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土足の限界 日本人はなぜ靴を脱ぐのか

2024年9月9日 土足の限界 日本人はなぜ靴を脱ぐのか

第7回 スリッパをはいて庭へでる

著者: 井上章一

「玄関で靴を脱いでから室内に入る」。日本人にとってごく自然なこの行為が、欧米をはじめ海外ではそれほど一般的なことではない。建築史家であり『京都ぎらい』などのベストセラーで知られる井上章一さんが、このなにげない「われわれのこだわり」に潜む日本文化の隠された一面を、自らの体験と様々な事例をもとに考察する。

オランダのスリッパは

 日本のホテルは、たいてい客室にスリッパをそなえている。宿泊者は部屋へはいると靴をぬぎ、すぐスリッパにはきかえることができる。その提供は、標準的なサービスのひとつになっている。

 いっぽう、欧米のホテルにスリッパを常備しているところは、あまりない。部屋のなかを、靴ははかずにすごしたがる人が、少ないせいか。くらべれば、スリッパへのこだわりは、欧米より日本のほうが強い。

 そのせいだろう。この履き物は日本でつくられたと、なんとなく考える人も、けっこういる。

 だが、そんなことはない。江戸時代の長崎にいたオランダ商人たちは、スリッパの常用者である。まだ、日本にスリッパがでまわる前から、彼らはそれをつかっていた。

 私にそう言われ、反論をかえした人がいる。オランダ人たちは、日本へきてスリッパを考案したんじゃないか。そして、その着想にさいしては、草履がヒントをあたえた可能性もある。靴と草履の中間的な履き物が、長崎の出島で浮上した。それこそが、スリッパの祖型だっただろう。だとすれば、ひろい意味でのメイドインジャパンにかぞえうる、と。

 似たような想いをいだく人は、ほかにもいそうな気がする。ねんのため、そうではないことがわかる資料を、いくつか披露しておこう。

 図1を見てほしい。「豆の王様の祝宴」と題された絵画である。制作したのはヤン・ステーンというオランダの画家であった。制作年代は1668(寛文8)年だとされている。

ステーン『豆の王様の祝宴』(『名画への旅13 17世紀Ⅲ 豊かなるフランドル』講談社、1993年より)

 17世紀の農村生活をとらえた、一種の風俗画である。酒によった人びとの宴会風景が表現されている。象徴的な寓意も、たくさんもりこまれていそうである。

 画面の手前にいる、大きくえがかれた男女の足元をながめてほしい。どちらも、足先しかつつまない履き物をはいている。その底面は、はなはだうすっぺらい。うたがいようもなく、両者がひっかけているのはスリッパである。

 この絵がリアリズムで描写されていると、言うつもりはない。画家は現実の情景をこえた何かも、あらわそうとしていたろう。その都合で誇張されたところだって、あったかもしれない。

 しかし、生活の細部、民具や服装などは、リアルに表現されていただろう。絵にこめられた寓意がなんであれ、この時代にはスリッパが実在した。そのことまでうたがう必要はないと考える。

 あと一点、オランダの絵を紹介しておこう。サミュエル・ファン・ホーフストラーテンという画家に、「スリッパ」という作品がある。17世紀、日本で言えば江戸前期の絵画である(図2)。

サミュエル・ファン・ホーフストラーテン『スリッパ』ルーブル美術館蔵(『女のイマージュ―図像が語る女の歴史』藤原書店、1994年より)

 画面には、ふたつの部屋がえがかれている。手前の部屋と奥の部屋である。両室のあいだには通路があり、そこには一足のスリッパがおかれていた。右側から通路へさしこむ光は、これをてらしだしている。絵の主題が、タイトルどおりスリッパにあることは、あきらかである。

 住み手は、通路でスリッパと靴をはきかえていた。絵の手前と奥は、スリッパ用の空間と靴用の空間にわけられている。具体的に、どういう履き分けがなされていたのかは、わからない。しかし、スリッパと靴を併用する生活が、17世紀のオランダにはあったようである。

 出島のオランダ商館でも、スリッパと靴は、ともにもちいられた。がいして、畳の部屋ではスリッパがはかれやすかったと思う。そして、そういう生活様式は、畳がない本国のオランダにもあった。スリッパを、ことごとしく日本起源とみなすべきではない。

ロシアや英米でも

北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』という文献がある。1794(寛政6)年にまとめられた。大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)という船頭のロシア見聞記である。

 1782(天明2)年に海難事故で、光太夫はアリューシャン列島の島へたどりつく。以後、十年にわたり、その島やロシアでの生活を余儀なくされた。日本へかえってからは、桂川甫周(かつらがわほしゅう)に漂白の体験を語っている。これは、甫周がしるした聞きとりの記録であり、幕府の調書でもある。

 なかには、挿図もそえられた。ロシアの食器や衣服などが、イラストでしめされている。靴類をならべたところには、スリッパの絵もおさめられていた。どうやら、ロシアでもスリッパは使用されていたようである。

 そして、編者はそれを日本へ紹介するにあたいする履き物だと、判断した。日本にはない、ロシアならではの生活品だとうけとめている。図案化したのも、そのせいであろう。

 光太夫の遭難から、おおよそ三十年ほどたったころのことである。やはり、ロシアとかかわる、べつの事件が勃発した。クナシリ島の測量につとめていたロシア海軍のゴロウニンを、幕府が捕縛したのである。また、1813(文化10)年に釈放するまで、幕府は彼を捕囚としてあつかった。

 そのゴロウニンが、日本での幽囚体験を書いている。そこに、草履をはく日本人へのコメントがのっていた。「われわれがスリッパをはく時のやうに、手もふれずに、至つて便利さうに草履をはき」、と(『日本幽囚記・下』1946年)。

 ゴロウニンは、スリッパを「われわれ」の履き物だととらえていた。日本にもスリッパがあったとは考えていない。彼にとって、日本で見た草履は、その類似品でしかなかったのである。

 アメリカで、いわゆる奴隷解放宣言が発表されたのは1863(文久3)年であった。その文章をまとめたのは第16代大統領、エイブラハム・リンカンである。

 ここに、「奴隷解放宣言を執筆するエイブラハム・リンカン」という絵がある。宣言の発表と同じ年に制作された。えがいたのは、デイヴィッド・ギルモア・ブライズという画家である。これを、図3として紹介しておこう。

ディヴィッド・ギルモア・ブライズ『奴隷解放宣言を執筆するエイブラハム・リンカン』カーネギー美術館(『アメリカン・ヒロイズム』田中正之、国立西洋美術館、2001年より)

 リンカンは椅子にすわり、テーブルの上で文案をまとめようとしている。そのためにつかう資料であろうか。新聞をはじめとする多くの文献を、身のまわりへ乱雑においている。ちらかった室内の様子は、執筆に没頭する精勤ぶりをほのめかしてもいたろうか。

 さて、草稿へむきあうリンカンは、スリッパをはいていた。この履き物に、ヒール部分の厚みはない。底面は、全体的にひらべったくできている。サンダルと混同されうる余地はない。画面のリンカンがはいていたのは、まごうことなきスリッパであった。

 リンカンは上着のジャケットをはおっていない。ワイシャツの袖をめくり、襟元のボタンもはずして、仕事をした。大統領らしい礼装からは、ほど遠い。いたってラフないでたちになっている。スリッパは、肩肘はらないそんなよそおいを強調するためにもちこまれた小道具か。

 もちろん、この絵は、まったくの虚構だった可能性もある。しかし、とにかく南北戦争期のアメリカに、スリッパは実在した。靴よりは奥むきの、ややルーズな履き物としてイメージされていたことも、しのびうる。

 こんどは、イギリスの絵を提示しておこう。その標題は「エリザベス女王と3人の女神たち」(図4)。16世紀にえがかれた。まだ、オランダ商人が日本へくる前の絵画である。一説には、ハンス・イワースの作品だとされる。真偽はわからない。

ハンス・イワース(?)『エリザベス女王と3人の女神たち』( 『名画への旅13 17世紀Ⅲ 豊かなるフランドル』講談社、1993年より)

 この三女神は、トロイア戦争とかかわるギリシア神話で知られている。「パリスの審判」にむきあうヘラ、アテネ、そしてアフロディーテの三人である。だが、この絵は16世紀のイギリスをえがく画面に、彼女たちを登場させた。時代設定をおくらせ、女王エリザベスを賛美するために、ひっぱりだしている。

 画面右側にいるふたりの女神ははだしである。この点では、女神描写の常套が踏襲されている。だが、女王といちばん近いところにいる女神は、スリッパをはいていた。トロイア戦争時代の古代ギリシアにスリッパがあったとは、言わない。しかし、これのえがかれた16世紀には、まちがいなく存在した。

 ざんねんながら、スリッパの歴史的な起源へさかのぼることはできない。だが、そうとう古くからあったことは、うけあえる。日本では、ようやく幕末以後になって、ひろがりだした。本格的な普及は19世紀末以後の現象であろう。スリッパの歴史に関するかぎり、日本は後発地だと言うしかない。

屋外のスリッパ

 「エリザベス女王と3人の女神たち」に、もう少しこだわる。女神たちのポジションに、目をむけてほしい。はだしの二女神は、屋外でポーズをとっている。いっぽう、スリッパの女神は、建物と外側の境目にあたるところで、体をひねっていた。さらに、そこでスリッパをかたほうはずしている。ここは、履き物をかえる場所だったことが、うかがえる。

 くりかえすが、神話の女神ははだしの姿で、ふつうえがかれる。スリッパの女神も屋外では、はだしになろうとしたのだろう。逆に言えば、女王と同じフロアーへとどまっていた時は、スリッパをはいていた。どうやら、スリッパは室内履きとして位置づけられていたようである。

 ただ、はきかえの場所は石畳の端に設定されていた。空間的には、壁の外側に位置している。雨風のあたる場所である。夜露にもさらされる。日本家屋で靴を着脱する玄関の三和土(たたき)も、内外の接点だが、屋内にもうけられている。その点で、両者は対極的である。

 ともかくも、建物の周辺ぐらいまでなら、西洋人はスリッパで外へでることがあった。上下足の分離に、彼らは日本人ほどこだわらない。室内用とされたスリッパのまま、屋外へ足をふみだすことも、ありえたろう。

 江戸期に来日したオランダ商人は、しばしばスリッパ履きで日本人の家をおとずれた。スリッパを外出用にもつかっている。この外履き選択は、図4でしめされたようなスリッパ利用の、その延長上に位置づけうる。彼らは西洋流の生活を、日本にもちこんでいたのである。

 時代はずいぶん下るが、図5を見てほしい。『読売新聞』(1903[明治36]年8月21日付)にのったイラストである。えがかれたのは、女子改良服の一案であった。作画をてがけたのは梶田半古(かじたはんこ)。これからの女子は、こういう衣服をまといましょうという提案のひとつである。当時は、改良服のアイデアを出すことが、けっこうはやっていた。

梶田半古、『読売新聞』1903(明治36)年8月21日より

 図を見ると、下には草がはえている。背景は、まちがいなく野外である。そして、モデルとなった女性は、スリッパをはいていた。屋外でのスリッパ着用は、日本でもうけいれられていたことが、うかがえる。

 図6は、将棋の名人戦で対局をおえた木村義雄と塚田正夫の写真である。『サン写真新聞』(1947[昭和22]年5月15日号)から、転載した。見れば、左側の木村名人(当時)は、スリッパで沓脱ぎ石をふんでいる。右側の塚田にもスリッパ履きの可能性はある。その足元は影になっており判然としないのが、ざんねんである。どうやら、日本でも、20世紀のなかばごろまでは、スリッパでの外歩きがありえたらしい。

図6:『サン写真新聞』1947(昭和22)年5月15日号より

 こういうスリッパの利用法は、西洋に源流がある。スリッパだけが舶来だったわけではない。しばらくのあいだは、西洋式に外履きとしてもつかってきたのである。これを室内履きに純化させていったのは、現代の日本人だと言うしかない。

 外履きと内履きの区分けを明確にさせる。スリッパに関しては、そういう日本文化の力がなかなか作動しなかった。ようやく、20世紀の後半になって、はたらきだしたようである。

 

*次回は、10月14日月曜日更新の予定です。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
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「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

井上章一

1955(昭和30)年、京都府生れ。京都大学大学院修士課程修了。国際日本文化研究センター所長。『つくられた桂離宮神話』でサントリー学芸賞、『南蛮幻想―ユリシーズ伝説と安土城』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。著書に『京都ぎらい』『学問をしばるもの』『美人論』『関西人の正体』『ヤマトタケルの日本史 : 女になった英雄たち』などがある。

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