第9回 ロシアの影
著者: 井上章一
「玄関で靴を脱いでから室内に入る」。日本人にとってごく自然なこの行為が、欧米をはじめ海外ではそれほど一般的なことではない。建築史家であり『京都ぎらい』などのベストセラーで知られる井上章一さんが、このなにげない「われわれのこだわり」に潜む日本文化の隠された一面を、自らの体験と様々な事例をもとに考察する。
土足のラックスマン
江戸時代にも、海外での生活を余儀なくされた者は、少なからずいた。何度も紹介してきたが、18世紀末に漂民となった大黒屋光太夫も、そのひとりである。ただ、彼は1792(寛政4)年に、日本へかえることができた。帰国がかなった、めずらしい例だと言える。
光太夫をオホーツクから根室へおくりとどけたのは、ロシアのラックスマンである。彼は光太夫の日本送還を、エカテリーナ2世からたくされた。のみならず、日本との通商交渉もおこなうよう、命じられている。つまり、外交使節としての任務もあたえられていた。
ロシアの使節をむかえた松前藩と幕府は、しかし交易の開始をみとめない。光太夫の身柄を根室でひきとることも、その場ではことわった。ラックスマンには函館へまわるよう要請し、そちらでこの日本帰還者をうけいれている(1793[寛政5]年)。
通商をもとめるエカテリーナ2世の信書は、函館でもさしもどした。交易に関しては、つめたい態度をとっている。そのかわりに、長崎への寄港をゆるす信牌、つまり許可の証となる札をてわたした。通商は長崎奉行の管轄だから、そちらへいって交渉しろというのである。もちろん、長崎奉行も拒絶するだろうことは、おりこみずみだったろうが。
信牌をあたえられたラックスマンは、しかし長崎へでむいていない。理由はわからないが、ロシアへかえっている。そして、この信牌はつぎに日本へむかう新しい使節へ、てわたされた。これをたずさえ、十一年後の1804(文化1)年に長崎へやってきたのはレザノフである。
この時、長崎奉行はレザノフを、ひややかにあしらった。かなりつっけんどんに、ロシアの通商要求をしりぞけている。国書のうけとりにもおうじていない。やはり、長崎への寄港許可は、門前払いのたらいまわしでしかなかったようである。
事前にラックスマンから、日本情報をしいれていたのだろう。レザノフは、前任者の根室体験に関する伝聞を、自分の著作へ書きとめている。畳の部屋でくりひろげられた交渉の様子も、記録していた。これを信じれば、根室の役人はロシア人たちへ、以下のように要求したらしい。
「大黒屋光太夫を連れてきたラクスマンは、根室で開かれた日本側との交渉の際、靴を脱ぎ平伏することを要求されたが、それを拒否、会談は日本人は日本式に畳に座り、ロシア人はロシア式に椅子に腰掛けて行なわれた」(『日本滞在日記』、2000年)
靴をぬげ。ひれふせよ。松前藩や幕府の役人は、交渉へのぞもうとするロシアの使節に、そうつげた。高圧的な連中だなと、ロシア側は思ったろう。日本人の漂流者をたすけたことへの謝意が、まるでうかがえない、と。まあ、根室の役人たちは、光太夫らの帰国をもてあまし、困惑したのだろうけど。
いずれにせよ、ラックスマンの一行は根室側の要請にしたがっていない。畳にすわった日本人たちの前で椅子をもちだし、そこへ腰をかけている。ロシア流の、西洋的なとも言えるが、ならわしを堅持した。靴もそのままはきつづけ、土足で床にあがったようである。
オランダの商人たちも、長崎のオランダ商館では靴履きのくらしをつづけていた。しかし、日本人の屋敷へあがる時は、それを足からはずしている。しかるべき幕府の役人とむきあうさいには、ひれふしもした。日本の生活習慣とおりあいをつけるよう、つとめている。だが、来日したロシアの使節は、それを卑屈にすぎる態度だと軽蔑した。
レザノフを日本へおくりこんだのは、ナジェジダ号という船である。その艦長であるクルーゼンシュテルンは、長崎のオランダ人たちをなじったらしい。お前たちは、日本人にへつらいすぎている、と。
そう聞かされたオランダ商館長のドゥーフは、反論を自分の回想録に書きとめた。「我等が日本人に対して行ふ礼法は、彼等が相互に行ふもの」である、と(『ヅーフ日本回想録』、1928年)。
日本側も、日本人どうしの日常的な礼節より深いそれを、西洋人に強制してはいない。自分たちは、彼らの平均的な礼法にしたがっているだけである。それの、どこが屈辱的なのかとしるしていた。ただ、外交官を相手とする反駁はロシア皇帝への非礼になると考え、ひかえたが。
外交官は母国の体面をせおっている。相手国の習慣には、なかなかあわせられない。だが、商人はそういう面目を気にせずふるまえる。そのちがいが、オランダとロシアのあいだで表面化したということか。
ともかくも、18世紀末の日露交渉は、画期的な事態を日本の生活史にもたらした。日本人の館にも、土足のままあがりこもうとする西洋人が、登場したのである。日蘭の交流では顕在化しなかった文化の溝が、うかびあがりだしたのだと言ってもよい。
ゴロウニンと草履取り
長崎奉行からつめたくあしらわれたレザノフらは、しばらく長崎にとどまった。江戸から派遣される幕府の目付と対面するまで、滞在しつづけている。しかし、五カ月後にやってきた目付は、奉行以上にロシアの要求を強くはねつけた。
皇帝からの国書や進物は、いっさいうけつけない。通商のもとめも拒絶する。のみならず、すみやかに長崎をたちのくよう通告した。長崎への寄港を、いちおう許可したはずのロシア人に、でていけとつげたのである。けんもほろろの構えであったと、言ってよい。
こういう日本側の態度に、よほど腹をたてたのだろう。レザノフは部下の海軍士官に、カムチャツカへの帰航途上、日本人の集落をおそわせた。サハリン島やエトロフ島の入植地で、狼藉をはたらかせている。
レザノフらの振舞いは、幕府当局者を震撼させた。彼らに北方警備の重要性を、認識させている。間宮林蔵らがサハリン探険にのりだしたのも、そのためである。
レザノフ来日の七年後、1811(文化8)年のことであった。松前警備の部隊は、エトロフ島などで測量にあたっていたロシア人を、捕縛する。つかまったのは、ディアナ号で世界周航の旅にでていたゴロウニンらであった。レザノフの部下による日本人襲撃への、報復的な処置であったとみなしうる。
この一件で、彼らは二年三カ月におよぶ幽閉生活をしいられた。ゴロウニンは、その体験記を書いている。初版は1816(文化13)年に、ロシアで刊行された。日本や日本人にたいするリアルな観察眼が評価されたのだろう。この著作は、すぐに英語やフランス語などへ訳された。日本でも、1821(文政4)年には、オランダ語版からの翻訳が、開始されている。
なかに、松前藩の奉行所へ連行された時の様子をしるしたところがある。「護送の卒たち」は「履を脱ぎ、これを門の脇に置き、われわれにも靴を脱げと命じた」、と(『日本幽囚記[上]』、1943年)。
ゴロウニンらは、土足のまま奉行所へあがることが、ゆるされなかった。当時の日本人にとっては、あたりまえの処置であったろう。しかし、彼らにとっては、わざわざ書きとめるにあたいする処遇だったのである。日本人たちは、われわれが建物へはいる前に靴をぬがせるんだと、ことごとしく。
ゴロウニンの記録は、日本の草履をロシアのスリッパに、なぞらえてもいた。日本人の履き物は、着脱がたやすい。その点は、スリッパによく似ている、と。そのことは、前にスリッパを論じたところで、紹介した。
なぜ、日本人はそんなたよりない履き物で、くらしていけるのか。ゴロウニンの幽囚記は、その理由にも言いおよぶ。
「日本人にとつては敏速にぬいだり、はいたり出来るこんな履物が極めて必要である。といふのは彼らは入口のところで必ず履物をぬぎ、どんな家でも上るには足袋だけか、素足になるからである」(同前[下]、1946年)
屋内外をゆききするたびに、履き物をぬいだりはいたりさせられる。そんな生活をおくっているから、スリッパのような草履が必需品になったのだ、と。
ゴロウニンらがとじこめられているところへは、しばしば松前の役人がやってきた。けっこう身分の高い者も、ロシアの捕虜を見にきたらしい。幽囚記は、そんな役人たちの挙措を、めずらしげにこう書いている。
「われわれの監禁されてゐた場所に入る時でさへ、奉行に次ぐ高官といへども、敷居のところで必ず草履をぬいで来たものである。これ位の高官になると、さうした場合には召使が草履をうけとつて、出る時にまた差出すのが例であつた」(同前)
入室にさいしては草履をぬぐ。のみならず、彼らの足からはずされた履き物を、一時的にあずかる従者さえいたという。いわゆる草履取りの存在におどろいている様子が、よくわかる。
18世紀末以後、ロシアと日本はオホーツク海で、緊張を強めていった。日露戦争へといずれはむかう、その前触れめいた事態がおこっている。当時の日露関係史は、しばしばそういう文脈で語られてきた。だが、私はそこにべつの歴史をつけくわえよう。それは、土足をめぐる日本と西洋の齟齬が、はじめて外交問題になった時代でもある、と。
脱ぐなと言われた日本婦人
ゴロウニンらは、クナシリ島とエトロフ島での測量中にとらえられた。しかし、すべての乗組員が、松前藩や幕府の警備隊に捕縛されたわけではない。つかまったのは、8人だけである。ほかのロシア人たちは、この難をまぬがれた。そして、彼らは船長のゴロウニンを奪回すべく、ディアナ号で機会をうかがうことになる。
船長が捕捉されたあと、ディアナ号では副船長のリコルドが指揮をとりだした。そのリコルドが、クナシリ島で高田屋嘉兵衛という日本人をとらえている。嘉兵衛は北海道での市場開拓を、幕府からまかされた海運業者であった。ゴロウニンをうばわれたロシア人たちが、意趣返しにその身柄を拘束したのである。
カムチャツカへ連行された嘉兵衛は、その地でロシア語をまなびだす。リコルドにとっても、貴重な人材になっていった。幕府とかけあい、ゴロウニンを釈放してもらう。その交渉役としても活用しうる能力を、身につけている。じっさい、彼は日露の間にたって、そのためにはたらきもしたのである。
さて、嘉兵衛は、函館とエトロフ島の往来に、しばしば女性をともなった。道案内をまかせた地元民か、あるいは現地妻だったのか。くわしいことは、わからない。その彼女を、ある時嘉兵衛はディアナ号にさそい、リコルドの船室へつれてきた。
じつは、リコルドも当時のできごとをくわしく書きとめ、記録に残している。さいわい、この書き物もゴロウニンの『日本幽囚記[下]』は併収していた。「1812および1813 日本沿岸航海および対日折衝記」がそれである。なかで、この「日本婦人」がしめした行動は、つぎのようにしるされた。
「ドアのところで彼女は日本の習慣通り藁の靴を脱がうとしたが、私の艦室には絨氈も畳もないので、『私は手振りで、そんな変な礼儀は守らなくてもよい』と知らせた」(同前)
くだんの女性は、リコルドの前で、はいていた草履をぬごうとする。あるいは、草鞋を足からはずそうとした。日本女性のそんな振舞いを見て、リコルドはやめさせる。「変な礼儀は守らなくてもよい」とつげた。彼には、部屋の前で履き物をとることが、奇異なならわしとしてうつったようである。
ゴロウニンは、松前藩の奉行所へあがるさいに、靴をぬげと命じられた。いっぽう、部屋の外へ履き物をそろえようとした「日本婦人」を、リコルドはあやしむ。おかしなことをするやつだと、うけとめた。
日本と西洋では、履き物にたいする考え方がちがう。たがいに、ことなる慣習のなかで生きている。そのことを日露の両民族は、このころから認識しはじめたようである。
*次回は、12月9日月曜日更新の予定です。
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井上章一
1955(昭和30)年、京都府生れ。京都大学大学院修士課程修了。国際日本文化研究センター所長。『つくられた桂離宮神話』でサントリー学芸賞、『南蛮幻想―ユリシーズ伝説と安土城』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。著書に『京都ぎらい』『学問をしばるもの』『美人論』『関西人の正体』『ヤマトタケルの日本史 : 女になった英雄たち』などがある。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
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それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 井上章一
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1955(昭和30)年、京都府生れ。京都大学大学院修士課程修了。国際日本文化研究センター所長。『つくられた桂離宮神話』でサントリー学芸賞、『南蛮幻想―ユリシーズ伝説と安土城』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。著書に『京都ぎらい』『学問をしばるもの』『美人論』『関西人の正体』『ヤマトタケルの日本史 : 女になった英雄たち』などがある。
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