魔性」だ。このふたつは紙一重の部分があり、ときに反転する。異才の女性が女神から魔女に転落することは、現代でもよくあるだろう。集団でのレッテル貼りは「他者」をコントロールする手段の一つだ。
前回紹介したインゲ・シュテファンの『才女の運命』を再び参照しよう。ファム・ファタール“ごっこ”とその妄想が、激烈な毒性を発してしまった一例が、アメリカの作家ゼルダ・フィッツジェラルドとスコット・フィッツジェラルドの夫婦関係だ。出会ったころの十八歳のゼルダは、自ら率先してファム・ファタールを演じ、スコットは彼の小説から抜けだしてきたような女と電撃的に恋に落ちた。
スコットは魔性と同時に詩神(ミューズ)の役割をゼルダに求め、ゼルダの方も「自分をまったくの無」にして芸術家に奉仕することを楽しんだ。ところが、やがてゼルダは自分でも小説を書きだし、自分の日記の文章を無断で転用したスコットの『美しく呪われた人たち』を「盗作」と評すようになる。夫は夫で、ゼルダの小説は「まるでぼくの小説のコピーです」と批判し、「ぼくたちの体験はすべてぼくのものだ」と宣言する。
そうして米国史に残る作家となっていったのは、夫のスコット・フィッツジェラルドの方だった。
スコットが口にした「ゼルダこそが吸血鬼だ」という言葉に留意したい。『才女の運命』著者のシュテファンは「吸血」という語を本書で繰り返し使っている。たとえば、彫刻家のカミーユ・クローデルは、彼女からアイデアを盗もうとするロダンの「吸血鬼のような手から逃げ出し」、自分を守ろうとしたという。そもそも男性の「天才」は多くの場合、「他者からの吸血鬼的な搾取を前提とするもの」だったという指摘もある。
近接した領域で仕事をする夫婦の例はほかにもある。アインシュタインの妻ミレヴァ・マリチは、幼少時から数学にずば抜けた才能を示し、スイス最高の大学に進みながら、妊娠、結婚を機に、夫の助手となった。「助手」といっても、「体系づけて仕事のできる人間ではなかった」夫に代わって数学の問題を解き、彼のアイデアを数学的に転換したというのだ。しかしながら、ふたりの共同研究はアインシュタインの単著となり、ミレヴァの名がクレジットされることはなかった。
クララとローベルト・シューマンも音楽家同士の夫婦だ。クララは夫のローベルトから、演奏家としては賞賛されつつ、決して作曲の仕事はさせてもらえなかった。演奏とは「解釈」だが、作曲とは「創作」であり、上位におかれるものだからだ。クララが「自分のなかに重心を持たないあやつり人形」と化したのは、当時支配的だった女性像と、父親の教育の影響もあると著者は分析している。
夫婦のどちらに救われる価値があるか?と、スコットは問うた。どちらが血を吸い、どちらが与えることになるのか? わたしはここで、モダニズムの詩人T・S・エリオットのエッセイ「伝統と個人の才能」から、「〔詩人は〕より価値のあるものへと、その時々の己を絶えず譲り渡すことになる。芸術家の進歩とは、たえまない自己犠牲であり、たえまない人格の消失と言えよう〔筆者訳〕」というくだりを思いだす。創造的、知的活動における精神的吸血(spiritual vampirism)という観点から考えたとき、エリオット夫妻において、真の吸血鬼はファム・ファタールで知られた妻ではなく、エリオットの方だったろう。ファム・ファタールというレッテルは、女性のリソースを活用するための隠れ蓑にすぎないのだ。
精神的吸血鬼はどちらだ?
アメリカのファンタジー作家キャット・ハワードの短編に、A Life in Fictions(虚構人生)という一編がある。ある女性が恋人の男性小説家の作品モデルになるうち、現実での存在実態を少しずつ千切り取られ、虚構世界に消えていってしまうという怖い話だ。
そう、このヒロインもまた「ミューズ」などとおだてられてリソースを吸血されてきた女性だ。いわば、本作は天才の影に隠れた“シェイクスピアの妹”(ヴァージニア・ウルフ『自分だけの部屋』参照)たちの歴史を表象化した小説なのである。
ここで、ケイト・ザンブレノの『ヒロインズ』(西山敦子訳/C.I.P. Books)を紹介しよう。手記とも評論とも小説ともつかない、強烈な魅力をもつ一冊である。
「私≒ザンブレノ」は研究者であると同時に駆け出しの作家でもある。研究者の夫に帯同してオハイオ州の街にやってきたが、大学で職も得られず、つねに「~の妻」としか紹介されず、中編小説の出版も決まっているのに、興味をもつ人はいない。結婚による自己喪失のテーマと、モダニズム作家の“狂気の”妻たちに魅入られ、「私」は彼女らの言葉をなぞるように生きていく。
T・S・エリオットの妻ヴィヴィアン、ポール・ボウルズの妻ジェイン、ヘンリー・ミラーの妻ジューン、そして「私だって芸術家なの!」と巨大な父ジェイムズ・ジョイスに叫んだ娘ルチア……。みずから作家として名を知られた女性もいる。ヴァージニア・ウルフ、ゼルダ・フィッツジェラルド、ジーン・リース、アンナ・カヴァン、アナイス・ニン、シルヴィア・プラス……。さらには、抑圧された作中人物の妻たち。『ジェイン・エア』のバーサ・メイスン、『ユリシーズ』のモリー・ブルーム、ボヴァリー夫人、ダロウェイ夫人……。
次々と愛人をつくり、自滅していったボヴァリー夫人が患っていたのは「退屈」などではない、とザンブレノは書く。「別の誰かが書いた筋書きのなかに、登場人物として、閉じこめられてしまうこと」だったのだと。
神経衰弱、ノイローゼ、メランコリー、うつ、境界線パーソナリティ障害――女性の内なる不調は、その時代により便利な名前を与えられてきた。男性たちはこうした「狂気」を女性の本質と捉え、父権社会の原理に整合しなければ安易に幽閉してきたとザンブレノは言う。
幽閉される女性たち。まさに、研究者のギルバートとグーバーはそういうケースを悲運のバーサ・メイスンに重ねて「屋根裏の狂女」たちと名づけたのだ(サンドラ・ギルバート、スーザン・グーバー『屋根裏の狂女 ブロンテと共に』山田晴子、薗田美和子訳/朝日出版社)。
ザンブレノは幽閉される女性の例として、シルヴィア・プラスらにも影響を与えた『黄色い壁紙』という隠れた名作小説を絶妙にも引いてくる。
夫から神経衰弱気味と判断された妻は、夏の間だけ借りた屋敷の「最上階」にあるこども部屋に軟禁され、一時間ごとの予定に従って生活させられる。一切の思考活動を奪われるような暮らしに、妻は壁紙だけを凝視するようになり、その奥に何かを見始める。這いまわるなにかを。やがて自分自身も……。
なぜこの夫は妻を幽閉しなくてはならなかったのか。彼女もまた、夫の理解を超えた=抑圧しなくてはならない力、つまり創造力をもっていたからだ。夫は彼女が一語たりとも書くことを容赦しない。
こうした女性たちが生き延びる手段は書くことなのに、であるからこそ、男性はそれを禁じ、抑制しようとする。ヘンリー・ミラーの妻ジューンも、愛人のアナイス・ニンも、ゼルダ・フィッツジェラルドも、パートナーの名声を凌ぐことはできなかった。
ザンブレノもまた、精神的吸血(spiritual vampirism)という観点から考察している。T・S・エリオットの伝記作家たちは、「吸血鬼的なのはヴィヴ(妻)のほう」で、彼女が夫の生気を吸い尽くしたと考えているという。そのくだりを少し引く。
ピーター・アクロイドは「彼はまるで子どものように彼女を信頼しきって、利用されたのだろう」と書く。別の伝記作家は「エリオットが出会ったこの娘は、彼の人生を掘り起こしてかき回し、骨だけを残して奪い尽くした」と書く。ファム・ファタル。夢に現れる悪魔(サキュバス)。男の力を奪う女。
典型的な、都合のいいファム・ファタール加害者理論ではないだろうか。魔性の女と、無垢な心ゆえにその魔性にとりこまれた男。
しかしザンブレノの考えは逆だ。彼女も先のT・S・エリオットのエッセイ「伝統と個人の才能」から、「自分より価値の高いものに自分を明け渡すこと。芸術家の進歩とは、絶え間なき自己犠牲〔前掲書より〕」というあの一節を鋭く引き、「芸術家とその犠牲というとき、犠牲になるのは誰か(何か)」、「吸血鬼と呼ぶにふさわしいのは、不朽の存在になれた(T・S・エリオットの)ほうではないだろうか」と問いかけている。
十九世紀半ば、すでにアメリカの文豪ナサニエル・ホーソーンは「書き散らす女どもの群れに押されて自分は出る幕がなくなる」と皮肉を言って嘆いた。それから百六十年余り経ついまも、『ヒロインズ』のような本が出ていることを知ったら、驚くだろうか、それとも「男の作家が女に追い散らされることは当分ないだろう」と安堵するだろうか?
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鴻巣友季子
1963年、東京生まれ。翻訳家、文芸評論家。英語圏の現代文学の紹介とともに古典新訳にも力を注ぐ。『風と共に去りぬ』(全5巻、新潮文庫)の他、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』(同)、ヴァージニア・ウルフ「灯台へ」(『世界文学全集2-01』河出書房新社)の新訳も手がける。他訳書に、J・M・クッツェー『恥辱』『イエスの幼子時代』(ともに早川書房)、アマンダ・ゴーマン『わたしたちの登る丘』(文春文庫)など多数。『熟成する物語たち』『謎とき『風と共に去りぬ』 矛盾と葛藤にみちた世界文学』(ともに新潮社)、『翻訳ってなんだろう? あの名作を訳してみる』(ともに筑摩書房)など翻訳に関する著書も多い。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 鴻巣友季子
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1963年、東京生まれ。翻訳家、文芸評論家。英語圏の現代文学の紹介とともに古典新訳にも力を注ぐ。『風と共に去りぬ』(全5巻、新潮文庫)の他、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』(同)、ヴァージニア・ウルフ「灯台へ」(『世界文学全集2-01』河出書房新社)の新訳も手がける。他訳書に、J・M・クッツェー『恥辱』『イエスの幼子時代』(ともに早川書房)、アマンダ・ゴーマン『わたしたちの登る丘』(文春文庫)など多数。『熟成する物語たち』『謎とき『風と共に去りぬ』 矛盾と葛藤にみちた世界文学』(ともに新潮社)、『翻訳ってなんだろう? あの名作を訳してみる』(ともに筑摩書房)など翻訳に関する著書も多い。
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