(*本連載について)
SFから日常へ――ディストピアの曲がり角
ここで、ディストピアとSFの関係に少し触れておきたい。
ディストピア文学はもともと未来を舞台にすることが多いため、19世紀の最初期から、SF的なアイテムを導入することが多かった。これはハイテク機器を搭載して未来都市を描くヴェルヌの『二十世紀のパリ』からしてそうで、オーウェルの有名作『一九八四年』に出てくる国民監視のための「テレスクリーン」なども「未来」のわかりやすい表象だろう。ディストピア文学というのは、SFに間借りしたサブジャンルのようなところがあったと思う。
マスキュリンでSF的な作品群に始まったディストピア文学は、しかしフェミニズムの台頭につれて1980年代あたりを境に、フェミニンで寓話神話的な作品群への傾きを見せる。肥大した先端テクノロジーの支配と、人間味の欠如を描くのがディストピアの常道だったが、それが様変わりしていくのだ。
この過程はもちろん女性作家の台頭やフェミニズムの興隆とも関係があるだろう。また、メインストリーム(≒純文学)の作家らが現実の危機を捉えるのに、ディストピア的な枠組みを必要としたこともあると思う。この流れには、村上春樹、カズオ・イシグロ、J.M.クッツェーらの男性作家も合流した。2022年には、日本の男性作家・遠野遥も奇妙な学園ディストピア『教育』でもって、この流れに加わったと言えるだろう。
SF的表象を前面に出さないディストピア小説は、AIやクローンなどの高度な科学技術を生活の前提としながらも、生活の風景は現代とほとんど変わらなかったり、むしろ時代を逆行したような素朴な光景が描きだされたりし、管理当局の実態は漠としていることも多い。
村田沙耶香の生殖が国に管理される『消滅世界』や『地球星人』などもこれに当たるし、イシグロの『わたしを離さないで』『クララとお日さま』は高度に発達した遺伝子操作やクローン技術は物語の背後にあるだけで、つまびらかにされない。南ア出身でオーストラリア在住のJ・М・クッツェーの『イエスの幼子時代』三部作にしても、ディストピアな管理体制は不気味にぼんやりと背後に浮かびあがるだけで、機構の詳細は説明されない。
あるいは、多和田葉子の『献灯使』ではハイテクが一切影をひそめ、トイレは「廁」と呼ばれ、飛脚が走り、収拾のつかない地方分権状態にあり、まるで鎖国時代のようだ。川上弘美の『大きな鳥にさらわれないよう』や、作家が言語と思想統制のため当局に監禁される桐野夏生の『日没』なども同様である。とくに『日没』は手法としては、もはやリアリズム小説と言っていい。
ディストピア文学はハイテク・ガジェットを削ぎおとし、現実の日常風景に近い風合いの情景を描くのが主流になっている。普遍的な地平を目指し、ひたすらリアリズム文学に接近し、融合しながら、傑作を生みだしている。
とはいえ、これは文学の「傾向」の問題ではなく、現実がディストピア化しているから、フィクションのほうが日常に近づかざるを得ないのだ。喜んでばかりはいられない。
1918年のフェミニズム・ディストピア
前回で触れたフェミニズムとディストピア文学の関わりについても書いておきたい。
「3原則」の第1項目「国民の婚姻・生殖・子育てへの介入」はとくにフェミニズムと深い関わりがある。ディストピア社会では、人びとのカップリング(または結婚)の時点から、往々にして国家が管理監督する。この生殖にかかわるプロセスというのは、身体面のみならず、精神、時間、キャリアなどの面での負担が、女性の方に大きく偏っている。
しかしながら、文学界では長らく男性の方が圧倒的に優位であり、作家の数も多かったので、前述したように、ディストピア作品も男性作家の視点で書かれることが多かった。
そうしたなかで、アメリカの女性作家ローズ・マコーリーは、フェミニズム・ディストピアの走りと言えるだろう。彼女の『その他もろもろ:ある予言譚』は早くも1918年に発表され、一度即座に発禁になったが、修正版として復刊し、ハクスリーの『すばらしい新世界』をインスパイアした面があるのではないかとすら言われている。つまり、『一九八四年』にも間接的に影響を与えたといえるだろう。
『その他もろもろ:ある予言譚』に描かれる世界では、優生学に基づき、「脳務省」(The Ministry of Brainsの卓抜な訳語)が人間を知能によってAからC3までにランクづけする。Aの者がAやB1の相手と結婚するのは遺伝知能の「空費」だから、もっと下位者と結婚しろとか、C1~C3はAとつがって知能の底上げをしないと子づくり不可などと決まっている。
主人公となる脳務省勤務の女性キティはAだが、脳務大臣のニコラスは近親者に無資格者がいるため、自身も無資格となっている。ところが、ふたりは禁断の恋に落ち、横暴な独裁政権を倒そうとする報道機関が脳務省をつぶそうと、ある企てに出る。
行きすぎた社会工学政策に抵抗し、マスコミと政府による大衆操作への怒りを表明するフェミニズム小説である。恋愛の部分もしっかり書かれ、コミカル味をまぶしてテンポの良いロマコメとしても 読めるところも好ましい。ダークコメディの質に、のちのカナダの作家マーガレット・アトウッドのタッチを感じないでもない。
また驚いたのは、本作から約100年後に、日本で村田沙耶香がアメリカの出版社の依頼で、「生存」という短編小説を発表したことだ。国民が“スペック”によって「生存率」をAからDランクで評価された未来日本を描く。まさに『その他もろもろ』は予言的であったと言えるだろう。
こうした生殖をコントロールするディストピア小説の代表格として挙げたいのは、前述のアトウッドと村田沙耶香であり、とくに前者の『侍女の物語』『誓願』には、妊娠、出産、子育てに関して、女性がなんの選択、決断の自己決定権利(リプロダクティブ・ライツ)も持たない封建社会が描かれている。
1985年に『侍女の物語』が世に出たとき、アメリカの読者は面食らった。とくに1960年から70年にかけて、第二波フェミニズムが席巻し、女性のユートピアを描いたSF小説も多く刊行された後である。そんなときに、なぜアトウッドはわざわざ女性のディストピアを書くのか?という戸惑いも批判もあった。
『侍女の物語』はいまではフェミニズム文学の代表作とされているが、当時はなかなか手厳しい評価もあったのだ。
産む権利、生まれる権利――リプロダクティブ・ヘルス/ライツ
近年、子どもを産む当人の「リプロダクティブ・ヘルス/ライツ」に関して、米国ではまた判断が大きく揺らぎ、動向が注目されている。
このカタカナ語は最近日本でもときどき耳にするようになった。「生殖にまつわる健康」と「子どもを産むか産まないか、いつ、何人産むかを当人が決める自由」を保障するものだ。
この権利は、四半世紀も前に国際会議で合意がなされたが、未だに日本では「結婚して子どもを」という圧力が政治家の発言などにも透けて見え、緊急避妊薬などの入手もハードルが高い。「お子さんは?」「まだ産まないの?」「ひとりっ子じゃかわいそう」云々という周囲からの干渉や圧力に悩まされる人は少なくないだろう。
前回も書いたとおり、米国では多くの州で妊娠中絶禁止法が成立し、波紋を呼んでいる。性と生殖をめぐっては、保守とリベラルの一部が先鋭化し、分断がより顕著になっているのだ。
そうしたなか、2022年、ピューリツァー賞作家ポーラ・ヴォーゲルの戯曲『ミネオラ・ツインズ』(徐賀世子訳)が藤田俊太郎の演出で上演され、その脚本による邦訳書も出たのは大変意義深いことだった。
1950年代、60年代、80年代、3回の共和党政権の時代を背景に、NY州の保守的な町に暮らす双子の姉妹の生き方が描かれる。良妻賢母を夢見る「良い子」マーナと、バイセクシュアルで子どもは作らないと宣言する「悪い子」マイラ。ふたりは冷戦、ベトナム反戦運動、性改革の波に揉まれ、各々の思想と活動を過激化させていく。
この対立を決定化するのが妊娠中絶への是非なのである。なぜマーナは中絶クリニックの爆破を企てるまでになったのか。つきつめれば姉妹を真っ二つにしたのは、「女は子どもを産み、家を守る」という父権社会からの強圧ではないだろうか。ふたりの絆が投射されるラストは実に示唆的だ。9.11やトランプ政権以前に発表された作品だが、まさに「今」が書かれている。
また、生殖倫理を根源から問う李琴峰の『生を祝う』にも姉妹を二つに裂く対立構図があり、爆破テロが起きる。
本作で「生の自己決定権」を有するのは産む側ではなく生まれる側だ。胎児に生誕後の「生存難易度」を数字で伝えて、出生意思を確認する「合意出生制度」が法制化された近未来。胎児が拒否しても出産すれば、出生強制罪に問われる。“無断で”産んだ親を子が訴える裁判は、実は完全な絵空事ではない。
同性婚をした主人公は人工妊娠手術で子を宿す。親の勝手な「産意」は「殺意」と同様、他者への支配欲の発露と考える彼女に対し、姉はこの制度に強く反対。出生拒否された経験があり、夫の「次を作ろう」という言葉や立ち直りの早さに傷つき、生の自己決定権という「圧倒的な正しさ」の下で苦しんできた。
人の一生は数値化できるのか? 本当の自由意思とは何か? 作者の本意は、何かへの批判を打ちだすことではなく、複声をぶつけあい人の「迷い」を描くことだろう。作者はそれを成し得て、新境地を拓いている。
一方、産む器官を持たない側はどんな思いでいるだろう。不妊治療の日々を夫の一人称視点で描いた稀有な小説がある。オランダ作家ロベルト・ヴェラーヘンの『アントワネット』(國森由美子訳)だ。
ブダペストで出会い、幸せな結婚生活を送ってきた30代初めの夫婦が結婚1年余りで不妊治療に入り、2段階の治療と民間療法を経るが結果が出ない。その間に隣人には赤子が生まれ、友人は無神経な質問をしてくる。
夫が何か言えば「男の言い分」だと返されてしまう。彼は自分の「役割」に拘るあまり、感情を失っていき、1人でくしゃみをした時、疲れ切って歯止めが利かなくなった時だけ涙が襲ってくるという。彼はやがて、“子宝”こそ幸せと妻に思いこませた「女性に課せられた典型的な役割、それを日常的に刷りこんだ広告画像の数々、彼女の育てられ方、彼女の遺伝子」を呪うようになる。
冒頭に仕掛けられた控えめな叙述トリックとその意味が最後にわかるとき、夫の薄らとした狂気が全編を包み、彼らが過ごした数年間の傷が深々と実感される。
つまり、産むと決めたのは本人でも、その選択の背後には各共同体の因習があり、その方が国際会議で合意された「権利」よりも重いとわかるのだ。
だからフェミニズムは、女性を縛りつけ家族の世話を強いる母性神話の解体に勤しんできたが、近年はケアの倫理が見直されている。「母」=女性でなく、「母」=「弱い者をケアし守る者」と位置づけ再考する姿勢である。
フェミニストで倫理学者であり、「ケアの倫理」という言葉を初めて提唱したキャロル・ギリガンの著書『もうひとつの声 男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』に啓発された英文学者で『ケアの倫理とエンパワメント』の著者小川公代や、映像作家で『マザリング』の著者である中村佑子、家庭社会学が専門で『母性の抑圧と抵抗』の著者である元橋利恵などが、このスタンスをとる。
中村と元橋は両者とも、母性を論じるのに「戦略的」という語を使い、新自由主義の自己責任論や資本主義のメリトクラシー(能力や業績で人間の価値を決定する社会)による価値構造に抗して、「母的」思考の再評価を促している。
参考:「自明視され/タブー視されてきた母を、今あえて語る」(すばる2022年2月号)、「デジタル時代の「母」とケア──『本心』をめぐって」(文學界2021年7月号)
「かがやく子ども」のディストピア
ディストピアという特定の層にとっての「ユートピア」を実現するには、階層の下部に位置づけられた人びとが理念の犠牲となって社会を支える必要がある。そして社会の分断と格差が露わになるなかで、切り捨てられていくのも弱き者、小さき者だ。
日本では、菅政権が2021年に「こども庁」創設に向けて動きだし、「『こども・若者』輝く未来創造本部」を設置したりしたが、あれはどうなったのか?(「子ども庁」は今年になって「こども家庭庁」と名称変更している) 安倍政権下でも「すべての女性が輝く社会づくり」といった政策が登場したが、政策名に「輝く」がつくと、どうもディストピアめいて見えてしまう。そのダークサイドを作為的な輝きで隠そうとしている気がするのだ。
たとえば、佐藤究の『テスカトリポカ』を見てみよう。本作は古代王国アステカの神話を下絵に、無戸籍児童を狙う「心臓移植ビジネス」を物語の中核に据えたノワール小説の傑作だが、その背後には、海をまたいで広がる「麻薬資本主義(ドラッグ・キャピタリズム)」がある。
1990年代、アメリカ合衆国と国境を接するメキシコ北東部の街から、ジャカルタ、川崎へと舞台を移し、麻薬密売の大物、野望を抱く闇医者、天涯孤独の怪力の少年、表向きは虐待児童を救うNPO〈かがやくこども〉(ほら、輝いた)の女性職員、シェルターに監禁される児童たちなどの姿をオムニバス形式で描きだしている。
彼らは病気の子どもをもつ富裕層を相手に、臓器の密売網を拡大させ、富める者だけが命を永らえるという「ユートピア/ディストピア」を築きあげる。孤児院などで暮らす子たちは養子縁組をされると信じて〈かがやくこども〉のスタッフにある場所へ連れていかれる。富裕者らは子どもの心臓を買いとり、その子の魂はわが子の中で「継続」するのだという「物語」を夢想する。
生死をめぐるこうした考えはカズオ・イシグロの最新長編『クララとお日さま』にも見られる。ヒロインである病弱な少女の両親が願った生の「継続」も、科学的根拠よりそうした「物語」に依拠するものだ。先端科学技術が更新するのは肉体の機能や回復力だけではない。「生きている」とはどういうことかという命の概念、つまりは生のストーリーなのだろう。
『テスカトリポカ』と同じく中南米/東南アジアの架空の町を舞台にしたアンドレス・バルバ『きらめく共和国』(宇野和美訳)は、このタイトルから爽やかなヤング・アダルト小説と思われそうだが、移民・難民問題が深刻な問題となっている現在、ぜひ読まれるべき予言的な一冊である。
舞台は、猛々しい緑のジャングルと、真っ赤な土と、茶色く濁った川に彩られたサンクリストバルという中南米か東南アジアの架空の町。ここに住む社会福祉課課長が、22年前にこの町に赴任してきたころ起きた衝撃的な事件を語り起こす。
あるとき、泥の川から湧いて出たように、32人の見知らぬ子どもたちが現れ、店からものを盗んだり、人を襲ったりするようになる。彼らは町のだれもわからない謎の言語を話し、夜になるとジャングルに消えていくようだ。
この子どもらは難民とも孤児とも書かれていないが、アメリカと中南米の国境地帯で多く保護されている「子ども難民」をも強く想起させるだろう。本作は自分たちと違う異質なものとの出会いを通じて、他者を理解するとは、逆に排除するとはどういうことかを問う。
町には人びとの「理解不能なものに対する、どうしようもない軽蔑」が集団心理として形成され、異物への不寛容が生まれる。あるとき語り手は反省してこう考える。自分も「あの(突然現れた)子どもたちは、どの子も区別のつかない子ども、何十万人のほかの子どもと変わらない子ども、私たちにとって無用の子どもだと思っていた」のだと。
この「小さな野蛮人」たちはある一件を機に排斥され、地下に閉ざされた自由王国を築くことになる。終盤で地底世界に出現する、きらめく「祭り」に総毛立った。わたしたちが暮らす社会には、小さき弱き異質者たちを排外して成り立っているところが、多かれ少なかれあることを否が応でも思いだすからだ。
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鴻巣友季子
1963年、東京生まれ。翻訳家、文芸評論家。英語圏の現代文学の紹介とともに古典新訳にも力を注ぐ。『風と共に去りぬ』(全5巻、新潮文庫)の他、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』(同)、ヴァージニア・ウルフ「灯台へ」(『世界文学全集2-01』河出書房新社)の新訳も手がける。他訳書に、J・M・クッツェー『恥辱』『イエスの幼子時代』(ともに早川書房)、アマンダ・ゴーマン『わたしたちの登る丘』(文春文庫)など多数。『熟成する物語たち』『謎とき『風と共に去りぬ』 矛盾と葛藤にみちた世界文学』(ともに新潮社)、『翻訳ってなんだろう? あの名作を訳してみる』(ともに筑摩書房)など翻訳に関する著書も多い。
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「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 鴻巣友季子
-
1963年、東京生まれ。翻訳家、文芸評論家。英語圏の現代文学の紹介とともに古典新訳にも力を注ぐ。『風と共に去りぬ』(全5巻、新潮文庫)の他、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』(同)、ヴァージニア・ウルフ「灯台へ」(『世界文学全集2-01』河出書房新社)の新訳も手がける。他訳書に、J・M・クッツェー『恥辱』『イエスの幼子時代』(ともに早川書房)、アマンダ・ゴーマン『わたしたちの登る丘』(文春文庫)など多数。『熟成する物語たち』『謎とき『風と共に去りぬ』 矛盾と葛藤にみちた世界文学』(ともに新潮社)、『翻訳ってなんだろう? あの名作を訳してみる』(ともに筑摩書房)など翻訳に関する著書も多い。
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