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土足の限界 日本人はなぜ靴を脱ぐのか

2024年10月7日 土足の限界 日本人はなぜ靴を脱ぐのか

第8回 オランダか中国か

著者: 井上章一

「玄関で靴を脱いでから室内に入る」。日本人にとってごく自然なこの行為が、欧米をはじめ海外ではそれほど一般的なことではない。建築史家であり『京都ぎらい』などのベストセラーで知られる井上章一さんが、このなにげない「われわれのこだわり」に潜む日本文化の隠された一面を、自らの体験と様々な事例をもとに考察する。

蘭学者たちの新年会

 オランダ正月という言葉がある。

 長崎出島のオランダ商館では、しばしば正月に祝宴をもよおした。その日程は日本の元旦とくいちがう。江戸時代の日本人は太陰暦の1月1日に、新年をむかえた。だが、オランダの商人たちは太陽暦にしたがい、いわっている。当時の日本的な正月より、こちらは一カ月以上はやい。

 オランダ正月は、そんなオランダ人たちによる新年宴会をさしている。長崎の人びとは、自分たちの正月と日取りのちがうオランダ人の正月を、そうよんだ。

 江戸時代の蘭学者たちが、西洋の学知に傾倒したことは、よく知られる。洋書を読むだけではない。学問以外のことでも、オランダにはかぶれやすかった。その一途さから、蘭癖ぶりがはやされた大名も、いなかったわけではない。

 やはり、オランダに想いをよせてのことだろう。蘭学者たちは、日本人どうしであつまり、江戸で太陽暦の新年会をもよおした。大槻玄沢(おおつきげんたく)が、自分の蘭学塾である芝蘭堂(しらんどう)へ同学の士をまねき、ひらいている。初回は1795年の1月1日、和暦の寛政6年閏11月11日にあたる日であった。なお、大槻家は玄沢の子、玄幹がなくなる1837(天保8)年まで、これをつづけている。

 蘭学者たちは、彼らの集いを新元会と名づけた。元会は太陰暦の元日におこなわれる朝会、宮廷儀礼を意味している。新しい暦による元日の会という含みが、この命名にはこめられていただろう。

 最初の会合については、その様子をあらわした絵がのこっている。市川岳山(いちかわがくざん)の手になる「芝蘭堂新元会図」がそれである(図1)。

図1:市川岳山『芝蘭堂新元会図』寛政6年、早稲田大学蔵(「芸術新潮」1992年10月号より)

 なかに、洋文字のしるされた紙をひろげる男が、えがかれていた。床の間におかれた花瓶のすぐ前で、くだんの人物はそれをしめしている。そして、彼がもっている紙に書かれていたのは、ロシアのキリル文字であった。

 前に、大黒屋光太夫の足跡を紹介したことがある。アリューシャン列島の島に漂着し、長期のロシア滞在をしいられた。ようやく、1793(寛政5)年に日本へかえることができた船頭である。画中でロシアの文字を披露しているのは、この光太夫にほかならない。

 幕府は、日本へかえってきた彼のあつかいに困惑した。けっきょく、番町にあった幕府の薬園へすまわせている。いっぱんの日本人とであうことは、原則として禁止した。そんな軟禁状態にある光太夫を、蘭学者たちは彼らの新年会にまねいたのである。幕府も、そう強くは光太夫の身柄を拘束していなかったらしい。

 西洋のロシアを、じっさいに体験している。ロシア語もできる。そんな光太夫を、ぜひ蘭学者たちとであわせたい。芝蘭堂をひきいる玄沢はそうねがい、この会を挙行した。

 そして、幕府も両者の対面をゆるしている。公式的には、海難事故で死んだことになっていた。もう、生きてはいない。そんな光太夫を、いっとき薬園から解放した。蘭学者とむきあわせることに、合意したのである。玄沢らには、幕府をうごかす政治力があったのか。あるいは、幕府も両者が遭遇することの学術的な意義を、みとめたのかもしれない。

 くりかえすが、光太夫は床の間を背にすわっている。上座(かみざ)と言うしかない場所に、席をあたえられていた。身分は船乗り、あるいは商人である。おそらく、一座のなかではいやしい側にぞくしていただろう。そんな男に、蘭学者たちは特等席をあたえていた。

 西洋世界の実地見聞があることを、高く買っていたのか。真理をおいもとめる志は、ときに身分の隔てをのりこえることがあると、よく言われる。それでも、身分制の桎梏が強かった時代である。思いきった席次の会合だなととらえる人は、多かろう。じっさい、この点で彼らの開明性を強調する指摘は、よくある。

 ただ、そういう意欲をもった蘭学者たちも、みな和服であった。頭をそった者以外は、たいてい髷をゆっている。身なりは、伝統的なそれにしたがった。

 さきほどものべたが、部屋には床の間がもうけられている。まちがいなく、下には畳がしかれていただろう。そして、その上へ蘭学者たちは、靴などはかずに着席した。オランダ人のように、畳の上へ椅子をおき、靴やスリッパですごしたりはしていない。

 オランダ人は、蘭学をとおして日本に多大な影響をあたえた。だが、履き物とかかわるくらしぶりについては、なんの感化もおよぼしていない。オランダが好きでたまらない人びとをも、オランダ風にすることができなかった。オランダ的であることが、とりわけめざされたはずの宴会だったのに。

 ただ、一座の端、画面の右上には、西洋的な椅子へ腰をかけた男がいる。彼はパイプを右手にもち、洋服らしい衣類をはおっていた。オランダらしさをしめすための演出であろうか。玄沢らも、西洋式によそおわせた者を、ひとりだけは用意したようである。

 しかし、椅子の男に、宴席の語らいへ口をはさんだ様子はない。西洋的な気配をかもしだすためだけに、場の脇へそえられたように見える。おそらく、若い塾生のだれかが、このマネキン人形じみた役目をあてがわれたのだろう。

 くだんの男については、足元の描写がない。履き物がどうなっていたのかは、不明である。さむい季節であり、はだしではなかったような気がする。足袋をはいていたのではなかろうか。あるいは、本格的なコスプレで、西洋式に靴かスリッパをはかされていた可能性もある。それがわからないのは、もどかしい。

 たぶん、畳での靴履きは、ありえなかったような気もするが。

テーブルをかこむ人

 「芝蘭堂新元会図」にえがかれた宴会を、私は日本的なそれであったと考える。さきほども、椅子の男をのぞけば、オランダからの感化はないと書いた。だが、この判断は、おそらくいくつかの批判をひきおこすだろう。

 図の一座は、脚の短いテーブルをかこむようにすわっていた。円環上にならんでいる。こういう席の構え方は、身分制度のしがらみをこえていた。なるほど、腰こそ床におとしている。だが、輪になる席次じたいは、日本的な序列の観念をこえていた。そこに、蘭学者の集いらしい近代精神の発露を読むむきは、いるだろう。

 また、この宴会では、テーブルの上に食べ物や飲み物がのっていた。食器類も、同じように卓上へおかれている。こういう会食の形式は、当時の日本的な常識からかけはなれていた。会食者それぞれの前へ銘々膳をだす食事のならわしに、したがっていない。やはり、テーブルをかこむオランダ流の影響はあった、と言われそうな気もする。

 あらかじめ、予防線をはっておこう。まず、輪になる集いだが、これはそうめずらしいならびかたでもない。文人たちの集会、趣味の集まりには、よくあった。たとえば、連歌や俳句の会などでは、身分差へのこだわりがうすまりやすい。序列をわきまえているとは言いがたい円環形式も、じゅうぶん成立しえたのである。

 ここに、「文人集会の図」と題された絵を紹介しておこう(図2)。岩代(いわしろ)の、今の福島県中西部だが、須賀川でひらかれた催しをえがいている。須賀川は蕉門俳諧(しょうもんはいかい)の一拠点で、多くの文人がくらしていた。そこでひらかれた書画会の様子が、画題になっている。

図2:『文人集会の図』(芳賀登他『江戸時代図誌7 奥州道一』1977年、筑摩書房より)

 中央にテーブルはない。だが、あつまった人びとは、全体にまるくなっている。江戸時代には、こういう集まりも、ままあった。蘭学の円環集会だけを、特例としてあつかう必要はない。蘭学者もまた、そういう催しになじんだ文人だったとみなせば、それですむ。

 では、テーブルはどうなのか。椅子とセットになったテーブルが普及するのは、20世紀もなかばをすぎてからだろう。ただ、19世紀のおわりごろから、日本の家庭にも卓袱台(ちゃぶだい)が浸透しだしていた。

 卓袱台は、畳に腰をおとす生活となじむよう、脚を短かくしてある。押し入れなどへ収納しやすくするため、その脚はおりたためるようにもなっていた。日本化したテーブルだと言える。

 この卓袱台は、家庭の民主化をあとおししたと、評価されてきた。それまでの銘々膳では、家内構成員の格におうじて、提供する食事が膳ごとにかえられる。しかし、卓袱台の上へは、それをとりかこむ家族の面々に、共通の料理がはこばれた。家長の権威などは希薄になりやすい食卓であったと、語られることがある。

 もし、そうであるのなら、蘭学者達のテーブルは画期的だったことになる。彼らのテーブルも、脚はたためぬが、参加者の身分序列をあいまいにしていた。そこに、近代のさきがけめいた勢いを読むことも、可能ではあろう。

 だが、こういう背の低い、畳のくらしにあわせたテーブルは、以前からでまわっていた。「蘐園小集図(けんえんしょうしゅうず)」という絵をここに例示しておこう(図3)。えがかれているのは、荻生徂徠(おぎゅうそらい)とその学友たちによる宴会の風景である。絵にしたのは雲峰という人だが、その詳細はわからない。

図3:『蘐園小集図』京都大学文学部博物館蔵(早川聞多『絵は語る12 与謝蕪村筆 夜色楼台図―己が人生の表象』1994年、平凡社より)

 徂徠は1728(享保13)年になくなった。ここに表現されたのは、それ以前の光景である。そんな絵に、脚の短いテーブルがあらわされていた。

 新元会(1795年)より前から、同じようなテーブルは使用されていたのである。蘭学者のテーブルも、じゅうらいの慣例とともにあった。すくなくとも、文人たちの伝統はふみはずしていないと判断する。

 ついでに書く。日本の食生活にテーブルをもたらしたのは中国人たちである。江戸期の長崎には、唐人とよばれた人びとが、おおぜいやってきた。その数は出島のオランダ人より、ずっと多い。そして、彼らは中国風の会食を、そのまま日本へもちこんだ。テーブルをかこむ形式もつたえている。

 これを、当時の日本人は卓袱(しっぽく)料理としてうけいれた。また、普及もさせている。卓袱は食卓にかける布を指す中国語である。卓袱料理は、テーブルクロスの上であじわう料理というほどの意味になる。これが日本では、「シッポク」という音とともにひろがった。

 のちの「チャブ」台も、漢字では卓袱台と書く。「シッポク」と同じ字であらわす。日本テーブル史の根に、中国からの感化があることは、うたがえない。少なくとも、異文化からの影響では、オランダより中国のほうが強かった。日蘭交渉史のみならず、日中交渉史にも、江戸文化理解では目をむけたいものである。

靴をはいた儒学者たち

 オランダ人は、蘭学をとおして、さまざまな文化を日本へつたえた。江戸期に西洋の文物をもちこんだのは、彼らである。しかし、建物のなかを土足で歩く生活習慣は、とどけられなかった。

 彼らは長崎滞在中に、そういうくらしぶりを見せつけている。だが、日本側の共感はえられていない。オランダを手本にしたがる人びとも、これはうけつけなかった。

 さて、屋根の下でも外履きですごすのは、オランダ人だけにかぎらない。江戸期に日本と交流のあった外国人のなかでは、中国人もそうだった。

 20世紀の末ごろから、中国人も家のなかでは靴をぬぐようになりだしている。だが、それ以前は、外履きとしてつかえる履き物を、どこでもはいていた。屋内でも、自宅までふくめ、靴履きをつづけている。その点では、西洋人と同じ生活を、彼らも維持してきた。

 そんな中国渡来の儀式に、釈奠(せきてん)がある。孔子と孔門十哲の画像をかかげてまつる式典である。江戸幕府は、これを儒者たちにとりおこなわせた。1691(元禄4)年からは、その場所を湯島聖堂に固定してもいる。

 その式次第をうつした「釈奠図」とよばれる記録がある(図4)。見れば、儀礼をすすめる儒者たちは、聖堂の屋内でも靴をはいていた。これに関しては、日本の生活習慣から逸脱してしまうことも、いとわない。本家の中国流にしたがうことを、彼らはよしとした。

図4:『釈奠図』国立公文書館、内閣文庫蔵(西山松之助・吉原健一郎『江戸時代図誌4 江戸一』1975年、筑摩書房より)

 蘭学に、そこまで日本の蘭学者らをつきうごかす力はない。しかし、中国を祖とする儒学は、屋内での土足を日本の儒者に受容させた。聖堂内でも靴をはくようしむける力が、こちらにはあったのである、履き物の歴史における、江戸時代の例外的な事態として、書きとめたい。

 もっとも、通常の儒学講習は、畳の上で靴などはかずにすすめられている。たとえば、図5の「聖堂講釈図」などで、そのことはよくわかる。儒者が屋内へ靴までもちこみ中国流にあやかったのは、釈奠という儀式だけであった。

図5:『聖堂講釈図』東大史料編纂所蔵(「週刊朝日百科 日本の歴史」より)

 ところで、この図5にも背の低いテーブルは登場する。旧幕時代におけるその希少性を強調しすぎるべきではないと、くりかえし書いておく。

 

*次回は、11月11日月曜日更新の予定です。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
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「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

井上章一

1955(昭和30)年、京都府生れ。京都大学大学院修士課程修了。国際日本文化研究センター所長。『つくられた桂離宮神話』でサントリー学芸賞、『南蛮幻想―ユリシーズ伝説と安土城』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。著書に『京都ぎらい』『学問をしばるもの』『美人論』『関西人の正体』『ヤマトタケルの日本史 : 女になった英雄たち』などがある。

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