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土足の限界 日本人はなぜ靴を脱ぐのか

2024年7月8日 土足の限界 日本人はなぜ靴を脱ぐのか

第5回 日本の風俗とむきあって

著者: 井上章一

「玄関で靴を脱いでから室内に入る」。日本人にとってごく自然なこの行為が、欧米をはじめ海外ではそれほど一般的なことではない。建築史家であり『京都ぎらい』などのベストセラーで知られる井上章一さんが、このなにげない「われわれのこだわり」に潜む日本文化の隠された一面を、自らの体験と様々な事例をもとに考察する。

陋屋で下駄をはく

 いわゆる南蛮時代に来日した宣教師は、日本家屋でくらしていた。教会や修道院、そして神学校などをたてるさいにも、日本建築をもうけている。本格的な西洋建築を建設したいと、かりにのぞんでも、当時の日本ではできなかった。ミサをはじめとする宗教儀礼も、たいてい畳の上でとりおこなっている。

 前にそうのべた。しかし、彼らが屋内で外履きをぬいでいたかどうかについては、まだふれていない。畳や床板の上で靴をはいていた可能性もあるが、そこについては言葉をにごしている。

 こう書けば、畳の上で靴などありえないと言いかえされるだろうか。しかし、そんなことはない。日本家屋の床に土足であがりこんだ西洋人の記録は、けっこうある。

 たとえば、図を見てほしい。19世紀初頭に、川原慶賀という絵師がえがいた『唐蘭館絵巻』の一場面である。長崎の出島にあったオランダ屋敷での酒宴を、画題にしている。

長崎出島での酒宴。川原慶賀筆『唐蘭館絵巻』(長崎市立博物館蔵、『週刊朝日百科 日本の歴史』1987年3月29日発行より)

 そこには、畳がしきつめられていた。だが、床の上にオランダ人はイスやテーブルをおいている。のみならず、靴をはいていた。彼らは、日本にも屋内での土足生活をもちこんでいたのである。南蛮時代は、これより二百数十年ほどさかのぼる。だが、カトリックの宣教師も、畳の上を靴履きのまま歩いた可能性はある。

 ざんねんながら、南蛮図屏風の画像からは、その実情が読みとれない。畳の上にいる来日宣教師の足は、たいてい長いローブでかくれている。はだしか靴下か、それとも土足なのかはわからない。絵師たちは、そこをえがいてこなかった。

 私は、しかし思っている。家のなかで、彼らは外履きをぬいでいたろう、と。そうおしはかる根拠を、ひとつしめしておく。

 1565(永禄8)年に、京都から宣教師らが追放されたことは、記述ずみである。堺へしりぞき、そこで畳が百枚しかれた教会をたててもらったことも、すでに説明した。その教会ができる前に、同じ堺で彼らは寝泊まりするための家をかりている。フロイスによれば、つぎのようなみすぼらしい家屋であった。

「屋根は老朽しており、雨が降ると、彼らは泥のために下駄をはいて家中を歩き廻り、時には傘をさし、そうして粗末な家財を雨漏りの少ないところへ転々と移した」(『完訳フロイス日本史②』2000年)。

 雨もりの時は、家の床が泥にまみれたという。おそらく、床板などのしつらいは、部分的にしかほどこされていなかったのだろう。過半は、あまりつきかためられていない土間だったにちがいない。あるいは、土間だけだった可能性もある。だから、床はすぐ泥だらけになった。家のなかなのに、下駄をはかねば、くらしていけないような陋屋だったのだと考えられる。

 そして、そのことをフロイスは、わざわざ書きたてた。雨のさいは、屋内でも外履きの下駄が必要になるすまいであった、と。ほんらいなら、そういう履き物はいらないはずだという言外の住居観が、読みとれる。屋内の土足ははばかるという日本的な習慣を、彼らなりにうけいれてくれていたのだろう。

 フロイスらがいた16世紀の日本に、瓦ぶきの屋根は、まだあまり普及していない。少なくとも、庶民住宅の多くは板ぶきの屋根になっている。上に置き石をのせて、それが風でとばないようにはされていた。だが、板屋根だと、雨水はいやおうなくもる。フロイスらが堺で入居しだした家も、そういう類の物件であったろう。

 瓦のない家は漏水がふせげない。どうしても、天井から床へおちてくる。必然的に、そういう家屋へ水に弱い畳はしきにくい。家具なども、すぐいたむ。畳や建具などのしつらいに、板ぶきの屋根はむいていない。それらが普及するためには、瓦屋根の一般化が不可欠の条件となっていたのである。

 キリスト教の施設である教会や神学校には、しばしば畳がしかれていた。襖や障子などもそなえられている。16世紀の建築としては、けっこうりっぱな物があたえられていたのだと、みなしたい。畳じきの建物を提供した有力者たちは、それなりに遠来の客へ気をつかったのである。

 ただ、時には庶民なみの家でがまんをしなければならない場合もあった。そして、そういう時だけは、屋内での下駄履きを余儀なくされたのだと考える。少なくとも、雨の日は。

なれない礼式

 室町幕府の将軍である足利義輝は、1560(永禄3)年にキリスト教の布教を肯定した。ガスパル・ヴィレラに、教会の保護も約束している。以後、ヴィレラらは京都でくらしだす。

 だが、将軍義輝は1565年に殺害された。政治にめざめだしたことを、三好義継や松永久秀にうとまれたせいである。これで、五年前に将軍があたえた布教の許可は、反故となった。この年に、宣教師らが京都から河内へおちのびたのも、そのせいである。

 にフロイスが来日したのは1563(永禄6)年であった。京都まででてきたのは、その二年後である。そして、フロイスはヴィレラともども、将軍義輝の居館へおもむいた。教会への好意的な姿勢に、感謝の意をつたえるためである。義輝じしんが弑殺(しいさつ)される、その四ヵ月半ほど前であった。

 義輝は彼らをてあつくもてなしたらしい。また、彼らが自分の妻や母と面談する機会も、あたえている。この母とフロイスらが対面した記録は、興味深い。

 フロイスは書く。「公方様の母堂」とむきあったのは畳をしきつめた「広間」であった。そこでは、「多数の貴婦人たち」と食事をともにする。そして、食後、「母堂」はフロイスらに、こうつげた、と。

 「異国の人たちには、日本式の礼式はさぞかし新奇で不馴れに相違ないのに、彼らがそれらの礼式にいとも通じているのは驚くべきことだ」(『完訳フロイス日本史①』2000年)。

 外国の人たちが日本の作法にしたがったことを、ほめている。この言葉はフロイスらが箸をつかいこなしていることへ、むけられた。前後の文脈からは、そう読みとれる。宣教師たちが靴をぬいで「広間」へあがったことは、とくにさしていない。

 だが、どうだろう。この高評価は、彼らの振舞ぜんたいへおよんでいたように、うけとれなくもない。たとえば、外履きの着脱に関する態度も、ふくまれていただろう、と。

 仮定の話をしたい。もし、彼らが土足のまま畳の「広間」を歩いておれば、どうなったか。その場合、義輝の「母堂」がフロイスらへほめ言葉をかえしたとは、思いにくい。たとえ、箸さばきがあざやかであっても、あきれたのではないか。

 「不慣れ」な「日本式の礼式」によくぞなじんでくれました。こういう感嘆を彼らがかきたてている以上、以下のように判断せざるをえない。やはり、彼らは畳の上へ土足であがることをつつしんだのだ、と。

 のちに、宣教師たちは織田信長や豊臣秀吉ともであっている。そして、信長には西洋の椅子を贈呈した。秀吉にはベッド、寝台をあたえている。自分たちの土足ぐらしとともにあった家具を、プレゼントとしてさしだした。

 それでも、進呈のおりに、彼らが土足であったとは思いにくい。少なくとも、信長らの屋敷へはいる時は、靴をぬいでいただろう。

 19世紀、幕末に来日した欧米の外交官は、しばしば江戸城へ土足であがりこんだ。あとでくわしくのべるが、城内の将軍とも、靴をはいたまま会おうとしている。そして、そういう強い姿勢を宣教師たちはとらなかった。権力者にとりいって、布教をあとおししてもらう。そのためには、現地の習慣にとけこむこともやむをえないと、考えていたのである。

ヴァリニャーノか、カブラルか

 筆まめなフロイスは、日欧の比較文化論を1585(天正13)年にまとめている。なかに、履き物とかかわる生活の対比を、こう論じたところがある。

 「われわれは履物をはいたまま家にはいる。日本ではそれは無礼なことであり、靴は戸口で脱がなければならない」(『ヨーロッパ文化と日本文化』1991年)。

 そして、宣教師たちの多くは日本人から無礼だと思われることを、いやがった。自分たちの居宅でも、誰かの家をおとずれる時でも、たいてい靴はぬいでいる。

 日本へきた商人たちに、同じ配慮があったかどうかは、わからない。貿易商たちは、自分たちの居宅で靴をはきつづけた可能性がある。その点では、のちのオランダ商人たちとかわらなかったかもしれない。だが、多くの宣教師たちは屋内での土足をいましめた。

 なかでも、強くこのことを指導したのはアレッサンドロ・ヴァリニャーノである。来日は1579(天正7)年。以後、さまざまな機会に西洋人宣教師へ日本の生活習慣をうけいれるよう、よびかけた。たとえば、有馬でもうけた神学校の内規に、こうしるしている。

 「畳は毎年取り替える」

 「生徒は畳の上で眠る」(『日本巡察記』1973年)。

 この内規は、翻訳者の松田毅一がしるした『日本巡察記』の解題からひいた。なお、この解題は「長崎協議会」の「議事録」も、一部紹介している。そこには、こうある。

 「履物は日本風でもヨーロッパ風でもよいが、座敷や二階で用いてはならぬ」(同前)。

 畳のとりかえや土足の問題にこだわったのは、家屋の清潔さを重んじたからである。日本人は、よごれた家でくらす人を信用しない。キリスト教をひろめるためには、自分たちの修道場を美しくたもつ必要がある。そんな判断があっての言及であろう。じじつ、ヴァリニャーノは「日本諸事要録」(1583[天正11]年)でものべていた。

 「一切のものを日本の風習通り清浄にせねばならない。日本においてこれは非常に重要なことであり、不潔さは日本人には絶対に堪え難い」(同前)。

 これも、松田があらわした解題からの引用である。とにかく、ヴェリニャーノは、強い口調で説得につとめている。こういう口吻は、それにしたがわない西洋人宣教師の存在を、かえってあぶりだす。たとえば、フランシスコ・カブラルである。彼は日本の生活様式をとりいれようとしなかった。そんなカブラルのことを、ヴァリニャーノは、つぎのようにくさしている。

 「彼はその後も、日本の風習に順応しなかった。彼は修道院内で高い机で食事し、テーブル布やナフキンを使用させた(中略)日本人は住居、食堂、台所で清潔を好むので、彼を不潔と見なし、きわめて嫌悪した」(同前)。

 ざんねんながら、カブラルが修道院内で土足生活をしていたかどうかは、不明である。ただ、靴をぬがない西洋人のキリスト教徒も、いくらかはいたのだろう。だからこそ、ヴァリニャーノも、口をすっぱくして言いつのったのだと考える。

 宣教師たちも、日本へきて靴をはかない屋内生活にめざめたわけではない。ただ、布教のつごうで、そういう生活様式は日本へあわせたほうがよいと見きわめた。その意味では、打算にもとづく方針であったと言ってよい。

 

*次回は、8月12日月曜日更新の予定です。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
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それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
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「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

井上章一

1955(昭和30)年、京都府生れ。京都大学大学院修士課程修了。国際日本文化研究センター所長。『つくられた桂離宮神話』でサントリー学芸賞、『南蛮幻想―ユリシーズ伝説と安土城』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。著書に『京都ぎらい』『学問をしばるもの』『美人論』『関西人の正体』『ヤマトタケルの日本史 : 女になった英雄たち』などがある。

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