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土足の限界 日本人はなぜ靴を脱ぐのか

2024年12月9日 土足の限界 日本人はなぜ靴を脱ぐのか

第10回 ブーツ、そして靴袋

著者: 井上章一

「玄関で靴を脱いでから室内に入る」。日本人にとってごく自然なこの行為が、欧米をはじめ海外ではそれほど一般的なことではない。建築史家であり『京都ぎらい』などのベストセラーで知られる井上章一さんが、このなにげない「われわれのこだわり」に潜む日本文化の隠された一面を、自らの体験と様々な事例をもとに考察する。

ショート・シューズではどうか

 日本に拉致された船長のゴロウニンらを、とりもどす。ディアナ号にのこされた部下のリコルドは、そのため日本側との交渉へのりだした。松前奉行らとのやりとりには、高田屋嘉兵衛を信頼し、むかわせている。

 ロシアと日本のあいだにはさまり、嘉兵衛がどう話をすすめたのかは、論じない。日露間の国境問題も浮上したのだが、ここでは言及をさける。とにかく、彼は両者の妥協点をさぐりあて、和解へこぎつけた。ディアナ号へゴロウニンをつれてかえることにも、成功している。

 交渉の過程で嘉兵衛は、洋上に停泊するディアナ号と奉行所のあいだを、なんども往復した。そして、ある日、船で待機するリコルドのもとへ、朗報をとどけている。松前奉行の重役がロシア人たちにあうことをきめた。明日は対面の場へいってほしい。そこで接見をおえれば、すべてのけりがつく、と。

 リコルドの手記によれば、この時嘉兵衛はつぎのような要望も、つけくわえた。

「接見の間はきれいな敷物を敷き、その床の上に当の両長官も着座されるのだが、皆さんはその部屋に靴履きのまま入るのかね。土足で家に入るのは、日本古来の習慣に反し、この上もない失礼だ。だから皆さんは控室で靴をぬいで、靴下だけで接見の間に入つて貰はねばならん」(「1812および1813 日本沿岸航海および対日折衝記」『日本幽囚記[下]』、1946年)

 ゴロウニンらを釈放する準備はととのった。奉行所は会見の場を、とくべつにこしらえている。けっこう、りっぱな建物である。さっそく、そこへでかけてほしい。でも、みなさん、まさか床の上へ土足であがったりはしないよね。嘉兵衛は、念をおすような口調で、ディアナ号の面々にそうつげた。

 話を聞かされ、リコルドはおどろく。靴をぬげだって。「ヨーロッパ人にとつて」、それは「思ひがけもない奇怪な要求」である。「私もしばらくは面喰つてしまつた」。以上のように、彼の手記は言葉をつづけている(同前)。

 事前の下交渉で、靴履きうんぬんをめぐる作法上の注文は、聞かされていない。だから、そんなことが問題になるとは思ってこなかった。接見には靴履きのままのぞむ。リコルドは、何もうたがうことなく、はじめからそう思いこんでいた。そのため、奉行の意向をつたえる嘉兵衛には、こうあらがっている。

「正装帯剣でしかも靴なしなどといふことは、たとひどう云ふ名目でも承知できない」(同前)

 また、靴がぬげない理由も、以下のようにのべた。

 「西洋では靴をはかずに他所へ行くのは失礼どころか、この上もない不名誉なことだよ。その訳は、西洋では靴をはかないのは、鉄鎖につながれた国事犯だけだからだよ。だから知つての通り、使節といふ特別の資格を持つた俺がだ、靴もはかずにどうして日本の高官を訪問できるものか」(同前)

 リコルドは、ゴロウニンの副官であった。そして、船長がいないあいだは、臨時に船長代理となっている。松前藩や幕府との交渉でも、とうぜん外交使節としてのぞむことになる。そんな立場の自分が、接見の場で靴をぬぐわけにはいかないという。

 外交の儀礼的な場には、おりめただしい姿でおもむかねばならない。それが使節のつとめになる。靴なしでの臨席は、そのマナーを逸脱しすぎている。はだしや靴下履きだけといういでたちは、正装たりえない。そうリコルドは抗弁した。

 この返答を聞いて、嘉兵衛は言葉につまったらしい。もちろん、部屋のなかでも靴履きのままですごすロシア人の習慣は、わきまえていた。しかし、こうまで強く、そのならわしに拘泥するとは、思っていなかったようである。嘉兵衛とすれば、絶句するしかなかったということか。

 言葉をうしなった相手の様子を見て、リコルドは考えをあらためる。とにかく、日露のあいだでは、妥結の筋途(すじみち)が見えていた。ゴロウニンを解放してもらう合意もとりつけている。西洋的な正装にとらわれて、両者の会見をだいなしにするのは、いかにもまずい。なんとか、おりあおう。そう心をくだき、嘉兵衛にはこうつげた。

 「この会見を打ち壊はさないために、こちらから大譲歩をする用意がある」(同前)

 自分たちのこだわりをおさえ、お前たちに歩みよってもよい。妥協の手だてはあるという。では、どういう便法を、この時リコルドはひねりだしたのか。手記からの引用をつづけよう。ディアナ号の船長代理は、奉行所からの使者である嘉兵衛へ、もちかけた。つぎのようなやりかたもあるが、どうか、と。

 「西洋でも非常な大官に対し、特別の敬意を表しようとする時には(中略)控室に入つて長靴を脱いで、お前も知つてゐる短靴をはく習慣があるんだ」(同前)

 ブーツ(長靴)を足からはずして、ショート・シューズ(短靴)にはきかえる。つまり、(かかと)をつつむ室内履きに足先をとおしなおす。それでも、ロシア側の体面はたもてる。日本人のいやがる土足での入室も、いちおうさけられる。これでどうだろうと、嘉兵衛にたずねている。

 外履きにつかった靴で、床の上をあるくのはあきらめる。かわりに、べつの室内履きへ、これも靴の一種だが、はきかえるという提案である。なにがなんでも、はだしや靴下だけという姿は、さけたい。ロシア側は、それだけ強く靴にこだわった。その執着ぶりが、よくわかる。

 リコルドの申し出に、嘉兵衛はとびついた。たいそうよろこびながら、以下のようにこたえたらしい。

 「それで沢山だ。それなら双方とも顔が立つて、立派に礼儀が保たれる。わしはその短靴を日本の足袋と同じものだと話し、皆さんは長靴を脱いで、革足袋で接見の間に入ることに同意されたんだと伝へるよ」(同前)

 奉行所には、つたえておく。ロシア人たちは、接見所の控室で短靴にはきかえる予定である。だが、あいかわらず靴をはいていると、心配するにはおよばない。彼らの短靴は、自分たちの足袋に該当する。それは、革でできた足袋にほかならない、と。

 しかし、ショート・シューズを、足袋とはみなせまい。両者は履き物としてのカテゴリーが、ちがう。そんな短靴を足袋の同類と言いくるめる物言いには、無理がある。だが、嘉兵衛は短靴と足袋の同一視に活路を見いだし、その線で接見をなりたたせた。

 外交上の一致点には、大なり小なり似たような事前のすりあわせがある。双方が、たがいのずれに気づかぬふりをして、共通の理解へいたった風をよそおう。そういう妥協なしに、外交はなりたちがたい。函館の役人にも、短靴の着用をいぶかった者はいただろう。しかし、そこには目をつぶったのだと考える。

靴をつつみこむ

 日本で捕縛されたゴロウニンは、リコルドや高田屋嘉兵衛らの尽力で解放された。二年以上つづいた拘束から自由になったのは、1813(文化10)年のことである。

 ペリーのアメリカ艦隊が浦賀に入航したのは、その40年後、1853(嘉永6)年であった。同じアメリカのモリソン号が、日本へたちよろうとしたのは1837(天保8)年である。こちらも、ゴロウニンの解放から24年たっている。日本への接近という点では、アメリカよりロシアのほうが、ずっとはやい。

 ただ、ペリーらが日本へむかったというニュースは、ロシアの外交当局をあわてさせた。まだ、日本とはなんの条約もむすべていない。このままでは、対日交渉でアメリカにおくれをとる。そんなあせりもあり、新しい使節を派遣するはこびとなった。パルラダ号を旗艦としたプチャーチンの一行が日本へきたのは、そのためである。

 彼らは、1853年に長崎で錨をおろしている。日本到着の年は、ペリー艦隊とかわらない。ただ、プチャーチンの船団が長崎にたどりついたのは、7月であった。いそぎはしたが、6月に浦賀へきたペリーより、少しおくれた来日となっている。

 さて、パルラダ号には、ロシアの有名な作家も同船していた。のちに『オブローモフ』という長編小説を完成させるゴンチャロフが、つきそっている。使節のなかでは、記録係の役目をはたしていた。帰国後は、その体験記を『フレガート・パルラダ世界周航記抄』として刊行してもいる。そこには日本での記録、『日本渡航記』もふくまれる。

 これによれば、長崎奉行との交渉には、ずいぶんてこずったようである。国境画定や条約締結といった難問をめぐるそれだけをさして、言っているわけではない。交渉をはじめる前に、接見の礼法を調整しあうことでも、神経をすりへらしている。ゴンチャロフの記録には、こうある。

 「我々は坐るか坐らぬか、立つか立たぬかの問題を、それから何の上にどんな風に腰を下ろすかといふやうな問題を幾日も幾日も議論したのである」(『日本渡航記』、1941年)

 床の上では、どうふるまうか。すわりかたは、どのようにしたらいいだろう。長崎奉行は、もっぱらそういう所作のありかたを問題にしたという。それも、えんえんと。

 本格的に外交関係をむすぶつもりがないから、立居振舞などの礼法へ話をそらせた。そんな一面も、なかったとは思わない。しかし、幕府の役人にとっては、行儀も大きい問題だったのだと考える。狄夷(いてき)の習慣などにあわせるようなことがあってはならない。おおまじめに、彼らはそう念じていたはずである。

 もちろん、長崎の役人たちは、接見の室内における土足をいやがった。外履きを着用しつづけることにたいしては、ねばり強くあらがっている。そして、これについてはロシア側も、しぶしぶ妥協した。ただ、おりあいのつけかたは、40年前のリコルドらと、ちがっている。もういちど、ゴンチャロフの記述を読みかえそう。そこには、こんな提案と指摘がある。

 「薄手の麻やキャラコで短靴を縫つて、日本室に入る際これを靴の上にかぶせることを考へついた(中略)日本人達が物を食つたり、飲んだり、寝たりする畳の上を、我々が土足にかけようとしないことは、彼等の気に入るに違ひない」(同前)

 日本人は畳の上で食事をし、睡眠もとる。畳はテーブルやベッドの役目もになっている。西洋的な床とはちがう。そんな畳を清潔にたもちたいという日本人の気持ちは、よくわかる。たしかに、土足では歩かれたくあるまい。以上のように、ゴンチャロフは畳ぐらしへの理解をしめしている。

 そして、そのうえで、オーバー・シューズという案をひねりだした。自分たちは靴をはいたまま畳の上へあがる。だが、その靴は入室前に、靴の形をした布袋でつつまれることとなる。靴に付着した屋外のほこりは袋の外へでないので、部屋をよごさない。これなら、日本人もうけいれるだろうという案である。そこまでして、靴はぬぎたくなかったのかと、感じいる。

 じっさい、この袋をぬいあげるのには、手間がかかったという。「一昼夜のうちに上靴を縫ふのだから大騒ぎであつた。針の使へるほどの者はみんな使つた」(同前)。そうも、ゴンチャロフは書いている。接見へむかうその前日に、ようやくこのアイデアはひねりだせたようである。

 もっとも、ゴンチャロフじしんのオーバー・シューズは、できが悪かったらしい。それは室内を歩いている時に、二度ほど靴からはずれ、床へおちてしまったという。そのため、一時的には畳の上を外履きの靴で歩行することとなった。

 長崎の役人が、この失態を見とがめた形跡は、『日本渡航記』を読むかぎり、うかがえない。見のがしたのか、大目に見たのかは不明である。

 最後にひとこと、のべそえよう。1853年の年末に、ふたたびプチャーチンは日本へ来航した。こんどは下田へ船をつけ、幕府の外交担当者とも交渉をしている。

 そのおりに、くりひろげられた儀式の絵がある。図1は、ロシアの国書にたいする日本側の返書を、わたす場面となっている。図2は、ロシア側へ贈答品をさしだす光景である。いずれも畳の上で、展開されている。しかし、ロシア人たちがオーバー・シューズをはいているようには見えない。

図1:プチャーチン来航時、ロシア側の国書に対する返書を渡す様子
図2:ロシア側への贈呈品として絹織物が贈られる様子
(図1、2ともに宮川由衣編『西南学院大学博物館研究叢書 明治日本とキリスト教―蒔かれた種―』西南学院大学博物館より)

 五カ月ほど前の妙案は、かえりみられなくなった。やはり、急ごしらえの靴袋はゴンチャロフの場合のみならず、はずれやすかったのだろう。いずれにせよ、下田では短靴へはきかえ、儀典にのぞんだようである。40年前のリコルド案へ回帰したということか。

 もちろん、下田のロシア人たちは、土足のまま畳にあがった可能性もある。絵だけをながめるかぎり、それは否定しきれない。しかし、土足で儀礼をとりおこなうようなことは、おそらくしなかったろう。私がそう考える理由は、おいおい書いていくつもりである。

 

 *次回は、2025年1月13日月曜日更新の予定です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
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それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
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「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

井上章一

1955(昭和30)年、京都府生れ。京都大学大学院修士課程修了。国際日本文化研究センター所長。『つくられた桂離宮神話』でサントリー学芸賞、『南蛮幻想―ユリシーズ伝説と安土城』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。著書に『京都ぎらい』『学問をしばるもの』『美人論』『関西人の正体』『ヤマトタケルの日本史 : 女になった英雄たち』などがある。

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