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文学は予言する

2022年9月15日 文学は予言する

第3回 文学に描かれてきた「舌を抜かれる女たち」

著者: 鴻巣友季子

*本連載について

「口封じ」というナラティブの武器

 ここからは、実社会でのみならず文学においても、さまざまな形で抑圧されてきた女性やマイノリティの「声」について考えていきたい。

 日本では「饒舌」「雄弁」に対してなぜか冷ややかな目が向けられることがあるが(「口が達者」というのは大抵批判の言葉であり、訥弁は「人柄がにじむ」などと褒められる)、発言権や弁論の機会というものは人権の一部であり、社会を形成していくうえで欠かせない要素だ。ここではその権利をめぐる問題について、文学作品を引きながら見ていこう。

 西洋において、雄弁術をもたぬ者が(まつりごと)に与ることはまずない。復讐劇の古典ジュリアス・シーザーで、一発逆転の奇跡を起こしたのも演説の力だった。Oratory(雄弁術)は知性と理性の証左であり、支配者がもちうる最大の武器の一つだ。それと同時に相手の言葉を封じる=舌を抜くことも、絶大な攻撃となる。

 しかしこの雄弁術と口封じというナラティブの武器は、長らく男性のみに求められ認められてきた力であり、女性はもっぱら「声」を奪われる側だった。アメリカの英文学者メアリー・ビアードの演説集舌を抜かれる女たちがその口封じの歴史をわかりやすくまとめているので、参照しよう。

 本書で、まずホメロスオデュッセイアが紹介されるのは象徴的だ。妻ペネロペイアが「ミュートス」(人前で話をすること)をすると、それは女の仕事じゃない、と息子が止めに入る。ちなみにこの神話には、抗弁の機会も与えられず殺される12人の女中たちがおり、マーガレット・アトウッドはこの女中たちに声をあたえるために、オデュッセウスの妻ペネロペイアの視点で『オデュッセイア』を語りなおすためにペネロピアドという翻案小説を書いた。

 オデュッセウスの名には「奸智に長けた」という枕詞がつくが、これは換言すれば、口八丁の巧みな抑圧者だということでもある。オデュッセウスの同類は大勢いて、たとえば、ヘンリー・ジェイムズボストンの人々で、演説の得意な女性運動家に「君の優しい言葉を私だけのものにしたい」と言って、黙らせようとした恋人などもそれに当たるだろう。

 次にビアードは、「女性がパワーを持ったときの破壊的な危険性」を象徴するメデューサ神話を引き合いに出している。これは、現代の性犯罪事情に悲しいほど合致する。メデューサが怪物に変えられてしまったのは、彼女が男神ポセイドンにレイプされたことで「聖所を穢した」ことへの罰なのだ。被害を受けたほうが咎められ、罰を受け、沈黙させられる悪しき風習は数千年後のいまも変わらないではないか。

 ビアードが例に出す「舌を抜かれる女」のモチーフは、変身物語のピロメラから、シェイクスピア『タイタス・アンドロニカスのラヴィニアを経て、大統領選でドナルド・トランプに敗れたヒラリー・クリントンら、現実の例にまで連なっているのだ。

「声を聞かれる権利」に触れたカマラ・ハリスの就任演説

 そう、こうした女性への口封じの歴史にさりげなく触れ、同志たちにエールを送ったのが、第49代米国副大統領カマラ・ハリスの就任演説である。

 ハリスは百年に及ぶ米国公民権運動にふれた後、こう言った。「2020年の今、米国の新世代の女性たちは一票を投じることで、投票し(・・・)声を届けるという基本的権利(・・・・・・・・・・・・・)のための戦いを続けてくれました」。この日彼女が強調したのは、国民の融和であり、人々の声が均しなみに聞き届けられること。声を届ける(to be heard=声を聞かれる)ことは、人間の基本的な権利であり、投票はその手段だと繰り返し述べたのだ。

 この「声を聞かれる権利 right to be heard」という短い語句は、万感の思いで発せられたことだろう。女性にとって公の場での発言が歴史上どれだけ難しいことだったか。選挙前の副大統領候補討論会でも、ハリスは現職(当時)のペンス副大統領に十数回も話を遮られ、「副大統領、今はわたしが話しているのです」などと諭すこと8回。

 さらに女性の公の場での発言が遮られた出来事として思いだされるのは、エリザベス・ウォーレン上院議員の一件だ。トランプ大統領が指名したジェフ・セッションズの司法長官就任をめぐる審議会(2017年)で、セッションズの差別的言動を問題視した故コレッタ・スコット・キング(キング牧師の配偶者)の手紙をウォーレンが読みあげはじめると、共和党議員に途中で一度制止を受け、さらにはその後審議からはずされるという信じがたいことが起きたのである。

 ハリスは副大統領候補討論会でウォーレンの一件を思い出しはしなかったろうか。選挙後の就任演説でこう述べたのだ。「しかしながら、わたしは副大統領となる最初の女性かもしれませんが、決して最後ではありません。なぜなら、今夜このスピーチを見てくれている少女たちも、この国が可能性に満ちた国だとわかったはずだからです」。このくだりは、大統領選挙でウォーレンが候補を退く時、「最もつらいのは、わたしを支援してくれた少女たちがさらに4年、待たなければならないことです」と、声を詰まらせて語った言葉へのレスポンスではないだろうか。

 もう一ついえば、このくだりは2016年の大統領選に敗れたヒラリー・クリントン候補の敗北宣言演説にもオマージュを捧げているようにも思われた。

 「この選挙で民主党とわたしを信じてくれた、すべての女性たちへ。とくに若い女性たちへ。聞いてください、わたしはみなさんのための闘士になれたことがなにより誇らしいのです。それから、このスピーチを見てくれている幼い少女たちへ。自信をなくしてはいけません。あなたがたはかけがえのない、可能性にあふれた存在であり、自身の夢を追求し叶えるために、あらゆるチャンスや機会に恵まれて然るべきなのです」

 ハリスの演説中のtheir fundamental right to vote and be heard(女性たちが投票し発言するための基本的権利)という短い語句の背景には、女性が発言を抑制され、「舌を抜かれ」てきた長い歴史と、男性だけを英雄として祀りあげてきた社会への批評が感じられる。

男性の「名声」の陰で

 芸術や学術の分野でも、女性は「声」をかき消されるだけでなく、声を奪用され、創造的・知的リソースを搾取されてきた。彼女たちは男性芸術家や学者たちを「インスパイア」する「ミューズ」と讃えられるが、内実の多くはアイデアの提供者であり、共作者であり、ときには代作者でありながら、存在を消されてきたのである。

 今回から次回にかけて、インゲ・シュテファン『才女の運命 男たちの名声の陰で(松永美穂訳/復刊フィルムアート社)、ケイト・ザンブレノ『ヒロインズ(西山敦子訳/C.I.P. BOOKS)という2冊の本を紹介しながら考えていきたい。

 まず、『才女の運命』の最初の邦訳刊行は1995年で、ドイツ文学者松永美穂の翻訳デビュー作にあたる。『ヒロインズ』が邦訳出版され注目を集めたことから、同じテーマを扱った『才女の運命』も再評価が高まり、25年を経て復刊されたという経緯のある本だ。

 ある男性芸術家から婚約者への象徴的な言葉を、本書から引こう。

 「君の仕事はこれからはたった一つ、ぼくを幸せにしてくれるということだけなのです。わかりますか、アルマ、ぼくの言っている意味が?」

 音楽家グスタフ・マーラーから、同業者でもあったアルマ・シントラーへの手紙に書かれた言葉だ。こうしてマーラーはアルマに、結婚後の仕事を禁じた。前世紀初頭のことだ。とはいえ、21世紀の現在も、結婚前にこのような“通達”を男性から受ける女性は少なくないのではないか。こんな露骨な文面ではなく、言葉に出さないかもしれない。見えにくい圧力ゆえにむしろ厄介である。

 トルストイ、マルクス、シューマン、ロダン、アインシュタイン…偉大な芸術家、学者、運動家の陰で、「ミューズ」の美名のもとに創造的、知的、社会的搾取を受けてきた女性たちの、懸命な歩みと抵抗、そして多くは敗北を、本書は克明にあぶりだしている。読む際に、とくにこの二語は注意が必要である。

・ファム・ファタール(運命の女)

・吸血鬼

 まず、ファム・ファタールは男を惑わし滅ぼす魔性の存在として、文芸作品を彩ってきた。シェイクスピアのダークレディ、サロメ、マノン・レスコー、カルメン、ロリータ…。絵画などでもしばしばモチーフになる。しかしこの「運命の女」という概念こそ、男性の都合でつくられた幻想でありエクスキューズなのではないか、と本書は指摘するのだ。

 実はわたしがこのファム・ファタールの幻想性や作為性をはっきり感じたのは2019年に開催された、「宿命の女」をテーマにしたフランスの画家ギュスターヴ・モロー他の美術展を見にいったときだった。もちろんキューレターの方々にはその意図はなかったと思うが、展示された絵画は奇しくもそれを浮き彫りにしていた。

 たとえば、「エウロペの誘拐」。ギリシャ神話で王女に恋をした全能神が変身して彼女を拉致するという画題だが、恍惚の表情をした王女が「誘う女」として描かれている。女の方が誘惑し、男は抗しがたい「魔力」に落ちたえじきというわけだ。

 また、旧約聖書の物語を画題にした「バテシバ」という絵では、ダビデ王の部下の妻バテシバが水浴びをしている。それを上階のテラスから覗き見たダビデ王が劣情を催し、彼女をレイプする。罪を隠すために、彼女の夫である部下を戦地に送ってしまい、さらに悪行を重ねる。支配者の暴戻に他ならないが、王にしてみれば、バテシバのほうが誘ってきたのである。バシデバは視線の先にいた誘惑者として描かれている。少なくとも、そのような解説が絵に添えられていた。

ファム・ファタールというからくり

 「男を誘うような真似をしたのがわるい」「隙があった」。これらも、レイプ事件などでいまもよく聞かれる女性への不当な非難だ。マーガレット・アトウッド『誓願にも、そうした言説がまかり通る世界が描かれている。

 『誓願』は、カナダの隣の大国アメリカ合衆国に誕生した超保守政権による全体主義国家「ギレアデ共和国」を舞台にした『侍女の物語』の続編だ。〈ヤコブの息子〉というキリスト教の一宗派が独裁する神政国家ギレアデは、過激な男尊女卑政策を取り入れた「男女隔離社会」であり、女性は職につけず、たった四種類の階級に分けられている。以下にその階級をあげておこう。

小母(おば)〉: 女性の教育・指導者。ある種の聖職者でもあり、トップの小母は裁判官の役割も担う。

〈妻〉: 司令官または平民男性の配偶者。ギレアデでは幼年婚が盛んで、高官の家庭では十三歳になったら見合いが始まる。

〈マーサ〉: 司令官の家に仕える女中。手仕事の得意な女性が割り当てられる。

〈侍女〉: ふしだらとみなされた女性はこの階級となる。子どものできない司令官夫婦の家に派遣され、夫と〈儀式〉と呼ばれる性交を行い、子どもを産む。まさに「子どもを産む機械」として酷使される。

 本作中のギレアデの女性は、人前に出るときには中東のブルカのようなものを被って、頭髪と顔を隠さなくてはならない。なぜなら、男性には自然の「欲求」というものがあり、それは女性を前にすると、とたんに首をもたげて抑止できなくなることがあるから、というのだ。女性の髪やまなざしはとくに男性を狂わせるらしい。

 しかし「火だるま」になるほどの性欲は本能によるものなので、これを引き起こさないようにするのは女性の務めだと繰り返し諭される。たとえば、『少女のためのお話十選』という若い女性の教化本には、こんな数え歌が載っている。

 

ティルツァをごらん!そこにいる。

浮浪者みたいな髪をしている。

歩道をゆうゆうと歩いくようす

頭をあげて自信まんまんのようす

〈保護者〉の視線をとらえたよ

 罪深いおこないにさそっているよ

この子は道を正そうとしない

ひざまずいて祈ることもない!

たちまち罪をおかすだろう

壁に吊られる日も近いだろう。

文学は予言する

2022/12/21発売

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

鴻巣友季子
鴻巣友季子

1963年、東京生まれ。翻訳家、文芸評論家。英語圏の現代文学の紹介とともに古典新訳にも力を注ぐ。『風と共に去りぬ』(全5巻、新潮文庫)の他、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』(同)、ヴァージニア・ウルフ「灯台へ」(『世界文学全集2-01』河出書房新社)の新訳も手がける。他訳書に、J・M・クッツェー『恥辱』『イエスの幼子時代』(ともに早川書房)、アマンダ・ゴーマン『わたしたちの登る丘』(文春文庫)など多数。『熟成する物語たち』『謎とき『風と共に去りぬ』 矛盾と葛藤にみちた世界文学』(ともに新潮社)、『翻訳ってなんだろう? あの名作を訳してみる』(ともに筑摩書房)など翻訳に関する著書も多い。

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